二十五章
二十五章
テューダー兄妹とカッスルと別れたあと、レオンとエリスは静かな朝の街路を歩き、喧噪の渦巻く売春宿パラゴンへ向かった。近づくにつれ、扉の向こうから嬌声や笑い声が洩れ、建物全体がざわつき始めていた。
かれが重い扉を押し開けると、最前に立っていたのは、腕を組んだケイトだった。まるで長い夜をずっと入口で待ち続けていたかのように……女主人は二人を見るなり、眼を見張った。
「エリス! 本当に無事なの?」
少女は驚き、思わずかれの後ろに隠れかける。だが、ケイトは、その細い肩を確かめるようにじっと見つめ、胸に手を当てて深く息をついた。
「心配で気が気じゃなかったのよ」少し声を震わせる。しかし、すぐに女主人らしい強い調子に戻った。
「よかった。本当によかったわ」その柔らかな安堵は、少女の警戒を僅かに緩める。レオンは軽く頷き、静かに返す。
「心配をかけたな。けど、無事に取り戻してきた」
「よくやったわ。それより、エリス。外は寒かったでしょう? 朝食は?」
「まだです」少女が戸惑いがちに言うと、ケイトは微笑を泛かべ、二人を見渡してから顎を軽く上げた。
「レオン、あなたが使ってた部屋に連れて行ってあげなさい。すぐに持っていくから」
「言われなくても、連れていくさ。エリス、行くぞ」
エリスは小さく頷き、かれの後に続いた。騒がしい廊下の向こうには、ようやく取り戻した安息の気配があった。レオンは扉を開けて、寝室に入るとぎこちなく椅子に腰を下ろした。朝の光は薄く、窓の格子から差し込む灰色の影が、室内の静寂に忍び込む。手を組んでみても落ち着かず、指先が微かに震えた。
「エリス、その……座らなくていいのか?」不器用な声に、少女は微笑を泛かべる。小さく頷き、かれの隣に立った。かれの不器用な振る舞いは、静かな部屋にある種の緊張と温もりを混ぜ込む。その時、廊下から軽やかな足音が響いた。女主人が質素な朝食、優美な花柄のティーカップとティーポットを載せた盆を抱え、堂々と、しかし、慈愛を宿した微笑を泛かべながら入ってくる。
「お待たせ。白パンに鶏肉と野菜の煮込みよ。温かいうちに食べなさい」
「ありがとうございます」エリスの声には安堵と喜びが混じり、ようやく緊張が少し解けた。
ケイトは少女に椅子に腰掛けるように促すと、テーブルに焼きたての白パンと鳥と野菜の煮込みを置いた。次に、二人分のティーカップを置いて、温かな紅茶を注いだ。
レオンは椅子に沈み込み、足を組んで膝の上で手をもじもじと擦る。目線は床に落ち、言葉が自然と詰まる。朝食は済ませているとはいえ、目の前で少女が丁寧に一口ずつ口に運ぶ様子を、どうにも落ち着かずに見守っていた。
「熱くないか?」不器用に問いかける声は、硬く、少し震えていた。
「ええ、大丈夫。熱くないわ」エリスは柔らかく答え、小さな微笑を泛かべる。かれのぎこちない気遣いが、少女には愛おしく映った。
「味は悪くないか?」
「ええ、美味しい」
「そうか――よかった」レオンは、紅茶を啜った。指先が小さく震え、ティーカップを持つ手もどこかぎこちなくなる。
少女はそんなかれをじっと見つめ、静かに微笑を泛かべた。「レオン、私はこうして一緒にいられるだけで嬉しいの」
その言葉に、かれは照れたように目を伏せ、軽く頷く。「俺もだ」
「あら、なんだか不器用で初々しいわね。あなたたちの時間を邪魔しないわ。エリス、食事を済ませたら食器はそのまま置いてちょうだい」ケイトは微笑を泛べ、盆を持ち、二人を見守るように、そして、静かに後ろ手でドアを閉めた。廊下の足音が遠ざかるにつれ、室内には再び二人きりの空間が戻る。
レオンは、改めて膝の上で手を組み、視線を落としたまま小さく息をつく。言葉は無くとも、存在感でエリスへの想いを伝えようとする不器用さが、荒ぶる静寂の中で確かに響いていた。
「もう少しゆっくりしていけ」
「ありがとう」少女は女主人が用意した食事をゆっくりと堪能しながら、静かに、そして、優雅に紅茶を啜る。
窓から差し込む朝の光が、室内に入り、二人の影を淡く伸ばす。言葉は少なくとも、視線や仕草の端々に、互いの安心と温もりが確かに交わっていた。こんな朝の静けさは、外の喧騒や危険の世界から離れた、ほんの束の間の安息は二人にとって甘美なひとときだった。
その余韻を胸に残したまま、少女は食事を終え、満足そうに紅茶を啜る。かれは椅子から立ち上がり、少し照れくさそうに背中を伸ばした。「そろそろ、行くか。イアンのところへ」
「ええ、行きましょう」
部屋を出て、二人の歩みは、先ほどまでの緊張や不安を引きずることなく、ゆっくりと、しかし、確かに前へ向かっていた。廊下を歩くと、売春宿全体の騒めきが近づき、強い香と花の香りと人々の熱気が混じった朝の空気が二人を包んだ。レオンは手を差し伸べ、エリスはそっとその手を握り返した。互いの温もりが、言葉以上に安心を伝える。
「エリス、イアンは元気にしているだろうか?」かれは声を少し潜め、歩幅を合わせながら呟く。
「きっと元気にしてるわ」エリスは微笑を浮かべ、瞳にわずかな期待を宿す。
「それより、拗ねていなければ良いのだが――本来ならば、結婚指輪を買った後に向かう予定だったからな」
「言い訳を考えなきゃね」エリスは無邪気に言った。
「珍しいことを言うのだな。一緒に考えてくれるか?」
「今回だけ、一緒に考えてあげるわ」
「君は意地悪だな。だが、悪くない――それで、どんな言い訳を考えている?」レオンは問いかける。
エリスは首を傾げ、指で顎を軽く押さえた。「そうね、例えば道に迷ってしまったとか?」
「実に、退屈な言い訳だ。イアンは案外鋭いから、簡単には信じないだろう」
「少し大袈裟にすれば良いんじゃないかしら?」エリスは眼を星のように輝かせ、いたずらっぽい微笑を泛かべた。
「大袈裟にか……君の案なら、むしろ説得力があるかもしれない」二人は階段をゆっくりと降りながら、時折肩が触れ合うたびに小さな笑い声を交わした。
「二人とも楽しそうね。これから何処かへ出掛けるの?」ケイトがドレスの裾を軽く揺らしながら尋ねる。
「これからスピタルフィールズの孤児院へ行くのだよ。そこで弟のような友人と会う約束をしている」レオンが穏やかに答える。エリスは小さく微笑し、頬にかかる光を指でそっと撫でる。「三日振りに会えるの。楽しみで仕方がないわ」
ケイトは少し驚いた顔を見せ、「あら、そんな小さな子とお知り合いなのね。でも、危ないところじゃない? あそこは切り裂き魔の事件が数日前に起きたばかりよ?」と心配そうに訊いた。
「大丈夫さ」かれは柔らかく微笑した。
「エリスも一緒だし、短い道程だから安心しろ」
女主人は納得したように軽く頷き、「そう、気をつけて行きなさい。二人ともいつでも顔出しに来てちょうだい」と扉を開けて温かく見送った。二人は肩を寄せ合い、パラゴンの扉を背にした。朝の冷たい空気が頬を撫で、街路にはまだ人通りもまばらだった。通りの角に小型の辻馬車がまるで二人を待っていたかのように止まっていた。
「辻馬車で行くとしよう」レオンは微笑を泛べる。
「そうね。初めての場所だし、歩いて行くよりも安全だわ」少女も穏やかに答える。
かれは御者に行き先を伝え、馬車に乗り込む。そのまま、そっとエリスの手を握った。馬車の中は外の冷気から守られ、二人の間に小さな温もりの空間が生まれる。馬の蹄が石畳を打つリズム、車輪の軋む音が街の静けさに溶け込み、二人だけの時間を作り出していた。街の角を曲がるたび、赤レンガの建物や小さな市場の風景が広がる。通りにはまだ開店準備をする店先の人々がちらほら見える程度だった。少女は窓を開けて、外の匂い、焼きたてのパン、湿った石畳、暖炉の煙が鼻をくすぐり、道中の空気が心地よく心を満たす。
レオンは静かに視線を窓の外へ向けながらも、時折エリスをちらりと見る。やがて街並みは徐々に低く、粗末な建物が増え、貧困街の雰囲気が漂い始める。だが、馬車に揺られる二人には不安も恐怖もなかった。少女は初めて目にする景色の中に微かな新鮮さと興味を見出していた。孤児院の赤レンガの壁と大きな中庭が視界に入ると、馬車は静かに石畳の前で止まった。
「着いたようだ」
外の淡く優しい光が差し込み、柔らかな朝の空気が二人を包む。中庭の草の匂い、土の匂い、遠くで遊ぶ子供たちの声、初めての孤児院の空気は、二人の胸に小さな期待と安堵を静かに落としていった。かれは先に馬車から降り、御者に乗車金を渡してから、エリスに手を差し伸べる。少女はその手を受け取り、馬車を降りると、二人は手を取り合ったまま中庭へ足を進めた。すると、そこには少女がよく知る老婆の姿があった。少女の瞳に菫色の光が揺れ、ほんの僅かに涙が滲む。思わずエリスは声を弾ませ、「ポリー!」と名を呼び、駆け寄った。
「その声は、エリスお嬢様ですか?」
老婆の声には驚きと安堵が交じり、微かな震えが混ざる。
「ええ、そうよ。ポリー、エリスよ」
「お久しぶりでございます。お嬢様、ご無事で何よりです」老婆の手はわずかに震え、年老いた身体からも溢れる気遣いが伝わる。「そして、ラファエル様からお聞きしましたが、近々ご結婚されるとか。おめでとうございます」
少女は頬を赤く染め、胸が高鳴るのを感じながら、微かに俯いて「ありがとう」と答えた。その言葉は、嬉しさと少しの恥じらいが混ざり合い、柔らかな朝の光に溶け込むようだった。
ポリーはそっと手を差し伸べ、エリスの肩に触れる。その指先の温もりに、少女は一瞬身を竦めたが、すぐに安心したように微笑を泛かべる。
「お嬢様、ようやくご自由の身になられたのですね。どうかお幸せになって下さい」ポリーの声には、歳月と苦労を経た深みがあった。
レオンは少女の傍で静かに立ち、エリスの表情をじっと見守る。かれの視線は穏やかでありながらも、守るべき者への強い決意を帯びていた。少女が微笑を泛かべるたび、レオンの胸には安堵とほのかな熱を帯びた感情が広がる。
「ポリー……」少女がそっと呼ぶと、老婆は優しく微笑を泛かべて小さく頷いた。「お嬢様、これからもどうかご自分を大切に。困難な時も、きっとお二人なら乗り越えられますわ」
かれはそっとエリスの手に触れ、その温もりを感じ取りながら、無言のまま頷いた。二人の間には言葉を超えた理解と信頼があり、ポリーの存在がその静かな空間に柔らかな安心を加えていた。やがて、中庭から子どもたちの声が微かに響き、空気は少しずつ日常の匂いを取り戻していく。少女は深く息を吸い込み、胸の高鳴りを落ち着かせると、レオンの腕をそっと握った。
「イアンに会いに行きましょう」
「そうしよう」
「お嬢様、イアン様に何かご用ですか?」ポリーの声に二人は足を止め、振り返る。老婆は穏やかに微笑を泛かべながら、返事を待っていた。
「ええ、ポリー。イアンに会いに来たの」少女は少し俯きながらも、菫色の瞳を輝かせる。
かれは腕を軽く引き、エリスの隣で静かに頷いた。「大袈裟だが三日ぶりに会うんだ。あの子も喜ぶだろう」
ポリーは穏やかに微笑を泛かべ、二人を中庭の奥へと促す。「では、この道をまっすぐ行きなさい。イアン様はあそこで……」指さす先には、遊ぶ子どもたちの間に小柄な少年イアンの姿があった。少女の胸は期待と緊張で高鳴る。レオンはそっと少女の手を握り、共にゆっくりと歩みを進めた。
子どもたちの笑い声が少しずつ近づく中で、少年もまた、何かを察したかのように眼を見張り、二人の姿に気付いた。
「レオン! エリス! やっと来てくれたんだね。
待ちくたびれたよ」イアンはそう言って微笑んだが、その瞳は子どものそれよりも幾分鋭く、二人を値踏みするように静かに見ていた。
「ごめんなさい」
少女は小さく肩を竦めて、困ったように微笑む。「少し、迷子になってしまって」
「迷子?」少年は首を傾げる。
「ロンドンで? しかも、昔ここに住んでいたレオンと一緒で?」その言葉には、責める調子はない。ただ、事実を美しく並べてみせただけだ。それがかえって、逃げ場のなさを際立たせた。エリスは視線を伏せ、穏やかに答えた。「それでも、迷子になることはあるのよ。街は人の心よりずっと複雑だもの」
イアンは一瞬だけ黙り込み、やがて薄く笑った。
「なるほど。つまり――迷ったのは道じゃない、ってことだね」
その言葉に、かれが静かに息を吸う。
だが口を挟まず、ただ一歩だけ少女の側に寄った。その仕草は、無言の肯定であり、盾でもあった。
「ねえ」少年は柔らかな声で続ける。「何か隠しているでしょう? 例えば、事件に巻き込まれたとか?」子どもたちの笑い声が遠くで弾ける。その明るさとは対照的に、三人の間には、言葉にならない影が静かに落ちていた。
エリスは一拍置いてから、そっと微笑んだ。「事件に巻き込まれたか、ですって?」
「うん」イアンは肩を竦める。「だって、それが一番らしいからね」
少女は小さな微笑を泛かべ、しかし、否定もしなかった。
「イアン、今日じゃなくていつか話すわ」
その瞬間、少年は全てを察したように目を細めた。「わかった。なら、今日は聞かない。秘密というのは、隠すためにあるんじゃない。傷つけないためにあるものだって、僕ももう知っているから」
レオンはその言葉に、微かに目を伏せた。この少年が、生まれながらに重い血と名を背負う者であることを、改めて思い知らされたのだ。
「さて、尋問も終えたところだ」かれは低く、しかし穏やかに言った。「さあ、イアン。カンタベリーに帰るぞ」
するとイアンは、先ほどまでの軽やかさをふっと消し、年上の紳士のように背筋を伸ばした。
「そのことなんだけどね」声は静かで、妙に落ち着いていた。「僕、お父さんから【家を継いでほしい】って言われたんだ。屋敷に戻ることになった。それから――寄宿学校に行くことも決まった」その言葉は淡々としていたが、そこには祝福よりも、選択を許されなかった者の冷ややかな覚悟が滲んでいた。
少年は微笑を泛かべる。それは子どものものというより、すでに世界の残酷さを理解してしまった者の微笑だった。
「突然の知らせだな」レオンはそう言って、少年の顔を正面から見つめた。その声音は穏やかだったが、底には大人の警戒が沈んでいる。
イアンは一瞬だけ視線を伏せ、それから、いつもの聡明さを仮面のように整えて微笑を泛かべる。
「然るべき時が来た――それだけだよ。ただ、詳しい理由は語られなかったけれどね」その言い回しには、年齢にそぐわぬ含みがあった。言葉を選ぶ癖、真実をそのまま差し出さず、香りだけを残す話し方。かれは胸の奥で、微かな苦みを噛みしめる。
「屋敷に戻れば、僕は在るべき場所に置かれるらしい」
少年は肩を竦め、冗談めかして続けた。「場所が人を幸福にするとは限らないけれどね。ワインと同じだよ。樽が立派でも、中身が熟していなければ意味がないしね」
少女は思わず息を呑み、イアンを見つめた。
「イアン、少し離れてる間に随分と大人びたことを言うようになったのね」
「大人びるのは得意なんだ」少年は微笑を泛かべる。だが、その微笑はどこか薄く、磨かれすぎた硝子のように脆さを帯びていた。
「子どもでいることは、僕には少し贅沢すぎたみたい」
レオンは何も言わず、ただ一歩だけ距離を詰めた。その影がイアンに重なる。
「寄宿学校、か」低く呟くように言ってから、続ける。「逃げ場のない立派な檻だな。だが、学ぶには悪くない」
少年はその言葉に、ほんの一瞬だけ救われたような表情を見せた。
「レオンがそう言うなら、少しは信じてみようかな。……ねえ、レオン」
「なんだ」
「屋敷に戻っても、僕は【僕】でいていいのかな?」その問いは、少年の形をした哲学だった。
エリスが答えるより早く、かれは静かに頷いた。
「当然だ。名前や肩書きは人を飾るが、魂までは縛れない。それが縛られる時は――本人が許した時だけだ」
イアンはゆっくりと息を吐き、朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。孤児院の中庭に射す光は、無垢で残酷なほど公平だった。
「それなら、大丈夫だね」そう言って微笑む少年の横顔は、これから始まる帰還が祝福であるのか、それとも悲劇の序章であるのか、そのどちらとも判別のつかない、危うい美しさを帯びていた。
イアンの言葉の余韻が、中庭の空気に静かに沈んでいく。子どもたちの笑い声は相変わらず軽やかで、世界は何事もなかったかのように回り続けていた。その無邪気さが、かえって三人の沈黙を際立たせる。少女は一歩、少年に近づいた。視線を合わせ、柔らかく、しかし逃げ場を与えない声音で言う。
「イアン。あなたがどこにいようと、誰の名前を背負おうと――あなたは、あなたよ。孤児院にいた頃のあなたも、屋敷に戻るあなたも、同じ人。違うのは、きっと周りの期待だけよ」
イアンは驚いたように瞬きをし、それから小さな微笑を泛かべた。「それって慰め?」
「いいえ」エリスは首を振る。「事実よ。慰めは、真実が弱い時に使うものだもの」
少年は一瞬、言葉を失ったように脣を閉じた。その横顔には、子どもが持つべきではない計算と、子どもだからこそ抱ける純粋な疑問が同時に浮かんでいる。
「ねえ、エリス」
「なに?」
「人はね、在るべき場所に戻った瞬間から、在るべき自分を演じなきゃいけなくなる。それでも、本当の自分は失われないって――君は、そう思える?」
エリスは少し考え、そして微笑んだ。「失われるのは、自分じゃないわ。失われるのは、嘘をつく自由よ。だから大人は、時々とても不自由に見えるの。もちろん、レオンも含めてね」
イアンは、肩を竦めた。「じゃあ、僕はこれから、不自由になる練習をするんだね」
「違う」レオンが低く言った。少年が顔を上げる。
「不自由になる練習じゃない。選ぶ練習だ。何を守り、何を捨て、何を演じ、何を決して譲らないか――それを選ぶ」
その声には、過去を知る者の重みがあった。語られぬ傷と、選び続けてきた沈黙が、短い言葉の裏に滲んでいる。
イアンはじっとかれを見つめたあと、ふっと表情を和らげた。
「やっぱり、レオンは僕のお兄さんみたい」
「兄じゃない」レオンは即座に否定し、それから一拍置いて付け加える。「だが、見捨てる気はない」
その不器用な言い方に、エリスは思わず微笑を泛かべた。少年もまた、照れたように視線を逸らした。
「それなら、約束してほしいな」
「約束?」少女が尋ねる。
「僕が屋敷に戻って、立派な顔をして、立派な言葉を使うようになっても……たまには、ここに来てほしいな。この孤児院に。僕が、どこから来たのかを忘れないために」
エリスは迷わず頷いた。「約束するわ。忘れるはずがないもの。あなたは、ここで生きてきたんだもの」
かれも静かに頷く。「必要とあらば、いつでも来る。たとえ歓迎されなくてもな」
イアンは満足そうに微笑み、空を見上げた。雲はゆっくりと流れ、朝の光は容赦なく醜く残酷な世界を照らしていた。
「それなら、行けそう」そう呟いてから、少年は少しだけ子どもらしい声で続けた。
「ねえ、二人とも。次に会う時、僕はどんな顔をしていると思う?」
少女は穏やかに答える。「背が伸びて、少し疲れて、それでも――ちゃんと、イアンの顔をしているわ」
少年は満足そうに笑った。その笑顔を、レオンは黙って胸に刻む。これは別れではない。だが、確実に何かが終わり、そして始まる瞬間だった。やがて、遠くで鐘の音が鳴る。時間を告げる、無慈悲で正確な音。
「そろそろ行かなきゃ」イアンはそう言って一歩下がり、いつもの軽やかな調子を取り戻した。「迎えが来る前に、子どもでいられる時間を、もう少し使いたいから」
エリスは微笑み、かれは短く頷いた。
三人は言葉を交わさず、それぞれ別の方向へ歩き出す。だが、中庭に残った空気には、確かに何かが結ばれた痕跡があった――血でも、名でもない。
選び取られた関係という、もっと厄介で、もっと美しいものがあった。




