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最終章

最終章

 昼過ぎのロンドン・ブリッジ駅周辺は、人で溢れていた。馬車の軋む音、呼び込みの声、靴底が石畳を叩く無数の足音。それらすべてが、イアンの耳には、遠い水音のようにしか届かなかった。

 少年は、歩いていた。いや、歩いているはずだった。自分の足が前に出ている感覚がない。どこへ向かっているのかも分からない。ただ、気がつけば、ロンドン橋の上に立っていた。欄干に手をかける。冷たい石の感触だけが、妙に現実だった。風が吹く。テムズ川の匂い、酷く濁った水面に、空と街と、人影が混じって揺れている――終わらせてくれ。その言葉が、頭の中で反響し続ける。

 一体、誰の声だったのか、もう判別できない。ただ、あの瞬間の光景だけが、焼き付いたまま消えない。血の色。床に伏した身体。名前を呼んでも返らなかった声。涙は出なかった。泣く、という行為そのものが、どこか別の世界の出来事のように思えた。

 通行人が肩をぶつけても、謝罪の声が飛んでも、イアンは反応しない。視線は、ただ川の流れを追っている。流れているのは水なのか、時間なのか、それとも――自分の中にあった何かなのか。ここに立っている理由も、ここに来た経緯も、曖昧だった。

 ただ一つ、確かな感覚がある。自分は、この世界に残されてしまった。代わりに刺されたこと。代わりに選ばれなかったこと。代わりに、生きていること。それらすべてが、理解ではなく、重さとして胸に沈んでいた。

 少年は、躊躇なく欄干に手をかけ、ゆっくりとその上に立った。高い位置に立ったはずなのに、恐怖はなかった。心臓も、早鐘を打たない。ただ、空気が少しだけ、遠くなった気がした。見下ろす景色は、不思議なほど美しかった。テムズ川に行き交う船。橋の上を流れる人の群れ。そのすべてが、均等に、無関心に存在している。だが、言葉は浮かばなかった。

 泣くことも、叫ぶことも、祈ることもできない。ただ、胸の奥に空洞があって、そこから風が吹き抜けていくだけだ。

 イアンは、しばらくの間、欄干の上で景色を眺めていた。落ちることも、戻ることもせずに。

 やがて、少年は静かに歩み出す。生きると決めたわけではない。死ぬと決めたわけでもない。ただ、今はまだ歩けただけ。イアンは、再び人の流れの中へ戻ることなく、欄干の上を歩き続ける。誰にも声を掛けられず、誰の記憶にも残らないまま。

 ロンドン橋の上で、ひとつの悲劇が終わった。そして、別の悲劇が、静かに始まったことも、この街は、何ひとつ知らない。テムズ川だけが、すべてを映しながら、何事もなかったかのように流れ続けていた。また一歩、踏み出す。

 人の波に押されることもなく、再び歩き出す。どこへ行くかは、まだ決められない。決めてはいけない気がした。

 選ぶことは、あの人が託したものだったから。ロンドンの喧騒の中で、イアンは静かに、完全に孤立していた。

 すると、足裏に僅かな違和感が走った。それが何だったのか、少年は最後まで分からなかった。濡れた石なのか、擦り切れた靴底か、あるいは、自分自身の重さか、次の瞬間――世界は静かに傾いた。音が消え、視界が空に向かって反転する。

 声にならない音だけが喉を抜け、身体は抵抗もなく滑った。欄干の感触が、指先からすり抜ける。掴もうとしたのか、それとも、最初から掴む気がなかったのか。判断する前に、足場は失われていた。

 落ちる、という感覚だけがあった。恐怖ではない。決意でもない。ただ、重力に引かれているという、あまりにも単純な事実。水面が、急速に近づく。次の瞬間、衝撃が全身を包み込んだ。冷たさと硬さが同時に襲い、息が、強引に奪われる。世界は一度、完全に白く弾けた――静かに音が戻る。

 橋の上で、誰かが叫んだ。

「落ちたぞ!」

「今の見たか?」

「誰か警察スコットランド・ヤードを呼んで!」

 人々が、欄干に駆け寄る。帽子が落ち、バッスルスカートが翻り、指差す手が重なった。覗き込む顔、歪む表情、息を呑む音。橋の上には、突然生まれた円があった。好奇と恐怖と混乱が混ざり合った、即席の輪。

 だが、テムズ川は何も答えない。濁った水面は、先ほどと変わらぬ顔で揺れている。波紋だけが、遅れて広がり、やがて、他の波に紛れて消えていく。

 橋の上では、人々がざわめき続けていた。誰かが祈り、誰かが目を背け、誰かが、最後まで見届けようと身を乗り出す。

 けれど――その中心にいたはずの少年の名を、知る者はいない。ロンドン橋は、今日も人を運び続ける。ひとつの落下があったことも、そこに託された言葉があったことも、やがて喧騒に溶けていく。テムズ川だけが、変わらぬ速さで流れながら、何も語らず、何も選ばず、すべてを受け止めた。

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