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二十八章

二十八章

 馬車を降りたルーナは、外套の襟を正しもせず、目の前に聳える黒い門を見上げた。鉄製の門扉は過剰なほど装飾され、蔓草を模した意匠が絡み合っている。まるで、最初から逃げ道など用意されていないと告げるかのように――躊躇はなかった。門に触れた瞬間、重い音を立ててゆっくりと内側へ開く。足を踏み入れた先に広がっていたのは、灰色の空とは不釣り合いなほど、あまりにも整い過ぎた庭園だった。刈り込まれた生垣は寸分の乱れもなく、冬を迎える前の花々でさえ、枯れることを許されていないかのように配置されている。美しい。だからこそ、気味が悪かった。ここには偶然などない。手入れの行き届いた小径も、左右対称の花壇も、噴水の位置でさえ、すべてが、誰かの意志の延長だ。

 妹は一歩、また一歩と歩みを進める。靴底が砂利を踏む音が、やけに大きく響いた。まるで、自分の存在そのものが、この場所では異物であると告げられているようだった。

「連れて行かせない」低く呟く。声は震えていなかった。

 ルーカスの顔が脳裏に浮かぶ。あの、何も言わずに抱え込もうとする横顔。血だの、家だのそんなもののために、兄が奪われる理由など、どこにもない。庭園の奥、屋敷の輪郭が見え始める。石造りの外壁は暗く、窓はすべて、外を拒むかのように高い位置にある。歓迎ではない。選別のための場所だ。ルーナの指先が、外套の内側に触れた。そこにある感触を、確かめるように。冷たい金属――よく研がれた裁縫鋏。針と糸で守ってきた日々が、ここでは役に立たないことを、彼女はもう理解していた。

 だが、切ることなら知っている。布を、糸を――そして、奪おうとするものを。屋敷の扉へと続く石段の前で、妹は立ち止まった。深く息を吸い、吐く。ここは、ルーカスを呼ぶ場所。そう、自分に言い聞かせてから、彼女は一段目に足をかけた。庭園は、何も答えない。ただ、完璧な沈黙のまま、彼女を屋敷へと導いていた。二段、三段。石段は均一で、躓く理由すら与えない。手入れの行き届いた蔓薔薇が、門から玄関へと視線を誘導するように弧を描いている。その美しさは、拒絶のために計算されたものだった。呼吸を整える。朝の空気は冷たいはずなのに、胸の奥だけが、酷く熱い。

 正面扉の前で、妹は立ち止まった。重厚な木扉。黒光りする金具。訪問者を選別するための沈黙――ここは、話し合う場所。そう思おうとして、言葉が喉に引っかかった。話し合い、という語は、この屋敷には似合わない。

 扉を叩く前に、内側で微かな気配が動いた。規律正しい足音。扉は、内から開かれる。

 現れたのは、年老いた執事だった。背筋は真っ直ぐで、表情は石のように平らだ。

「ご用件を」その声には、質問以上の意味が含まれていない。ルーナは、一拍遅れて脣を開いた。

「ルーカス・テューダーの妹です。兄の件で、こちらに」

 執事の視線が、彼女の顔から、手元へと落ちる。指先。袖口。何も持っていない――そう見える位置だけを、彼女は選んでいた。だが、沈黙が、ほんのわずかに長くなる。

「お名前は」

「ルーナ」それだけで十分だと言わんばかりに、執事は一度だけ頷いた。

「お入りください」

 扉が開いた。室内の空気は、外よりも冷えていた。磨き上げられた床が、彼女の靴音を正確に返す。音は吸われない。全て記録されるように響く。

 広間へ続く廊下は長く、一直線だった。逃げ道はない。だが、妹は歩いた――兄を呼ぶ。その目的だけが、ルーナを前へ進ませる。

 ふと、どこかで女性の笑い声がした。柔らかく、愉しげで酷く場違いな音。妹は足を止めなかった。笑いの主を見なくても、分かっている。この屋敷は、誰かを迎えるために建っているのではない。誰かを選別するために、ここに在る。

それでも、ルーナは進んだ。裁縫鋏の冷たい重みを、思い出さないようにしながら。朝は、まだ終わっていない。だが、取り返しのつかない時間は、すでに動き出していた。

「まあ、まさかルーカス・テューダーではなく、その妹がやってくるとは――どのようなご用件かしら?」

 その声は、広間の奥から届いた。姿はまだ見えない。だが、空気が変わる。温度ではない。密度だ。言葉そのものが、場を支配する気配を帯びている。

 ルーナは立ち止まり、ゆっくりと振り向いた。

「話す相手は、あなたなの?」

「ええ。少なくとも――選ぶ側としては」

 柱の影から、女が現れた。完璧に整えられた姿。喪服を思わせる深い色のドレス。年齢は測れない。若いとも、老いているとも言えない。ただ、確実なのは、この屋敷がシャーロットの美意識によって形作られているという事実だった。

 彼女は、微笑んでいた。歓迎のためではない。観察のための微笑だった。

「あなたがルーナね。……なるほど」

 視線が、値踏みするように妹の全身をなぞる。

「血は、兄の方が濃いと思っていたけれど――案外、あなたの方がよく()()

 妹は、僅かに眉を顰めた。

「兄を返してもらいに来ただけよ」

「返す?」シャーロットは小さく笑った。「面白い言い方をするのね。奪ったつもりはないわ。ただ、正しい場所に戻そうとしているだけ」

一歩、彼女が近づく。その距離に、執事は口を挟まない。止める必要がないからだ。

「兄は、仕立て屋よ。ここに属する人間じゃない」

「属する、属さないを決めるのは、本人ではないわ」

 柔らかな声で、残酷なことを言う。

「血は、呼ばれるものよ。拒めば拒むほど、強く」

 ルーナの指先が、外套の内側でわずかに動いた。その変化を、シャーロットは見逃さない。

「あら……」唇が、愉しげに歪む。

「あなた、何か持っているでしょう?」

 空気が、一瞬にして張り詰めた。だが、妹は動かない。

「関係ないわ」

「いいえ。とても関係がある」

 彼女は、まるで花の話をするように続ける。「血は、言葉だけでは足りないときがある。そういうとき、人は――刃に頼る」

 その一言で、確信された。この女は、すでに知っている。手紙の先に何が起こるかを。兄が悩み、妹が壊れていく、その道筋を。

「安心なさい」

 シャーロットは、静かに両手を広げた。

「ここは朝よ。悲劇には、まだ早い」その言葉が、なぜか、脅しに聞こえた。

「今日は、ただ話をしましょう」視線が、ルーナの瞳を捉える。

「あなたが、どこまで()()()()()になれるのかを」

 妹は、一歩も退かなかった。恐怖がないわけではない。だが、それ以上に、確信があった――この女は、兄を人として見ていない。道具として見ている。だからこそ、ここで引くわけにはいかなかった。

「話は短くして」声は低く、硬い。

「兄は、あなたの舞台には上がらない」

 シャーロットは、声を立てて笑った。「本当に……血というものは、美しいわね」

「確かに血は美しいわ」ルーナは外套の内から裁縫鋏を取り出した。躊躇いなどなかった。妹は、布を断つときと同じ距離感で、一歩だけ踏み込み、彼女の腹部に、正確に刃を沈めた。彼女は声を上げなかった。それが、この屋敷で起きた最初の【想定外】だった。シャーロットは、何かを言おうとしたが言葉は形にならず、膝が崩れ、完璧に保たれていた姿勢が、静かに床へと失われていった。

 ルーナは、沈めた刃を静かに抜き取ると廊下の奥で、気配が揺れる。息を呑む音、慌てて引き返す足音、屋敷はようやく異変を理解し始めていた。

 妹は再び歩き出す。逃げる者を追うためではない。血によって名を与えられた者たちを、探すために――完璧に整えられた廊下、均等な間隔で並ぶ扉、ここでは、人もまた【配置】されている。

 彼女は知っている。糸を辿れば、必ず縫い目に行き着くことを。背後で誰かが叫んだ。制止の声か、悲鳴か、それとも命令か――聞き分ける必要はない。ルーナは振り向かなかった。

 これは、交渉ではない。これは、選別への反論だ。朝は、まだ終わらない。だが、グレイ家が信じてきた秩序は、確実にほどけ始めていた。血が、血を裁く音だけが、この屋敷に、新しい規則を刻み込んでいく。 扉をひとつ、ひとつ開けていく。

 どの部屋も整えられ、どの空気も同じ匂いがした。秩序、選別、管理――愛ではない。最後の扉の前で、妹は足を止めた。理由は分からない。ただ、ここだけが、これまでとは違っていた。扉を押し開ける。

 そこにいたのは、自分と同じ白い髪と、紅い瞳を持つまだあどけなさの残る娘だった。鏡写しのようでいて、決定的に違う存在。この屋敷に残す選ばれた血。部屋の隅には、老いた乳母と、その娘が控えていた。庇うように前に出る乳母の動きは、遅い。その必死さが、かえって、この場所の残酷さを際立たせていた。

 ルーナは、首を傾げる。なぜ、守られているのか? なぜ、この子はここにいるのか? その答えは、最初から分かっていた。布を断つときと同じ距離で、妹は一歩踏み込む。乳母を押し退ける動作に迷いはなかった。叫びは上がったが、屋敷はそれを吸い込んだ。ここでは、声は意味を成さない。

 娘は、何も理解していなかった。理解する前に、この屋敷が与えてきた役割ごと、静かに終わった。

ルーナは、刃を下ろす。それ以上、そこに留まる理由はなかった。部屋を出るとき、彼女は一度だけ振り返った。そこにあったのは、未来ではない。選ばれた血が、守られていた痕跡だけだった。

 廊下に戻ると、まだ扉は残っている。まだ、名前のある血が残っている。この呪われた血を絶たなければ、兄は舞台に立つこととなる。その宿命だけは、避けたい。妹は再び歩み、扉をひとつ、またひとつと開けて行く。すると、そこには痩せ萎びた老人のような男――この屋敷の主人だ。その傍らに立つ少年は、濡羽色の髪と勿忘草色の瞳を持っており、まだ成長の途中にある身体を場違いなほど整った衣服に包まれていた。視線だけが、異様に静かだった。そして、理解は、刃よりも早かった。()()()()は、すでにここにある。妹の指が強く鋏を握る。主人が息を呑んだのが分かった。だが、少年は動かない。逃げもしない。恐怖すら、まだ名前を持たないような顔でこちらを見ている。

「……君はルーナ? 私はラファエル・グレイだ。何故、返り血を浴びているのだ?」ラファエルの声は、掠れていた。怒りでもなく、悲嘆でもない。ただ、事態を理解しきれない者の声だ。

「兄は来ないわ」ルーナはそれだけ言った。説明はしない。許可も求めない。ここは、言葉で解決する場所ではない。

「あなたたちが、選んだ結果よ」誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。主人が一歩、前に出ようとする。その瞬間、妹の視線が、少年に落ちる。刃は、まだ動かない。動かせない。

 少年の目が、ほんの僅かに揺れた。怯えではない、拒絶でもない、理解だ。自分が、ここに立つ理由。この屋敷が、何を求めてきたのか。そして、自分が【次】であること。少年は、それを既に察してしまったのだ。

 ルーナの呼吸が、一拍、遅れる。「……あなた」

声が、僅かに低くなる。

「名前は?」

 少年は、答えるまでに一瞬だけ迷い、やがて静かに言った。

「イアン・グレイ」

 その名が、胸の奥で、不快な音を立てた。血の名。舞台に立たされるための名だ。

「……そう」それだけで、十分だった。

 妹は、ラファエルの方へ、初めて視線を向けた。その目には、怒りも憎しみもない。ただ、計算された断絶だけがあった。

「……あなたが、生きているから」言葉と同時に、彼女は踏み込んだ。裁縫鋏は、布を断つ距離で、正確に突き出される。刃は、胸を深くは避けた。肋骨の隙間を狙い、肺を裂く一歩手前で止まる。それでも、衝撃は十分だった。

 主人は低い呻きを漏らし、床に崩れ落ちる。血がじわりと石の床に滲んだ。致命ではない。だが、立てない。

「安心して」ルーナは、倒れた主人を見下ろして言った。

「あなたは、生きるわ。――生きて、失う」

 その瞬間だった。

「お父さん!」イアンが、叫んだ。妹の視線が、ゆっくりと少年に移る。濡羽色の髪、勿忘草色の瞳。血の中心に立つために用意された異質な存在。この子を、兄の代わりにはしない。だが、この血をここで断たなければならない。ルーナは、無言で一歩踏み出した。

 イアンは、瞬時に理解した。この女は、交渉しない。選別するのだと。

 「来るな!」叫びながら、少年は後退する。だが、妹の足取りは速かった。迷いがない。鋏が振り上げられる。その瞬間――ラファエルの呻きと同時に、背後の扉が軋んだ。

 イアンは、反射的に身を翻し、廊下へ飛び出した。ルーナはすぐさまに後を追った。

 廊下は長く、無慈悲だった。磨かれた床は足音を吸わず、二人の呼吸と靴音を正確に反響させる。

 少年はひたすら走る。何も分からない。ただ、生きなければならないという本能だけで。

「止まりなさい!」妹の声が、背後から飛ぶ。

「あなたが生きている限り、この先もずっと、ずっと兄は呼ばれ続ける!」

 イアンは答えない。いや、答えられないのだ。廊下へ、階段へ、屋敷の奥へと逃げる。軽い靴音が、確実に背後から迫る。

「逃げても同じよ」声は荒れていなかった。追い詰める獣のものではなく、仕事を終わらせる者の声だった。曲がり角、行き止まり、壁際に追い詰められた少年は呼吸も忘れ、震える背を石に預ける。

 刃が、ゆっくりと持ち上がった。ここで終わる! そう思った、その瞬間だった。

「ルーナ!」聞き慣れた声が、空気を切り裂いた。ルーナが振り返るより早く、誰かがイアンの前に滑り込む。

 ルーカスだった。迷いはなかった。庇う、というより割り込んだ。

「やめるんだ!」叫びと同時に、刃が振り下ろされる。避ける暇などなかった。鋏は、背中ではなく、腹部のさらに深部へ。臓器を狙った、致命の位置。

 空気が、抜けるような音が響き、兄の体が、前に崩れた。床に落ちる前、ルーカスは必死に腕を伸ばし、少年を突き飛ばす。

 血は止まることを知らない。指の隙間から、温かいものが溢れていく。

 妹は、刃を抜いたまま、動かなかった。初めて――本当に、初めて。目の前で倒れたのが、守るべき存在だったから。

「……ルーカス?」その名を呼んだ声は、先ほどまでの鋭さを、完全に失っていた。

 兄は答えない。ただ、浅く、苦しそうに呼吸をしている。

 イアンは、恐怖に固まりながらも、その光景を目に焼き付ける――この人は、僕の代わりに刺された。そして、何故庇うように割り込んだのかをまったく理解出来なかったのだ。

 ルーナは一歩下がった。血の声は、まだ消えていない。だが――それはもう、美しい衝動ではなかった。取り返しのつかない現実だけが、床に広がっていた。

 ルーカスは血を吐きながら、それでも視線だけは、イアンを離さずこう言った。「……そ、それを、……君の代で終わらせてくれ……」それは命令ではなかった。祈りでもない――グレイ家の正しい未来への託しだった。

 少年は、その言葉の重さを理解する前に、膝が震え、息が詰まる。自分の代で終わらせる? 一体何を? どうやって? だが、その問いに答える前に、現実が迫ってくる。妹は、一歩、下がっていた。刃を持つ手が、明らかに震えている。さっきまでの正確さはない。布を裁つときの静かな集中もない。床に広がる血を、ルーナは静かに見ていた。

 自分が守るはずだった兄の血。選ばれるはずのない子の前で、倒れた【代わり】。

「……ねえ、ルーカス?」名を呼ぶ声は、僅かに震えていた。返事はない。もう、どこにも……床に横たわる身体は、血を失いきり、とうに温度を手放している。その事実を、妹は理屈ではなく、皮膚で理解していた。触れなくても分かる。生きている者と、そうでない者の違いは、あまりにも明白だった。

 血の声は、まだ残っている。だがそれは、もはや彼女を導く囁きではなかった。選別でもない、使命でもない、美学ですらもすらない。ただ、取り返しのつかない現実だけが、静かにそこにあった。

 イアンは、その場から動けずにいた。恐怖に縫い止められながらも、目を逸らすことができなかった――この人は、自分の代わりに刺された。何故、庇ったのか。何故、命を差し出したのか。理解できないまま、ひたすら涙だけが落ちていく。

 ルーナは一歩、後ろへ下がった。刃を握る手が、僅かに震えている。かつては迷いなく振るえたその手は、もう命令を聞かなかった。

「……終わったのね」それは、確認だった。同時に、宣告でもあった。兄のいない世界。唯一の肉親であり、すべてだった存在を失った世界。名を呼んでも、穏やかな声は返らない。叱ることも、笑うことも、もう二度とない。優しい微笑が泛ぶこともない。その瞬間――妹の中で、世界は完全に崩壊した。残されたものは何もない。守る理由も立ち続ける意味も――ルーカスのいない世界など、無に等しい。そう判断したとき、ルーナの中で、血の声はようやく完全に沈黙した。刃は、躊躇いなく、自分へ向けられた。それは衝動ではなかった。逃避でもなかった。選び取った結末だったのだ。

 床に広がる血の中で、妹は静かに倒れた。呼吸はなく、指先も動かない。その場に残されたのは、沈黙と、終わった身体と、それを見てしまった少年だけだった。朝は、まだ終わっていない。だが、この屋敷で紡がれた悲劇は確かにここで終わったのだ。

 

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