二十六章
二十六章
イアンは、父であるラファエルと共に屋敷へ向かう。
「ねえ、お父さん、屋敷ってどこにあるの?」
「聞いて驚くと思うが、カンタベリーの外縁部にある。位置としては、市街から馬車で三十分くらいにあるところだ」
「カンタベリーってレオンのところじゃん! どうして教えてくれなかったの?」少年は驚きで眼を見張った。
「驚かせたかったのさ。ただ寄宿学校はロチェスターになるがな」その言葉に、イアンの胸の奥が、微かに軋んだ。喜びと戸惑いが、同時に押し寄せてくる。カンタベリー――それは、レオンのいる場所。自分が「帰る」ことになる屋敷が、あの街の近くにあるという事実は、奇妙な安心をもたらす一方で、言いようのない違和感も伴っていた。
「ロチェスターか」少年は、馬車の揺れに身を任せながら、小さく呟いた。孤児院では、生活は決して安定したものではなかったが、毎日は予測できた。名前も、立場も、誰かの期待も、そこでは重荷にならなかった。だが、今は違う。伯爵家の嫡男という肩書きが、否応なく未来を形作ろうとしている。
父の隣に座りながらも、イアンはふと、自分がどこにも完全には属していないような感覚に襲われた。孤児院にも、まだ屋敷にも、そしてこれから向かう寄宿学校にも。
「ねえ、お父さん」
少年は一瞬、言葉を選ぶように脣を閉ざし、それから続けた。
「僕、ちゃんとそこにいていいのかな」卿はすぐには答えなかった。馬車の外では、冬枯れの野がゆっくりと流れていく。やがて、低く落ち着いた声が響く。「居場所と言うのは最初から用意されているものではない。お前がこれから、選び、立ち続けることで、ようやく居場所となる」
イアンは膝の上で手を握りしめた。その言葉は慰めでもあり、同時に逃げ場のない宣告のようにも聞こえた。帰る場所はある。けれど、心が帰れるかどうかは、まだ分からない。馬車は静かに進み、やがて遠くに、グレイ家の屋敷がその輪郭を現し始めていた。
それは、安息の地であると同時に、悲劇の始まりでもある場所だった。少年の脳裡にあるレオンがよぎる――かれなら、何て言うだろう。「広すぎて迷いそうだな」と笑うか。それとも、「逃げ道は多い方がいい」と皮肉を言うか。だが、その声はここにはない。カンタベリーに帰るという事実は、安心を与えるはずが、胸の奥に残るのは、奇妙な空虚さだった。
「レオンは……」
「レオンがどうした?」
「屋敷を見たらどう言うのか考えていただけだよ」
「かれなら、隠れるに場所には最適だと言うだろう」
馬車が屋敷の正面玄関に近づくと、老執事が足早に現れ、手際よく扉を押さえた。馬車の扉が開かれると、ラファエルとイアンが降り、老執事は礼儀正しく頭を下げて扉をゆっくりと開けた。その向こうには、広間へと続く大理石の廊下と、整然と並ぶ使用人たちの列があった。各々がそれぞれの位置で静かに立ち、視線を逸らすことなく主人たちを見守っている。馬車から降りた二人に、全員が一斉に頭を下げる。その光景は、孤児院での自由で親密な空気とは対照的で、整えられた距離感だけが支配していた。
イアンは自然と卿の半歩後ろに下がる。屋敷は壮麗で、守られているはずの場所。しかし、その中心に自分の席が本当に用意されているのかどうかは、まだ分からない。使用人たちの視線の一つひとつが、無言の確認のように胸に迫る。
「ねえ、お父さん……」小さな声で呟くと、ラファエルは何も言わず、ただ静かに少年の肩に手を置いた。そして半歩前に出る。その背に守られるように、イアンは無意識のうちに一歩下がり、廊下を進んだ。整列した使用人たちの列のあいだを通り抜けるたび、視線が静かに交錯する。その一つひとつが、好奇でも敵意でもない――ただ、値踏みと確認のためのものだった。
一歩、また一歩。その歩みは、孤児院で過ごした日々から、確実に引き離されていく感覚を伴っていた。広間に入ると、天井の高い空間に暖炉の火が低く揺れていた。中央には、屋敷の威厳を象徴する重厚な椅子が置かれている。まだ誰も座っていないその椅子は、これから始まる生活の重みを、無言のまま語っているようだった。
今日が一歩進み、使用人たちはその動きに合わせて深く頭を下げる。主人が完全に広間へ入るまで、誰一人として姿勢を崩さない。
少年はその背後で、静かに息を整え、知らず拳を握りしめていた。
ここが自分の居場所になるのか。それとも、ただ「戻された場所」に過ぎないのか。答えはまだ、この屋敷のどこにもなかった。イアンは天井を仰いだ。装飾過多な漆喰と金縁の意匠は、神への敬意というより、むしろ人間の虚栄心の記念碑のように思えた。孤児院の天井は低く、雨漏りもしたが、そこには少なくとも誰かの生活の痕跡があった。ここには完璧さしかない。そして、完璧な場所ほど、人を拒むものはない。
「歓迎というものは、時に刃物より鋭い」
そんな言葉を、レオンが言っていた気がする。あるいは、少年自身が作り上げた記憶かもしれない。広間の空気は、過度に静謐だった。使用人たちの視線は礼儀正しく伏せられているが、その沈黙は善意ではなく、規則の産物だ。ここでは、感情は秩序の後ろに隠される。愛も嫌悪も、等しく。
少年は気づいた。この屋敷は、誰かを迎えるために建てられてはいない。
ただ「在るべきもの」を、在るべき場所に戻すためだけに存在しているのだ。それが、どれほど残酷であっても。
イアンは卿の背を見つめた。その背中は広く、揺るぎない。庇護の象徴であり、同時に、この家の掟そのものでもある。父は優しい。だが、優しさだけでは、家は変わることはない。
少年は小さく息を吸った。ここにいる限り、名前は与えられる。地位も、未来も。けれど、居場所だけは、自分で勝ち取らねばならない。そして、その試練は、まだ姿を見せていないだけで、すでにこの屋敷のどこかで息を潜めているのだと、彼はなぜか確信していた。
その時だった。広間の空気が、目に見えぬ刃で切り裂かれたかのように、張り詰めた。香水の甘さと、冷たい気配が同時に流れ込んできた。
「まあ」高く、よく通る声。階段の上、手すりに指先をかけた女が立っていた。名はシャーロット・グレイ。
その姿は、屋敷そのもののように完璧だった。グレイ家の象徴である白い髪、紅い瞳、絹のドレス、非の打ち所のない微笑。
だが、その視線が少年に触れた瞬間、微笑の奥で何かが歪んだ。
「……それが?」彼女はゆっくりと階段を降りてくる。一段、一段。まるで裁きを下すために近づく女神のように。
「あなたがそれなのね」
イアンは息を呑んだ。名を呼ばれない。問いですらない。存在を指し示すためだけの言葉。
「シャーロット」卿が低く制する。だが、彼女は止まらない。「生きているのね」
その言葉には、失望と嫌悪が、隠しきれぬほど混じっていた。
まるで、本来ならここに存在してはならないものを見てしまったかのように。
「あなたが、この屋敷に?」
シャーロットは少年を上から下まで値踏みする。孤児院育ちの衣服も、立ち方も、沈黙も――すべてが彼女の神経を逆なでしていた。
「冗談でしょう、ラファエル。あなたはついに恥を連れ帰る趣味まで持つようになったの?」
広間の空気が凍りつく。イアンは何も言えなかった。孤児院では、殴られることも、罵られることもあった。だが、この女の言葉は違った。否定しているのは人格ではなく、存在そのものだった。
「シャーロット、やめろ」卿が一歩前に出る。その動きは、明確な庇護だった。
「彼は私たちの息子だ」その言葉に、シャーロットは高笑いをした。
「まあ。まだそんな冗談を言う余裕があるのね」
彼女は夫を見つめ、その瞳に狂気じみた光を宿す。
「息子ですって?
それは私の人生を台無しにしかけた誤りの名前でしょう」
そして、再び少年を見る。「覚えておきなさい」声は静かだった。だからこそ、毒は深く刺さる。
「あなたはここでは客ですらない。記録にも、血にも、誇りにも――存在していないもの」
イアンの指先が震えた。
「シャーロット!」卿が怒声を上げる。
だが、彼女は、微笑んだまま一歩引いた。
「安心なさい。私は淑女ですもの」その言葉は、脅しだった。「すぐに壊すことはしないわ。――存在しないものは、ゆっくり消える方が美しいでしょう?」
その瞬間、少年は理解した。この屋敷は、安息の地などではない。ここは、自分が否定されるために用意された、完璧な舞台なのだと。
その微笑は、花のように整っていた。だが、花弁の裏に隠された毒を、イアンは直感的に悟っていた。
「存在しない、だって……」思わず洩れた少年の声は、かすれ、ほとんど空気に溶けた。それでも、彼女の耳には届いていたらしい。彼女はゆっくりと視線を落とし、初めて、まっすぐに少年を見た。
その眼差しに、酷く冷たく、母性は一切なかった。「ええ。存在してはならないものよ」淡々と、事実を述べるように。シャーロットは優雅に首を傾け、まるで美術品の欠陥を指摘する鑑定家のように言った。
「血は裏切ったわ。呪われた濡羽色の髪を持ち、望まれずに生まれたものは、必ず、家の形を歪める。あなたは、その歪みそのもの」
「やめろ、シャーロット!」
ラファエルが一歩前に出る。その動きは早く、迷いがなかった。彼は無言で少年の前に立ち、完全にその小さな身体を庇う形になる。
「イアンはグレイ家の血を引く、正当な――」
「だからこそ、忌まわしいのよ」
彼女の声は、驚くほど穏やかだった。激情ではない。これは、確信だ。
「あなたはいつもそう。感情で家を壊す。愛だの、守るだの……そんなもの、家系図には一行も刻まれないのに」
彼女は指先で空をなぞった。そこに、かつて存在したはずの名前を、消す仕草で。
「私が消したの。あなたの息子なんてものは、最初からいなかった。そうでしょう?」ラファエルは言葉を失った。否定するには、彼女の覚悟はあまりにも冷たく、完成されすぎていた。
イアンは、その背中越しに父を見上げた。孤児院で知っていた守る大人の姿が、今、ここにあった。それだけが、現実だった。
「……父さん」小さく呼ぶと、卿は一瞬だけ肩越しに振り返り、はっきりと頷いた。
「大丈夫だ。ここでは、私がいる」
シャーロットは、その光景を見て、初めて脣を歪めた。それは、計画が狂った者の、静かな苛立ちだった。
「いいわ」彼女はゆっくりと踵を返す。
「ええ、いいの。あなたが守るなら、守ればいい」振り返らずに、最後の言葉だけを残す。
「その代わり、覚えておきなさい。この屋敷は愛で壊れるほど、優しくはないわ」
その足音が遠ざかった後も、広間には、凍りついた沈黙だけが残った。
少年、胸の奥で静かに理解する。ここは、試される場所だ。否定され、削られ、それでも立っていられるかを問われる場所。そして同時に、卿が、すべてを賭けてでも守ろうとする、唯一の場所でもあるのだと。
シャーロットの足音が完全に消えると、ようやく使用人の一人が、わずかに息を吐いた。その音さえ、広間では不敬に思えるほど、沈黙は重かった。
卿はしばらく動かなかった。まるで、背後に立つ息子の体温を確かめるように、無言のまま立ち続けている。
「……すまない」
低く、押し殺した声だった。謝罪は誰に向けられたものか、イアンには分からなかった。だが、その言葉が家の主ではなく、父のものだったことだけは、はっきりと分かった。
「君に、最初に見せるべきものではなかった」
少年は首を横に振った。言葉が出る前に、体が先に動いていた。
「いいよ」
それは、孤児院で身につけた反射だった。場を荒立てないための、傷を小さく見せるための言葉。
ラファエルは、その一言に、かえって顔を強ばらせた。
「よくはない」はっきりと、否定する。
「君が慣れるべきことではない。あれは……この家の歪みだ」
その瞬間、イアンは理解した。父は、この屋敷のすべてを支配しているわけではない。むしろ、抗い続けている側なのだと。
使用人たちは、視線を伏せたまま動かない。だが、その沈黙の質が、先ほどとは微妙に変わっていた。敬意だけではない、同情でもない、観察だ。誰が、どこまで守られるのか。そして、どこからが切り捨てられるのか。
少年は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。彼女の言葉が、今になって効いてくる。
「ここでは、存在しないもの」だが、同時に、別の確信も芽生えていた――それでも、父は自分を前に立たせた。隠さなかった。消さなかった。それだけで、この屋敷に足を踏み入れた意味は、確かにあった。
「案内を」卿の声で、老執事が一歩前に出る。
「若旦那のお部屋へ」その呼び方に、空気がわずかに揺れた。イアンは、その言葉を否定もしなければ、受け入れもしなかった。ただ、心の中で思う――レオンなら、今のを見て、きっとこう言う。
「歓迎されない場所ほど、面白い」
少年は、小さく息を吸い、前を向いた。この屋敷は、安息の地ではない。だが、逃げ場のない檻でもない。ならば、せめてその中心に、立ってみせる。




