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二十四章

二十四章

 二人はテューダー・リジーの扉を押し開けた瞬間、店内の空気が、朝の冷気を僅かに抱えながら、香り高い紅茶と古い木材の匂いに溶けていった。レオンはその変化に胸の奥が僅かに疼くのを感じた。周囲を見渡すと、仕立ての良い背広やドレスがまるで秩序を守るかのように規則正しく綺麗に並べられていた。カウンターの奥に立つ店主は、硝子細工のように透けた肌を持ち、白い長髪を肩に流している。そして、青い瞳をこちらに向けて、穏やかな微笑を泛べた。

 ルーカス・テューダー。薄幸の気品を纏い、壊れ物のような優しさを滲ませる男だ。

「おはようございます。こんな朝早くにお越し下さるだなんて――まるで、春先の陽だまりが迷い込んできたみたいだ」その声は、驚くほど柔らかく、レオンとカッスルを心から歓迎していた。

「どうぞ、お席に。温かい紅茶をすぐにお持ちしますね。外は冷えるでしょう?」

 ルーカス自身が冷え切った手つきでカップを取り出す様子は、貧血気味の天使が懸命に立っているような儚ささえあった。

「あなた様は――とてもお疲れのようですね。大丈夫ですか?」と、かれの顔色を心配そうに覗き込んだ。

 レオンの胸中に冷たい波紋が広がる。この青年が優しいという事実が、とても残酷だ。エリスの行方について訊けば、世界が一瞬でひっくり返り、そして、この温かさはすぐに悲鳴に変わるだろう。そんな予感が鈍痛のように肩へ落ちる。

 カウンターに手を置いた探偵は目を細め、低く呟いた。「随分とお優しいのですね、テューダー」

「大袈裟ですよ。客人を暖かく迎えるのが、私の務めでもありますから」店主は微笑を泛べる。それは、純粋で罪を知らない微笑だった。だからこそ――壊すのが酷く容易い微笑だ。そんな脆くも儚いルーカスの髪がカッスルの指先に触れた途端、探偵はそれを鷲掴み、優雅さとは真逆の動きで兄の頭をカウンターへ叩きつけた。

 乾いた衝撃音とともに、店主の身体が跳ね、視線が宙を泳ぐ。その瞳は一瞬で焦点を失い、ぐらりと揺れた。言葉にならない息が洩れ、膝が崩れそうになる。

 かれは条件反射的に前へ飛び出した。「カッスル、貴様は何をしているのだ! 今すぐに離せ、完全に脳震盪を起こしてる!」

 レオンは、ルーカスの顎の角度をそっと支え、瞳孔の反応を確かめる。片方の瞳が僅かに遅れて縮むのを見て、かれの表情が緊張で強張った。

「反応が鈍い。貴様は何を思って叩きつけたか分からないが、これ以上衝撃を与えたら本当に危険だ。意識が飛んでいる時間も長い、吐き気も出るぞ!」

 探偵は、店主の髪を掴んだまま、愉悦に浸かりつつ、その様子を観察した。

「なんて見事な崩れっぷりでしょうか。衝撃が入った瞬間、瞳の焦点が弾けるように散りました。これでは、まるで人形以下ですね」

「貴様! 人形以下と言うな!」レオンは苛立った声で叫びながらも、手つきだけは驚くほど丁寧だった。ルーカスの耳の後ろを指先で探り、僅かな腫れと熱を確認する。

「頭部の外傷、出血はしてない。だが衝撃の角度が悪い。場合によっては意識障害が続くな……」

 店主はカッスルの手から逃れようとしながら、ぼんやりとカウンターに片腕をつき、警戒を含んだ掠れた声で呟いた。

「そ、そんな……あ、あなたたちは一体――」

「喋るな!」レオンは強く言ったものの、その声色は医者のそれに戻っていた。

「無理に言葉を出すと余計に症状が悪化する。今は深呼吸だけしていろ」

 探偵はようやく指を離し、淡々とした声で言った。「では、ハワード。あなたの診察が終わるまでテューダーを壊さずにおいてあげますよ。あなたがそう望むのなら」

「望んでいるに決まっているだろう!」かれはルーカスの肩を支えながら、息を整えるよう促した。医者として、反射的に助けてしまう。それがどれほど緊迫した状況であっても、レオンが変えられない性質なのだ。

 店主は胸が震えるように上下し、喉からは掠れた空気音だけが洩れる。視線は焦点を結ばず、まるで深い霧の中を彷徨っているかのように揺れている。かれは床に片膝をつき、ルーカスの後頭部を安定させるために手を添えたまま、瞳孔の反応を何度も確かめる。

 マッチを灯し、その光を当てても、反応は遅い。左右差が大きい。意識の戻りはまだ遠い。

「まずいな。意識が戻る兆候が弱すぎる。このままだと二度目の意識消失もあり得る」

 レオンの声は冷静だが、その額には僅かな汗が泛んでいた。

 カッスルはすぐそばで腕を組み、微動だにせず観察を続ける。その視線は鋭く、獣が息絶えかけた獲物を眺めるかのようだった。

「脳が混線し、世界の輪郭が溶けていく――その過程は、実に美しい。人間が人格という仮面を失う瞬間は、芸術です」

「これは芸術じゃない」かれは怒気を含んだ声で吐き捨てた。

 しかし、その手つきは驚くほど慎重で、店主の頭を少しでも動かさぬよう支えながら、呼吸のリズムを整えようとする。

「テューダー、聞こえるなら深呼吸しろ。無理に喋るな。いいな?」

 ルーカスは識別できないほどぼやけた視界の中で、かろうじてレオンの声だけを認識しているようだった。微かに瞼が震え、脣を動かそうとするが、言葉にはならない。ただ弱々しい吐息が洩れるだけだ。

 その瞬間だった。奥から軽い靴音が響き、高貴の象徴とされるロイヤルブルーの奇抜なドレスを身に纏った白い髪の女が視界に飛び込む。ルーナだ。

「ルーカス、紅茶が切れそ――」すると、息を呑む音が、部屋の静寂を震わせた。倒れ伏す兄、支える金髪の男、それを冷徹に見下ろす男。その全てを一度に理解した瞬間、妹の顔は真っ青に変わった。

「ルーカス! それにあなたたちは誰? ここで何があったの?」ルーカスの元へ駆け寄ろうとする。

「動くな!」かれの声が雷鳴のように響く。妹の身体が硬直する。

「頼む。今は刺激を与えるな。声も掛けるな。君の兄は()()()()()事故によって脳震盪を起こし、まだ意識を取り戻していない。呼吸も脈も不安定だ」

 妹は脣を噛み、手を胸元に押し当てる。泣き声を堪えているのがはっきり分かった。

「でも、ルーカスが……」

「大丈夫だ、私が診ている」レオンは優しく、決して揺らがぬ声で言った。その間にも、兄の瞳は揺れ続け、瞼は時折跳ねるものの、意識の焦点が戻る気配はない。むしろ、再び意識を失いかけているように、呼吸はさらに浅く、不規則になっていく。

 かれは手をルーカスの胸に置き、呼吸のリズムを確認すると、顔色が僅かに険しくなった。

「また呼吸が乱れてきている。まずいな」

「音もなく壊れていく。悲鳴すら出せない。これほど静謐な破綻は久しく見ませんね。あなたが守ろうとするほど、脆さが浮き彫りになる」探偵は淡々と言い放つ。

 レオンの拳が震えた。だが、怒りより先に医者としての手が動く。

「カッスル、貴様は黙っていろ」その声は低く、氷のように冷たかった。

「黙る? ハワード、あなたは本当に指示しないと何も守れないのですね」そのの声は、まるで霧の奥から届くような柔らかな響きなのに、言葉だけが鋭く刃のようだった。かれはゆっくりと顔を上げ、淡々とした調子で返す。

「褒めて下さり、光栄だ」

 ルーナは兄を一歩でも助けに行きたい衝動に駆られながらも、レオンの言葉に縛られ、ただ祈るように手を握り締めるしかなかった。

「テューダー。ゆっくりそのまま深呼吸を」レオンの声は穏やかだが、胸の奥には確固たる緊張が宿っていた。

 カッスルは再び腕を組んだまま、静かに観察する。瞳の奥の興味は、容赦のないものだ。

「ああ、繊細な硝子細工が罅割れ、ゆっくりと壊れゆく様は美しいですね」

「無駄口を叩くな! 貴様は客を入れぬように店を閉めておけ」かれは一喝した。しかし、探偵は従うことなく肩を竦め、楽しげな微笑を泛べるだけだった。その時――ルーナがそっと近づき、手を伸ばして兄の手に触れようとする。

「触れてもいいですか?」とルーナが訊く。

 レオンは、苛立ちながら警告した。「あれ程、近づくなと言ったのに――触れるなら優しく、そして、慎重にだ」

 妹は礼を言い、そっとルーカスの手に触れた。彼の指先に触れる温もりは、儚くも確かな現実感を与えた。すると、兄の目が僅かに開いた。その瞳はまだ焦点を結ばず、世界を断片的にしか捕らえられない。だが、その断片の中に、兄を慕う妹の影と、冷徹に見守るカッスル、そして支えるレオンの姿が映る。

「テューダー、今は呼吸を整えることに集中しろ」かれは囁き、兄の胸に手を置き、鼓動を感じ取る。微かに、だが確実に鼓動は安定しつつあった。

 探偵は微笑を泛かべて呟く。「壊れかけたものの再生は、時として美しい」

 ルーナは必死で涙をこらえる。「お願い」その声は小さく、切実だった。

「どうか泣かないでくれ。今は君の兄を守るのが私の仕事だ」

 レオンの声は揺るぎなく、部屋の空気に沈み込むように響いた。傍らにはカッスルが観察を続ける。その瞳は冷たく光り、揺らぐことなく、壊れかけた人間の一挙手一投足を見逃さなかった。

 ルーカスの意識は再び霧の底に沈み、外界の光景は断片的にしか届かない。瞼の奥では色彩は溶け、音は遅れて届き、頭の奥には鈍痛がじわじわと染み渡る。思考は濁流のように流れ、記憶と現実の境界が脆く崩れていく。微かな光と闇の間で、ルーカスは自分の存在を必死に確かめようとするが、指先が触れる床の冷たさや、妹とレオンの手の温もり以外には、何も確かなものがなかった。呼吸はまだ浅く、脈も不規則に打ち、僅かな動きで頭がぐらりと揺れる。

「テューダー、眠るな」かれの声は、柔らかくも鋭く、霧の中で光の筋を差すようにルーカスを支える。肩と後頭部を支える手に迷いはなく、レオンの冷静さだけが、混乱の渦中にあるルーカスの拠り所となる。

 カッスルは、微笑を泛かべながらじっと観察する。その微笑は甘く、しかし、内側には確実に毒が潜む。壊れかけた人間の脆弱さを、まるで学問の対象を眺めるかのように冷酷に楽しむ視線は恐ろしいものだった。

 ルーナの手が兄の手を優しく握り締める。その指先の温もりは、霧のような意識の中に微かな灯火を灯す。ルーカスは微かに目を開け、瞳孔の焦点が定まらぬまま、淡く光る存在を捉える。混乱の中で、ただ一つの現実がそこにあった――妹の手、そしてレオンの声。

「大丈夫だ、君は生きている。呼吸を整えてくれ」かれは囁いた。言葉は短く、無駄のない命令のように響き、兄の意識を薄く引き上げる。胸の上下はゆっくりと規則を取り戻し、僅かながら安定の兆しが見え始める。

 レオンはそっと兄の肩に手を置き、体の緊張を和らげるように促す。微かに震える指先を感じ取りながら、胸の鼓動を確かめる――まだ不安定だが、着実に生命のリズムは戻りつつあった。

「頼むかは戻ってきてくれ」かれの声は穏やかだが、その眼差しは厳しく、決して揺らぐことはない。意識の隙間を縫うように、レオンの声が淡い光のように脳内に届く。ルーカスの顔に僅かな表情の変化が見え、手足の力が少しだけ抜けた。その隙を縫うように、カッスルは言葉を洩らす。

「儚い秩序が、ほんの少しだけ崩れる瞬間――実に興味深い」その声は静かだが、毒を含んでいる。兄の揺れる意識はそれを感知し、無意識の恐怖が再び脳裏を支配する。まるで繊細な硝子細工が振動して割れそうになるかのように、精神の縁が薄く震える。ルーナはルーカスの手を握り直し、声にならない祈りを送る。涙はまだ堪えられるが、胸の奥には凍りつくような恐怖が広がっていた。かれは冷静に、確実に処置を進める。手元の動きは慎重で無駄がなく、脳震盪による頭部の血流の乱れ、微細な神経反応の遅れ、呼吸の浅さをすべて計算しながら調整していく。

 兄の瞳が僅かに揺れ、視界のぼやけが少しずつ安定してきた。体の緊張が少し解け、微かな吐息が胸を上下する。

 探偵はその様子を冷徹に見守る。毒のような興味は衰えることはなく、揺らぐ意識の隙間に触れるたびに、微かに口元が歪む。探偵の存在は、治癒の現場に潜む闇のように、静かに、しかし確実に空気を支配していた。

「興味深いですね。まだ完全ではないですが、確かに生きている」

 カッスルの声は、甘美で危険な響きを帯びている。ルーカスの神経はその音に反応し、無意識の恐怖が微かに波打つ。

 だが、レオンは、冷静にそれを制御する。薬も用いず、ただ手技と声だけで、生命の糸を繋ぎ止めようとする。外の霧が窓を曇らせる中、室内はこの静かな戦いの場となっていた。ルーカスの意識はまだ完全には戻らないが、呼吸は安定し、脈も揃い、僅かに光のような秩序が戻りつつある。まるで、壊れかけた精密機械が慎重に組み直されるかのように――確かに、生きている。妹はその微かな回復を目の当たりにし、震える手を握り締めながらも、希望の糸を心に結びつけた。

 探偵は、微笑を泛かべたまま、なおも観察を続ける――壊れそうな秩序の美学を、じっと目に焼き付けながら――しかし、ここで探偵の予想を上回ることが起きる。

 兄の瞼がゆっくりと開き、焦点がかろうじてかれの顔に合う。視線はまだ揺れているが、呼吸の乱れは減り、脈も安定してきた。

「あなたは?」弱々しい声が、震える脣から洩れる。

「医者だ。それより、テューダー、妹の手を握り返してやれ」妹の瞳も、ようやく安堵の光を帯びる。握り返えされたその指先は、兄が戻ってきたことの現実を確かめるように強く握り直した。ルーカスはしばらく視線を彷徨わせ、やがて僅かに顔を上げる。冷たい暗い海のような青い瞳が、かろうじてカッスルを捉えた。かれは微かに口角を上げるが、すぐに視線を逸らす。

「一体何が……」意識が戻るにつれ、混乱と恐怖が後を追いかける。しかし、かれの落ち着いた声と妹の温もりが、徐々にその波を鎮める。

「君は脳震盪を起こしただけだ。もう安全だ」

「ルーカス、説明は不要よ。今は休むことを最優先して」ルーナの声は穏やかで確かな安心感を含んでいた。ルーカスはふらりと体を支えられ、椅子に腰を下ろす。頭の中の霧はまだ完全には晴れていないが、生命の秩序が徐々に戻りつつあることを、ルーカス自身も感じ取っていた。

 カッスルは静かに観察を続け、微笑を絶やさない。その毒を含んだ視線は変わらず、しかし今は、意識を取り戻した兄の生の力を、冷ややかに楽しむだけだった。

 かれは肩の力を抜き、ルーカスの額に手を添えながら小さく息を吐く。

「よし、落ち着いたな。このまま静かに様子を見よう」

 ルーナはルーカスの手を握ったまま、静かに頷いた。室内に流れる暖かな光と、外の霧の冷たさが対照的に絡み合う中、三人の間には言葉以上の安堵があった。しかし、兄はまだふらつき、視線も完全には定まらない。だが、深呼吸を何度か繰り返すうちに、体の奥で微かに力が戻る感覚を覚えた。

「動けそうだ」声は掠れているが、自分の体が確かに生きていることに安心感が滲む。妹は落ち着いた声で囁く。

「無理しなくていいのよ」

 レオンは腕を組みながらも、目を細めて慎重に観察している。「まだ完全に回復したわけではない。無理に動かすと再び意識が乱れる可能性がある」

 ルーカスは小さく頷き、椅子の背もたれに寄りかかる。外の冷たい霧と、店内の温かい光の対比が、兄の混乱した感覚をゆっくりと落ち着かせた。

 探偵は微笑を絶やさず、壁際で静かに立っている。言葉は発さないが、その視線がルーカスの動きをじっと追う。

 ルーナが小さな声で尋ねる。「紅茶を飲む? それとも、少し目を閉じるだけにする?」

「目を閉じるよ」兄は弱々しく答え、手で妹に合図を送り、静かに瞼を閉じた。

 レオンはその肩に手を添え、呼吸のリズムを整えさせる。脈拍は落ち着き、呼吸も徐々に深くなり、体温も安定していく。まるで、壊れかけた精密機械がゆっくりと組み直されていくかのようだった。

 カッスルはその様子を冷静に観察し、微かに呟く。「壊れかけていた秩序が戻りつつある。実に面白い」

 ルーナは静かに息をつき、ルーカスの手を握り続けた。「大丈夫、今は大丈夫よ」兄は瞼を閉じたまま、ゆっくりと呼吸を整えている。しばらくの間、ルーカスの体からは微かな震えが残るものの、深呼吸に伴い、少しずつ落ち着きを取り戻していく。ル妹はそっと肩に手を添え、静かにその回復を見守る。

 数分後、兄の瞼が僅かに動き、半開きになる。視界はまだぼんやりとしているが、光や人影を微かに認識し始めた。レオンはその様子を見逃さずに静かに見守った。

 ルーカスはゆっくりと頭を動かし、ぼんやりとルーナの手に触れた。温かさが現実感として意識に届く。ルーカスの瞳はまだ完全には焦点を結ばないが、存在を確認するかのように、光を捉えている。

 探偵は壁際で腕を組んだまま、微笑を泛かべて観察を続ける。「壊れかけていた秩序の回復――この微細な過程こそ、実に興味深い」

 妹は兄の手を握り返して、小声で囁いた。「大丈夫、もう怖くないわ」

 ルーカスは瞼を完全には開けられないまま、微笑を泛かべて頷く。視界の霧はまだ濃いが、呼吸と脈は安定しており、生命の秩序が戻りつつあることを、体が確かに感じ取っていた。

 かれはようやく肩の力を抜き、微笑を泛かべた。「よし、このままゆっくりと休ませよう」外の霧が窓に淡く光を反射させ、店内の木材の香りと混じり合う朝――不穏な影が背後に潜む中でも、この小さな空間には、確かな静寂と秩序が戻りつつあった。

 だが、その静寂と秩序を乱したのはカッスルだった。「さて、儚くも美しい兄妹愛をお見せくださり、感謝しますよ。ルーナ嬢――ところで、エリス嬢は地下室に閉じ込めたままですか? それとも……」

 その瞬間、妹の顔色が再び真っ青になった。その声は甘美だが、芯には針のような毒が潜んでいた。妹の手は本能的に兄の肩へ縋りつくように伸び、指先が震えているのを必死に抑え込む。

「やめて! その話は――」

 しかし、探偵の残酷で美しい微笑によって容易く断ち切られた。

「驚かれましたか? いえ、当然でしょう。ですが、私の関心はただ一つ、この壊れかけの秩序が、これからどう動くのか。観察することにあるだけです」

 ルーナは言葉を喉を詰まらせ、それでも恐怖を押し殺すように問い返した。

「あ、あなた、一体何者なの? どうしてそんなことを知っているのよ? 何が目的なの?」

 カッスルは壁際から離れず、まるで余裕しかない声音で肩を竦めた。

「私は、ただのしがない探偵です。そして――美しい秩序と、その崩壊の一瞬を記録する者でもあります」その眼が、ふとレオンへ流れる。

「目的などありませんよ。ただ、目的ならたった今あなたの兄の命を救ったレオンハルト・ハワードに尋ねるべきでしょう。あなたがハワードの婚約者を攫ったその理由を――この場で、彼に説明して差し上げては?」

 ルーナの呼吸が止まる。レオンは冷たい目で、黙って探偵を見ている。その沈黙自体が、妹にとっては刃物のようだった。

 ルーナの瞳がに揺れ、恐怖と自己防衛の本能が入り混じる。「知らないわ、何も知らないわ!」その声は震えているが、まだ抵抗の色を残していた。

 カッスルは壁際で静かに微笑み、視線をレオンに向ける。

「記録は、隠せぬものを映し出す――ただそれだけです」

 レオンは一歩前に出る。声は冷たく、感情をほとんど露わにしない。

「説明はしなくていい。君のやったことはこの男が全て知っている――ただ、もう騒がないでくれ」

 妹は身体を震わせ、その動揺を必死に押さえ込む。かれの視線は、優しさはなく、鋭い刃のように容赦なく突き刺さり、言葉は抑止力としてではなく、心理的な圧迫として作用した。

 探偵は微かに目を細め、楽しげな響きを含む声で呟いた。「なるほど。秩序を壊す者に、秩序を示す瞬間――これもまた、観察に値します」

 ルーナは、恐怖で思わず視線を落とす。逃げ場のない鋭い視線と静寂の中で、三人の間に微妙な緊張が張り詰める。

 すると、ルーカスは頭を押さえながら、肩に力を入れて、震える声で前に出た。瞳には痛みと決意が入り混じる。

「ハワード、違うんだ! 僕が全て悪いんだ。ルーナが――いや、僕の妹がエリスを攫ったのは事実だ。あれは僕の責任だ。僕が気を抜いたから、ルーナはあんなことをしてしまったんだ」妹は小さく身を縮め、顔を上げることもできないかった。兄が、自分の罪まで背負おうとする様子に微かに涙が滲む。

 カッスルは微笑し、その声は甘美でありながら冷たく呟く。「なるほど。秩序を守ろうとする者が、崩れゆく秩序の責任を引き受ける。これもまた興味深いですね」

 レオンは腕を組んだまま、冷たく静かにルーカスを見つめながら言う。「もういい。説明は十分だ」

 ルーカスは肩を落とし、力なく息をつく。ルーナは兄が自分を守ろうとする背中に小さな安心を見出す。

 すると、兄はふらつく足元で必死に踏み出した。だが、その瞳だけは決して揺らいでいない。

「ハワード、僕の部屋に君の婚約者がそこにいる」かれの視線が僅かに動く。冷たさはそのまま、しかしどこか底の読めない沈黙が流れる。

「テューダー、悪いがすぐに案内しろ」それは容赦のない言葉だった。その言葉に妹の肩がびくりと跳ねた。ルーカスは弱々しく頷き、妹の腕を取る。

「行こう、ルーナ」二人は廊下を進む。レオンはその後を歩くが、歩幅も足音の静かさも、まるで影のようだった。振り返ればそこに立っていそうな、逃れられない圧の気配。探偵は遅れて歩きながら、静かに微笑を泛かべるだけだった。

「家族という秩序は、壊れる時ほど美しい」その言葉が、ルーナの背筋にぞくりと冷たい痛みを走らせた。

 ようやく自身の部屋に辿り着き、ルーカスは震える手で扉を開ける。薄暗い室内、カーテン越しの淡い光、そして、ベッドの上に静かに眠るエリス。その瞬間、兄の身体から力が抜け、膝が落ちるように崩れかけた。

「ちゃんと無事だよ……」ルーカスの声は安堵と疲労の区別がつかなくなっていた。

 妹は胸の奥が強く締めつけられる。兄が守ろうとしてくれたことも、少女にしたことも、全部が重なって、一筋の涙が流れた。

 かれはゆっくりと部屋に入る。その冷ややかな視線が、眠るエリスへ――そして、ルーナへと移る。沈黙を貫いたまま、空気は凍りつくように張り詰めた。

 レオンはベッドへ歩み寄り、静かに膝をついた。

眠るエリスの頬にかかった髪を、指先でそっと払う。その動きは驚くほど繊細だが、表情だけは冷たいままだった。

「エリス」小さく名前を呼ぶと、エリスの長い睫毛が僅かに震えた。ゆっくりと瞼が開き、薄い光が瞳に差し込む。

「レオン?」小鳥のような声でそう呟くと、エリスはぼんやりと彼の顔を見上げた。次の瞬間、反射的にレオンの袖を握った。本人の意思というより、恐怖の余韻が残る手が勝手に求めたようだった。

 かれは短く息を吸い、その僅かな震えを眼の端で受け止める。ほんの一瞬だけ表情が揺れ、彼はエリスの髪をひと撫でして落ち着かせるように温かく、そして、優しく触れた。「もう大丈夫だ。俺が来た」

 少女その声に、微かに安堵し、指先の力を弱めた。しかし、その光景を見ていた妹の胸の奥で、何かがぷつりと切れる。ルーカスの言葉、エリスの姿、レオンの冷静な手つき。そのどれもが、彼女の【してしまったこと】を突きつける。視界がにじみ、膝が震える。

「私は――」声はか細く、酷く痛ましい。己のしたことが、どれほど他人を傷つけていたのか。それを突きつけられ、罪悪感が堰を切ったように溢れて出す。少女はまだ弱い目でルーナを見つめた。その表情は怯えでも憎しみでもなく――ただ、混乱と戸惑い。知らない場所で、知らない誰かに閉じ込められた少女の静かな怖さが残っているだけ。

 妹は息を呑んだ。エリスのその表情が、なによりも胸の奥に突き刺さる。そして、レオンは、そんなルーナに視線を向けて冷たく、淡々と言った。

「怖がらせた相手の顔くらいきちんと見ろ」冷淡さでありながら、容赦も慰めも一切ないその言葉に妹は、踏み倒された花のように崩れ落ちた。かれはもうルーナを見ていない。その眼差しは完全に、少女だけに向けられていた。

「レオン、ルーナさんを責めないであげて。それに、私がここにいるのはルーカスさんに助けてもらったおかげなの」

 レオンはしばらく沈黙したあと、エリスの言葉を受け止めるように眼を細めた。

「そうか」短く、重みのある声が室内に響いた。肩の力を抜く仕草には、普段見せない柔らかさが滲んでいる。その光景を、壁際でじっと見守る二つの影があった。崩れ落ちながらも兄は眉一つ動かさず、静かに三人の様子を見守っている。隣に立つカッスルは、腕を組みながら微かに口角を上げた。冷酷な眼差しの奥に、計算された興味と、誰もまだ気づかない三人の変化への感知がちらりと光る。

 少女はそっとレオンの肩に手を添えたまま、声を震わせずに、切実に囁いた。

「お願い。ルーナさんを責めないで。血の呪いが発症して、暴走してしまっただけなの。どうか、赦してあげて」

 かれは小さなため息を洩らし、視線を僅かに逸らす。冷たく痛みを孕んだ声で答えた。

「赦せるものか。君を攫い、傷つけた相手だぞ。そんな相手を簡単に赦せだなんて……君は、あまりにも優しすぎる」

 エリスはゆっくりと首を振り、鋭い言葉に震える脣を噛みしめながらも、諭すように続けた。

「レオン、もういいの。ルーナさんの顔を見て。自分が犯した罪に押し潰されそうで、今にも壊れてしまいそうよ」

 空気が一瞬止まる。レオンは、冷たい瞳で妹の表情を読み取ろうとした。そこには、怯えと自己嫌悪、そして弱さを抱えた女の全てがあった。怒りよりも先に、理解すべき現実が胸の奥に突き刺さる。かれの脣が僅かに動く。だが、その声はもはや怒りではなく、静かで重い共感の響きを帯びていた。

「分かった。だが、簡単ではない。しかし、今は君のために赦すしかないかもしれない」少女は小さく頷き、肩越しに差し込む微かな安心の温もりを感じた。

 ルーナは俯き、手のひらで胸を押さえながら、息を整える。自分が犯した過ちと、その結果で傷ついた者の姿が頭をよぎる。だが、レオンの言葉とエリスの必死な願いが、重く沈んだ胸に小さな光を差し込んだ。赦されることの意味をまだ完全には理解できずにいるが、その光に触れ、心の奥の緊張が少しだけ和らぐのを感じた。三人の間には言葉にできない静かな共鳴が生まれる。壊れかけていた秩序が、僅かに、しかし、確かに戻り始めていた。

 探偵は微笑し、最後に低く囁いた。「さて、これ以上長居は無用ですね。秩序も混沌も、すでに十分に見せてもらいました。ハワード、私は先に外で待っておりますよ。最後に、テューダー壊れないようお気をつけて下さい」

 かれはカッスルの背中を冷たい眼差しで追いながらも、脣を固く結んだ。

 少女は小さく肩を震わせ、朝の柔らかな光が差し込む床をぼんやり見つめる。壊れかけた秩序と、それを守るための静かな覚悟だけが、まだ淡い日の光に溶け込むように漂っていた。

 探偵は扉の外で立ち止まり、朝の冷気に包まれた街並みを見渡す。微微を泛かべ、低く囁く。

「美は常に、触れれば傷つくもの……」その声は、柔らかな光に紛れながらも確実に室内の空気に残り、残された四人の胸に甘美で不穏な余韻を刻みつけた。

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