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二十七章

二十七章

 朝食を済ませ、冷気に包まれながらもテューダー・リジーの開店準備をするルーカスの元に、一通の手紙が来ていた。扉の外で、鈴が大きく鳴った。客ではない。朝のこの時間に訪れるのは、決まって小さな配達人だけだ。

 兄は手袋を外し、まだ火の入っていない店内を横切って扉を開けた。

「郵便です」短く告げられ、差し出された封筒を受け取る。白い厚手の紙は余計な装飾はなく、だが、安物ではないことが、指先に触れただけで分かる。配達人が去り、扉を閉めると、外の冷気は遮断されたが、手紙の冷たさだけが残った。

 宛名を見る。――ルーカス・テューダー様。あまりにも整いすぎた文字で癖がなく、感情がない。書き手の人格が、意図的に消されている。それだけで、胸の奥が僅かに軋んだ。

「グレイ家……」その呟きは、店内に吸い込まれて消えた。封蝋は深い色合いで、赤とも黒ともつかない。紋章が刻まれている。盾と、絡み合う蔓。かつて亡き母から聞いたことがある。忘れたふりをしてきた名だ。

 兄は、すぐには封を切らなかった。カウンターに手紙を置き、作業台へ戻る。布を広げ、針を整え、今日仕上げるはずの上着に目を落とす。だが、視線は何度も、白い封筒へと引き戻された。窓の外では、朝の光が淡く差し込み、石畳の端に残る霜を白く縁取っている。冬にはまだ早い。だが、確実に、季節は一線を越えつつあった。

 読むべきではない。だが、無視できる類のものでもない。兄は、深い溜息を洩らした。

「……断ろう」

 誰に聞かせるでもなく、そう言い切ってから、ようやく封蝋にナイフを入れた。

 蝋が割れる乾いた音。その瞬間、胸の奥に、言いようのない不安が滑り込んでくる。これは招待ではない。選択肢を装った、通知だ。紙を取り出し、目を落とす。まだ読んでいないが、もう分かってしまった。この手紙は、二人を引き裂くように書かれている。そして、拒めば、それで終わる類のものではない。

 ルーカスは、静かに目を閉じた。店の時計が、いつも通りの正確さで時を刻んでいる。それだけが、今も変わらない現実だった。そして、覚悟を決めたかのように、兄は手紙に目を落とした。そこには、兄が予想していた言葉が書かれていた。――限嗣相続。それは選択肢ではなく、提示された事実。拒めば後がないことを、彼は手にした紙の冷たさから直感する。

 ルーカスはゆっくりと息を吐いた。胸の奥で、無言の覚悟が静かに形作られていく。

「やはり、来るべきものか」誰に聞かせるでもなく、低く呟く。手紙を置き、針と布に目を戻す。だが視線は何度も、封筒の白さと封蝋の深い色合いに戻ってしまう。冷気に包まれた店内に、静寂とともに不穏な運命の影が、そっと忍び寄った。

 ルーカスは手紙を前に、指先で封を軽く押さえたまま、深く考え込む。その結果、手紙を畳み、封筒に戻した。封蝋は割れている。元に戻せないことだけが、やけに明瞭だった。それを、作業台の引き出しに入れた。布の下、型紙の影になる場所。外からは見えない。見せないつもりだった。

 そのとき、奥から足音がした。ルーナは、開店前の支度を終えたらしく、袖をまくりながら店に出てきた。湯気の名残を帯びた空気が、僅かに彼女の背後から流れ込む。

「糸、足りてる?」

「問題ない」

 即答だった。少し早すぎた。妹はそれ以上踏み込まず、カウンターの端に置かれた帳簿を手に取る。いつもの動き、いつもの朝――だが、視線が一瞬だけ、引き出しに落ちた。彼女は何も言わなかった。それが、兄には逆に引っかかった。

「今日は静かそうね」

「そうだね」

 ルーナは帳簿を戻し、代わりに作業台の上に置かれた布を畳もうとして、ふと手を止めた。

 布の端から、白い角が覗いている。

「……これ、型紙?」妹の指先が、触れる。

 ルーカスが声を上げるより早く、それを引き抜いてしまった。厚手で、異様に上質な紙。兄の喉が、僅かに鳴った。

 ルーナは、まず宛名を見た。そして、その名前を読んだ。

「あなた宛?」声は平静だった。だが、視線が紙から離れない。

「仕事の話だ」

 即座にそう言った。嘘ではない。だが、真実でもない。

 妹は、返事をしなかった。紙を返そうとして止まる。そこに、文字があったからだ。難しい言葉ではない。だが、見慣れない。そして、決定的に、家の外の匂いがした。

「……グレイ?」彼女は、声に出してしまった。

 その瞬間、店の空気が変わった。

「読むな」低く、強い声だった。

 ルーナは、はっとして顔を上げる。驚きと、戸惑いと、ほんの僅かな――不安。

「ごめんなさい」

 そう言って、紙を差し出す。だが、もう遅かった。彼女は、見てしまった。内容のすべてではない。けれど、十分だった。整理、血縁、限嗣相続、理解できない言葉ほど、人は強く怯える。

「……これ、何?」今度は、はっきりと問いだった。ルーカスは、紙を受け取りながら、視線を逸らした。答えを選んでいるのではない。答えてしまえば、戻れないことを知っていたからだ。

「……大した話じゃない」

「嘘よ」短い一言。

 だが、逃げ場を塞ぐには十分だった。妹は、紙ではなく、兄の顔を見ていた。その表情が、すでに答えだった。

「私に、関係ある?」静かな声だった。

 ルーカスは、即座に首を振った。「ない。だから――」言い切る前に、ルーナが一歩下がる。

「関係ないなら、どうして隠すの?」

 その問いは、責めではなかった。けれど、拒絶よりも深く刺さった。

「それは……」言葉は喉まで来ていた。だが、形になる前に、兄はそれを噛み殺した。答えを与えることと、真実を守ることが、同じではないと知っていたからだ。

「君を遠ざけるためだ」ようやく出た声は、思ったよりも低かった。

 妹は瞬きを一つだけして、首を傾げる。

「……遠ざける?」

「これは、僕の血の話でもあり、家の話だ」

 それ以上は言わない。言えば、彼女の立つ場所まで変えてしまう。

 妹は、すぐには反論しなかった。視線が、彼の手に握られた紙へ、ほんの一瞬だけ落ちる。

「だったら」静かに言った。「どうして、そんな顔をしてるの」

 痛いところを、正確に突かれた。ルーカスは、僅かに目を伏せた。「……僕が選ぶべきことだからだ」

「選ぶ?」

 その言葉に微かな棘が混じる。ルーナは一歩近づき、しかし、それ以上踏み込まなかった。

「あなたが一人で背負う顔じゃない」彼女の声は穏やかだった。責めてはいない。だからこそ、逃げ場がなかった。

「ルーナ」

 名前を呼んでも、彼女はすぐには顔を上げなかった。

 視線は、彼の胸元ではなく、握られた紙の端に向けられている。

「いいわ」それは、許しではなかった。理解でも、納得でもない。

「あなたがそう言うなら、何も聞かない」淡々とした声だった。だからこそ、余計に重い。

 ルーカスは何か言おうとした。だが、どんな言葉も、今は約束か嘘にしかならないと分かっていた。妹は一歩引く。距離はほんの僅かだが、確実に線が引かれた。

「でもね」妹は初めて、兄の目を見た。「関係ないって言葉だけは、信じないことにする」責める調子ではない。決めた、という声だった。

「あなたが隠すなら、理由があるんでしょう。それなら私も、見ないふりをする」

言葉の裏で、何かが静かに折れる音がした。ルーナはそれ以上何も言わず、奥へと戻ろうとする。ルーカスが名を呼んでも、妹は振り向かなかった。

 代わりに、ほんの一瞬、唇が何かを言いかけるように動いたが、音にはならなかった。

「仕事に戻るわ」それだけ言って、彼女は奥へ消えた。扉が閉まる音はしなかった。けれど、確かに、何かが隔てられた。

 兄は、その場から動けなかった。ルーナが去ったあとも、空気の中に残った緊張が、糸のように絡みついていたからだ。守ったはずだった。だが、妹の目は――もう、知ってしまった者のそれだった。

 部屋に戻ったルーナは、扉に鍵を掛けなかった。いや、掛ける理由が見つからなかったのだ。椅子に腰を下ろし、手を膝の上に置く。震えてはいない、呼吸も乱れていない、それなのに胸の奥だけが、異様に騒がしかった。――限嗣相続。意味は、正確には分からないが、家、血、選ばれる、という輪郭だけが、やけに鮮明だった。

「選ぶ?」ルーカスが言った言葉が、遅れて刺さる。

「私を、含まない選択」

 ルーナは、ゆっくりと立ち上がり、部屋の中を歩くき回る。机に触れ、棚に触れ、ロイヤルブルーのカーテンを引く。いつもの動作をなぞることで、思考を現実に縫い止めようとした。だが、無理だった。

脳裡に泛ぶのは、愛しい兄の顔だ。隠すときの、あの表情は優しさと決意が、同時にある顔だった。

「……置いていく顔じゃない」思わず、声が洩れた。自分でも驚くほど、低く、冷えていた。もし、あれがただの仕事なら――もし、本当に自分に関係がないなら――彼は、あんな顔をしない。

 妹は、胸元を押さえた。息が、少しだけ浅くなる。

「奪われる?」言葉にした途端、強い拒否が湧き上がった。

「違う! 奪われるなんて、誰が決めたの?」だが、次の思考が、それを否定する。

「血が呼ぶなら?」

 血、家、選ばれる。ルーナの中で、それらが一本の線に繋がった瞬間、何かが、ぷつりと切れた。

「……嫌」今度は、はっきりとした声だった。椅子の背を掴む。爪が、木に食い込む。

「嫌よ――そんなの!」

 兄は、選ぶと言った。だが、それは本当に()()()ものなのか。

 選ばされるのではないのか? 血に、家に、彼女の知らない場所に。思考が、渦を巻き始める。

「行かせない、捨てさせない、奪わせない」

 理屈ではなかった。正しさでもなかった。ただ、失うという予感だけが、確信に近い形で胸に居座った。

 妹は、鏡の前に立つ。映った自分の顔は、落ち着いて見えた。それが、かえって恐ろしかった。

「私が、守らないと」

 誰から? 何を? 答えは、まだ形にならない。だが、その空白を埋めるように、ひとつの衝動だけが、静かに育っていく。――ルーカスを、連れて行かせない。それが、どんな結果を呼ぶのか。そのときのルーナは、まだ考えていなかった。ただ、血の声は、確かに妹の中で目を覚まし始めていた。それはあまりにも静かにで、あまりにも取り返しのつかない仕方で。

 ルーナは、引き出しの奥から鋏を取り出した。兄が使っているものとは違う。柄が少し細く、刃が長い。仕立ての途中で糸を断つためだけに作られたはずのよく研がれた裁縫鋏だ。指先で持ち上げると、重みが掌に落ち着く。金属は冷たく、しかし、不思議と手から滑らなかった。彼女は、布切れを一枚取り出し、刃をそっと拭う。ぎこちない動きではなかった。まるで、ずっと前からそうすることを知っていたかのように。

 鏡に映る自分と、再び目が合う。

「大丈夫」誰に言うでもなく、そう呟いた。声は静かで、揺れていない。鋏を包む布を畳み、外套の内側に忍ばせる。刃は見えない。だが、確かにそこにある。裏口の扉を開けると、朝の冷気が肌を刺す。霜はほとんど溶け、石畳は濡れたように鈍く光っていた。

 妹は、振り返らなかった。店の中も、ルーカスの背中も見なかった。向かう先は、ただ一つ。グレイ家――血が、ルーナの中でそう囁いていた。それは命令でもなければ、警告でもない。

「行かなければならない」ただ、それだけの確信だった。裁縫鋏は、外套の内で微かに鳴った。金属が触れ合う、かすかな音。

その音は、彼女の心臓の鼓動と、ほとんど同じ速さだった。

 そして、その朝。妹はまだ知らない。自分が向かっているのが、ルーカスを取り戻すための道なのか、それとも、もう二度と戻れない境界線なのかを。駅へ向かう道は、まだ眠っている。パン屋の煙突から、細い白煙が立ちのぼっていた。それを見て、ルーナはふと思う。人はまだ、善意の側にいる時間だ。だから、誰も止めない。ロンドン・ブリッジ駅は、すでに動き始めていた。新聞売りの声、靴音、蒸気の匂い。切符売り場で、ルーナは一瞬だけ言葉に詰まる。

「カンタベリーまで」声は、震えなかった。切符を受け取った瞬間、逃げ道は消えた。それでも、胸の奥は不思議なほど静かだった。列車に乗り込むと、木製の座席は冷たく、硬かった。向かいには、荷物を抱えた婦人と、眠そうな少年。当たり前の日常だ。ここにいる限り、妹はまだ【普通の乗客】でいられる。

 汽笛が鳴る。ゆっくりと、確実に、ロンドンが遠ざかっていく。

「迎えに行くのよ」声には出さず、心の中でそう言った。それが、誰に向けた言葉なのか、ルーナ自身にも分からない。列車は、畑と低い丘を抜けていく。

 空は白く、昼にはまだ遠い。――まだ、朝だ。だからこそ、悲劇は、静かに間に合ってしまうのだ。

 その頃、テューダー・リジーでは、兄が、ふと手を止めていた。理由は分からない。ただ、胸の奥に、遅れて鳴る鐘のような違和感が残った。彼は、初めて思う――隠したのは、手紙だけではなかったのではないか、と。

「ルーナ?」声を震わせて呼ぶが、返事はない。視線が扉へ、窓へ、店の隅々へと跳ねる。朝の光が淡く差し込む店内に、妹の姿はどこにもなかった。胸の奥で、冷たい焦燥がじわりと広がる。手紙のことを知ったルーナが、どこへ行ったのか。思わず頭をよぎる最悪の可能性にルーカスは息を詰めた。

「まさか――店の外に?」

 兄は急いで扉を押し開ける。外の空気は冷たく、霜が朝日に白く輝いているだけ。石畳の端にも、ルーナの足跡はない。通りも静かで、声を張り上げれば響き渡りそうなほどだ。胸が張り裂けそうになる。手紙を隠したつもりだった。平穏な朝を守ろうと必死だったのに、もうすべてが届いてしまった。妹の耳にも、血の声は確かに触れてしまったのだ。

「ルーナ、どこへ行ったんだ!」

 叫びたくなる。けれど、それ以上に、今は慎重でなくてはならないことも分かっていた。焦れば焦るほど、何かを壊してしまう――守るべきものを。ルーカスは深く息を吸い、歯を噛む。外の冷気を吸い込み、覚悟を固める――追いかけるしかない。

 そして、列車はカンタベリーへ向かって、ギシギシと軋む音を響かせながら走り続ける。止まる理由も、戻る理由も、もうどこにもなかった。ルーナの胸の奥では、凍るような焦燥と、静かに燃える覚悟が同時に疼いていた。

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