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二十三章

二十三章

 売春宿内の空気は朝の喧騒で張り裂けそうだった。ケイトは開店準備の手を止め、レオンの寝室へ向かおうと廊下を駆け抜ける。途中、化粧を施し、声高に笑いあう娼婦たちの甘い声が売春宿内に響き渡る。女主人は階段を上がって、かれの眠る部屋の扉を蹴り開けた。優雅さも、淑女の作法も、旧友の愚行の前には役立たないからだ。

 部屋へ入ると、そこにはぐったりとしたレオンの姿があった。前夜、ほんの少量のモルヒネを打っただけで、かれの医者としての理性と誇りは、まるで砂の城のように脆く崩れ去っていた。眼は死を見つめるかのように半ば閉じられ、白いシーツの上で酷く弱々しく横たわっていた。その顔には、エリスを攫われた痛みと、逃走願望が皮肉なことに優美さを添えて滲んでいた。

 ケイトの血液が逆流するような怒りが全身に走る。「レオン! 何してるの、これ!」頭ごなしに咄嗟叱咤(とっさしった)し、近くの廊下まで響く。

 レオンは力なく目を開け、低く掠れた声を洩らした。「すまない、心の痛みをごまかしたくて……」女主人の青い瞳は宝石タンザナイトのように光る。「ごまかすですって? 現実から逃げるために薬に頼るなんて、医者としても男としても最低よ! レオン、あなたの痛みはよく知ってるわ――でも、こんなことで逃げてはダメでしょう?」

 かれは苦しげに肩を震わせながら、声をかすかに絞り出す。「ほんの少しだけで良かったんだ――あまりにも現実が重過ぎる」ケイトは勢いよくベッドに踏み込み、レオンの両肩に両手を置き、叱責の嵐を浴びせる。「重いのは十分わかるわ。けど、薬で逃げるのは卑怯よ! 今のあなたの姿を見て唯一喜ぶのはカッスルだけよ――【やはり、あなたは崩壊していく姿が最も美しい】と、間違いなく悪趣味極まりないことを言うわ」

 かれは弱々しく笑ったような、泣いたような顔で女主人を見つめる。

「ケイト……」

「レオンハルト・ハワード!」ケイトは怒りにわなわなと震えながら、手を強く握る。「甘えちゃダメよ。あなたには守るべき愛する人がいるでしょう? エリスのためにも、自分のためにも、目を覚ましなさい。そして、しっかりなさい!」

 レオンは力なく頷く。朦朧とした意識の中で、女主人の厳しさは、まるで現実の鉄槌のようにかれを打ち据えた。胸に内に疼く痛みと絶望の狭間で、彼の心はようやく現実を認めざるを得なくなるのだった。

 ケイトは深くため息をつき、呼吸を整えながらも、再びかれの両肩に両手を置いた。その手は慈愛ではなく、怒りと絆の象徴だった。長年の友情が生み出す、制御不能なほど強烈な叱責だ。廊下の喧騒は遠く、二人だけの緊張が室内に充満する。レオンの微かな震えと、ケイトの激情の波が交錯し、まるで嵐の前の静寂のように、時間が止まったかのように感じられた。重たい沈黙が続く。だが、その沈黙を破ったのは女主人だった。

 女主人は、小さな身体で力一杯にかれの腕を強く掴んだ。「さあ、立ちなさい!」

 レオンは目を伏せ、弱々しく頭を振る。「無理だ」

「無理じゃないわ! あなたは医者でしょう? 医者なら、自分の体を粗末にするわけにはいかない!」ケイトの声には必死さが混じっていた。旧友であるがゆえに、彼女の感情は抑えきれずに迸る。かれの体は重く、モルヒネで鈍った動きはまるで鉛のようだった。それでも、女主人はレオンを強引に立たせ、かれの腕を支えて歩かせる。足取りはよろめき、互いに息も乱れる。だが、ケイトの眼は鋭く、決して折れない光を宿していた。

「ケイト、俺は……」レオンの声は震えていた。

「もう言い訳は聞かない! 痛みや悲しみのせいにして、薬で逃げるなんて、最もあなたらしくないわ!」女主人は怒鳴るように言い放った。その声の中には、深い友情と信頼が隠れていた。ようやくかれの重い体を支えながら、椅子に座らせる。

「少しだけ待ってちょうだい」ケイトは部屋を飛び出し、駆け足で厨房へ向かい、かれの朝食を持って来る。レオンの元へ戻ると、テーブルにそれを置いた。

 女主人は冷静に、厳しくかれの前に立ち、先程、テーブルに置いた朝食の皿を指差す。「食べるのよ、レオン。命を繋ぐのは薬ではなく食事と現実よ。本当にエリスを救いたいのなら食べなさい!」

 かれは一瞬、皿の中身を見つめ、まだぐったりとした表情のまま小さく頷いた。レオンは、渋々スプーンを受け取った。だが、ケイトは奪い返すように、かれの口元へ差し出した。

「ほら、口を開けるの。大人の赤子さん」

 レオンは小さくため息をつき、煮込みを受け入れる。温かい野菜と鶏肉の煮込みがのどを通るたび、現実が少しずつ戻ってくるようだった。

 女主人は、厳しい視線を緩めず、その手の温かさと強さでかれを支え続ける。「泣いてもいい、怒ってもいい。でも、自分を壊すための薬に頼るべきではないわ。あなたは医者なんだから、自分を治す責任があるでしょう?」

「ケイト――」

「言葉はいらないわ。今はただ立ち直るの。レオン忘れないで。友として、私はここにいるのよ」ケイトの声には硬い決意と温もりがあった。廊下の喧騒はまだ遠く、館内は静まり返る。二人だけの時間の中で、女主人の言葉は、レオンの心を少しずつ現実に引き戻していく。だが、少し前の過去の痛みは消えない。しかし、彼女の力強い手と叱責によって、少なくとも今、この瞬間、かれは立ち直る一歩を踏み出したのだった。

 ケイトはテーブルの端に立ち、レオンを見下ろす。

「ケイト、すまなかった。あとは自分で食べるよ」

「そう。あなたみたいな大の男に赤子みたいに食事を与えるという稀有な体験ができて、私は本当に光栄だわ」

 女主人は微笑を泛べ、スプーンを彼に渡した。かれは鼻を鳴らす。

「こちらこそ、褒めて下さり光栄だ」

「褒めてないわよ。それで、モルヒネを打った感想は?」

 レオンは、少しだけ目を細めたあと、悪魔じみた微笑を泛べる。「そうだな――ここにいる娼婦全員を抱いたような快楽だ。もちろん君も含めて」

「レオン、あなたは本当に最低ね!」

ケイトは怒鳴った――怒鳴ったはずなのに、その目は明らかに面白がっている女の光を帯びていた。

「三度でも四度でも言ってくれて構わないさ。最低と言われるのは案外悪くない」かれは微笑を泛べる。死人のような顔色でも、毒舌を受け流す余裕だけは死なずに残っているらしい。

 レオンは女主人へと視線を向ける。

「ところで、カッスルはまだ来ていないのか?」

「来てないわよ」ケイトは呆れていた。

「それより、あなたのその顔――死人のふりなら満点だけど、演技じゃないでしょ? 食事が済んだら少しでも長く休みなさい。 カッスルが来たら引きずってでも知らせてあげるから」

「助かるよ。引きずられる前に死ななければね」

「あなたは頑丈だから死にはしないわよ! ほら、さっさと食べなさい。それとも、また大人の赤子さんに戻る?」

「それだけは勘弁してくれ」かれは呻くように答え、その顔はまだ蒼白いが、毒気のある軽口だけは健在だった。

 ケイトは鼻を鳴らした。しかし、口元には薄い微笑が泛んでいた。「なら、ちゃんと生きて食べなさい。死にかけの医者なんて、この世で最も信用ならないわ」

 レオンはふた返事をして言う。「ケイト様のご命令とあらば」

「当たり前でしょう? 昔からあなたは放っておくと無茶ばかりするかろくなことをしない――この二択しかないのだから!」二人の会話には棘があるのに、その裏に長年の信頼と親しさが確かに息づいていた。

 かれはもう一匙を口に運ぶ。味の判別などできないが、温かいという事実だけが胸の奥の冷えた部分を僅かなに融かした。女主人は腕を組み、レオンがしっかり噛んで飲み込むのを確認すると、ようやく腰を下ろした。

「しかし、本当に情けないわね、レオン。娼婦たちでもここまで手のかかる男はいないわよ」

「それは光栄だな。君に面倒を見てもらえる理由がまた一つ増えた」

「調子に乗らないの!」

 ケイトは、かれの額を軽く弾いた。その仕草は怒りよりも、呆れの混じった慈しみに近かった。しかし、女主人はそれを認めようとはしない女なのだ。

「それで、何が一番きいたのよ?」ケイトは椅子の背にもたれ、目を細めた。

「モルヒネ? それとも、現実から逃げたいという自分の弱さ?」

 レオンは思わず苦笑した。「弱さだよ。薬より、ずっと強烈だった」

「よく言ったわ。その自覚がない男は、崩壊して朽ちていくのよ」

「君は相変わらず手厳しい」

「友達にはね。けど、客にはあなたが想像するよりもっと優しいのよ? それも、甘美的にね」

「それは、それで複雑だな」

「複雑なら、生きて解決しなさい。死んだら何一つ文句も言えないでしょう?」

「死人は静かだ。たまには、それも悪くないだろう」

「あなたが静かになったら、世界が一日くらいは平和になるかもしれないわね」

「それは君の店か?」

「そうよ。あなたが倒れたりするたびに、誰が後片付けしてると思ってるの?」

 かれはかすかに視線を逸らした。その仕草が、ケイトの怒りを少しだけ柔らかくした。

「……すまない。迷惑ばかりかけている」

「今さら謝らないで。似合わないわ」女主人はひらりと手を振った。「しつこいようだけど、立ち直りなさい。エリスもあなたも、これからは夫婦として生きて向き合わなきゃいけないことがあるのだから問題は山積みよ」

 その言葉に、レオンの喉がかすかに震えた。モルヒネでは誤魔化せない痛みが、胸の奥で蠢いた。

「わかっている」

「わかっているなら、もう少し顔を整えなさい! カッスルが来たときに、医者のくせに瀕死な顔をしていたら笑いものよ」

「笑うのは君だけだよ」

「ええ、もちろん。誰よりも先に笑ってあげるわ――全力でね」

 ケイトは立ち上がり、空になった皿を除くと、かれの頬を軽くつまんだ。

「ほら、しゃんとしなさい! 私の店で男が泣き崩れるなんて景気が悪いのよ」

「泣いてない」

「泣きそうな顔してるわよ」

 かれは言い返そうとしたが、すぐにやめた。女主人の言葉は、図星で反論出来なかったのだ。「ありがとう、ケイト」

「その言葉だけは似合ってるわ。ほら、大人しくしてなさい。カッスルが来たら呼ぶわ」

 ケイトは部屋を出ていく直前、振り返りもせずに言った。「あとでまた叱るから覚悟しなさい」

 レオンは深く、長い息を吐いた。その息の中に、痛みと、微かな安堵が混じっていた。

 女主人が去った後、部屋に静寂が訪れた。売春宿の廊下で響く喧噪は、厚い扉に遮られて遠い。レオンは椅子に座ったまま、僅かなに前屈みになり、しばらく動かなかった。心臓の鼓動はまだ鈍く、身体は冷えた鉛のように重かった。モルヒネの残滓が血の中を漂い、思考を霞ませている。だが、ぼやけた世界の中でも、ケイトの叱責だけははっきりと耳に残っていた。――甘えるな、逃げるな、立ち直れ! 女主人の言葉はどれも正しい。それが余計に胸の奥に刺さった。

 かれは片手で顔を覆い、深く息を吐いた。冷たい指先が、額の熱と汗を確かに感じとった。

「医者でありながら、患者よりも先に自分を壊してどうする」思わず独り言を洩らす。

 エリスが攫われた日から、胸の内には焼け焦げるような罪悪感だけが居座り続けていた。守れなかった、見失った、救えなかった――その痛みは、痛みであることを拒むかのように膨張し、言葉にならない重さでレオンの胸を締めつけ、苦しめていた――だからこそ、薬に逃げたのだ。それが事実だ。かれは視線を落とし、空になった皿を眺めた。自分の意志ではなく、半ば強引に口へ押し込まれた食事。その温かさだけは、まだ喉の奥に残っていた。

「食べろと言われるのは、悪くなかったな」そんな感想を抱く自分が余計に哀れで滑稽だった。誰かに世話を焼かれるほど落ちぶれた覚えはない。だが、落ちぶれた現実は目の前にあり、否応なく向き合わされている。かれはゆっくりと立ち上がる。しかし、足元が僅かなに揺れた。モルヒネの名残か、疲労か、それとも内側の虚無が揺らしているのかは分からない。静かに窓辺に歩き、カーテンを少しだけ開けた。冬の朝日が差し込み、灰色の街を照らしている。レオンは小さく呟いた。「立ち直るしかない。エリスのために……」言葉にした瞬間、胸の奥が鈍く疼いた。虚無と痛みを同時に抱え込んだような感覚――だが、逃げる理由にはならない。

 かれは椅子に戻り、ゆっくりと座った。身体の重さに変化はない。それでも、先程より呼吸は楽にになっていた。

「カッスルが来たら、きっと散々に笑われるだろうな」それを想像した瞬間、ようやく本物の苦笑が泛んだ。あの男は、あらゆる悲劇を愉しむ悪趣味な人間だ。そして、そんなカッスルを受け入れる余裕が戻ったという事実が、レオン自身の小さな回復を示していた。

「戻りつつあるのは、ケイトのおかげだな」そう言葉を洩らした瞬間、扉の向こうで足音が止まった。かれの感覚が僅かに緊張する。軽いノック、そして、扉が軋む音を立てて開いた瞬間、部屋の空気がひやりと変わった。入ってきたのは、濡羽色の外套を羽織り、いかにも他人の不幸を(こう)にして朝食を取る男という面構えの探偵だった。その榛色の瞳は、瀕死の男を鑑賞する美術批評家のように冷たく愉快げで、何より悪趣味な光を帯びていた。

「おはようございます、ハワード。どうやら死にかけているお聞きしましたが、生きているではありませんか!」

 レオンは顔を手で覆い、乾いた声を洩らす。「カッスルか。よりによって一番見られたくない時に来るな」その声はまだ弱々しかったが、確かに、生の色が戻りつつあった。

「実に残念です。あなたには失望致しました。甘美な愛に溺れ、それを失い、破滅しようとする様をこの眼で見届けたかったです」

「お前が失望するほど、俺は死にかけていたらしいな」

「おや、らしいも何も、ケイト嬢からの報告は実に鮮やかだものでしたよ」

 カッスルは手袋を外しながら、部屋を優雅に歩く。

「【モルヒネでぐったりして床に落ちてたわよ! まるで腐った芸術家よ】――でしたかね。」

「ケイト、余計なことばっかり言いやがって」

 かれが眉間を押さえると、探偵は美しい微笑を泛べた。心底嬉しそうな、そして、それは見慣れた悪魔じみた微笑だった。

「良い報告です。ここ数ヶ月で一番の朗報ですよ」

「俺が落ちぶれるのが、そんなに愉快か?」

「愉快以外に一体何があると言うのですか? あなたの崩壊は芸術そのものです」

 カッスルは椅子を引き、レオンの前に腰かける。その眼差しは、弱った動物を見る捕食者のそれだが、妙に優雅で品さえ感じられる。

「エリス嬢が攫われ、眠れず、食すらまともに喉を通らず、薬に逃げる――ああ、美しい! まさに、悲劇の男が出来上がったのです!」

「褒めているのか、侮辱しているのかどっちだ」

「もちろん、大変褒めておりますとも! あなたが追い詰められると、どうしてこんなに魅力的になるのかとても不思議なものです」

 かれは深いため息をついた。この男にまともな慰めを期待した自分が最も愚かだったと己に後悔した。

「カッスル、お前だけは見舞いに来てほしくなかった」

「何を仰るのですか? 私には【友人】の不幸を最も近くで見届ける義務があるのです」

「何だその義務は? そして、友人になった覚えはない」

「おや、随分と冷たいことを言うのですね」

 探偵は楽しげに肩を竦める。その動作一つで、レオンの疲労はさらに増し、同時にまだ笑える余裕を思い出す。

「それで、どれくらい落ちぶれたのですか? 立てますか?」カッスルは足を組みながら、好奇心を隠そうともしない。レオンはゆっくりと立ちかけたが、膝が揺れた。すかさず椅子に戻る。

「こんなものだ」

「とても素晴らしい。弱り切った男には、特有の色気がありますね」

「お前、医者の前ではその発言は控えろ!」

「あなたは医者以前に、人として壊れているところが魅力なのですよ」探偵は、巻煙草を取り出し、燻らせて吸い始める。そして、愉悦を隠しもしない声で言った。

 かれはもう一度深く息を吐き、白い天井を見た。モルヒネの影がまだ視界の隅に揺れている。それでも、カッスルの登場は奇妙な安心をもたらしていたのだ。この男が笑っている限り、世界は崩壊することはない――そんな錯覚すら覚えるのだ。

「それで、わざわざ俺を眺めに来ただけか?」

「まさか」

 探偵は、わざとらしく眉を上げた。

「あなたを約束通り、連れに来たのです。そう、テューダー・リジーへ」

 その名を聞いた瞬間、レオンの胸が鋭く痛んだ。だが、その痛みは先ほどよりは確かで、現実への感覚を取り戻させるものだった。

「歩けますか? 難しいようであれば、抱えていきますよ」

「それだけは断る!」

「では、立って下さい。ゆっくりで構いません。私はそれを眺めて楽しみますから……」

 しかし、その時だった。廊下から響く、怒りの気配がした。次の瞬間、扉が勢いよく叩かれ――「カッスル! レオンを揶揄って楽しんでいるでしょう!」ケイトが突入してきた。

 レオンは両手で顔を覆い、残った体力を全部使って呻いた。「二つの地獄が揃いやがったか……」

 売春宿の女主人は仁王立ちになり、青い瞳を怒りで燃やしていた。

 一方、椅子に座り、優雅に巻煙草を吸う探偵は、ケイトを見るなり、心底嬉しそうに微笑を泛べた。

「ようやくお出ましですね。喧しい母親役の登場です」

「誰が母親ですって? あなたみたいな変態とモルヒネ男を産んだ覚えはないわ!」

 カッスルは顎に手を添え、芸術作品を鑑賞するように女主人を見た。

「叱る、怒鳴る、世話を焼く――実に母性的ですね」

「黙りなさい!」

 ケイトはつかつかと歩み寄り、かれの肩に手を置く。

「カッスル、レオンはまだ弱ってるのよ。少しは労わる気持ちはないの!?」

 探偵は幸福そうに目を細めた。「むしろ弱っているからこそ素晴らしいのですよ」

「最低ね、あなたのその歪んだ美学全く理解できないわ。」

「ケイト嬢とハワードに最低と言われると、不思議なことに褒められている気がしてなりませんね」

「一度も褒めてないわよ!」

 ケイトが完全に怒りの炎を燃やす中、レオンは椅子の背にもたれながら、酷く静かにその地獄を見つめていた。

「会話の内容がのほとんどが最低と愉快で構成されてるな……」体力はまだ戻らず、頭も鈍く重たい。だが、この二人の言い争いには妙な安心感があった。世界がどれだけ崩れても、この二人は不変――そんな奇妙な思いが胸の奥で揺れた。

「ケイト嬢、どうか落ち着いて下さい。私はただ、ハワードの状態を確認しに来ただけです」

「嘘ね。あなたは、弱ったレオンを鑑賞して悦んでいたのでしょう」

「隠すようなことでも無いと思いますが、何か問題でもおありで?」

「全くあなたと言う人は、開き直るだなんて最低ね!」

 レオンはこめかみを押さえ、囁く。「頭痛が酷くなってきた」

 女主人はレオンを庇うように立ちはだかった。「カッスル、レオンに必要なのは()()であって、嗜虐的な鑑賞者じゃないの!」

「それは大きな誤解ですね。私はハワードが崩れていく姿をとても美しいと思っただけです」

「それが間違ってるって言ってるのよ! この悪魔!」

 かれは深く息を吐き、そして、言う。「ケイト、その辺にしてくれ。カッスルもいつものことだ」

「レオン、あなたが優しすぎるのよ!」

「その通りですね。だからこそ、崩れた時の落差が美しいのですよ」

「黙りなさいって言ってるでしょう!」絶え間ない言い争いが続く。かれはそっと目を伏せた。モルヒネの影がまだ薄く残る意識の中で、ケイトの怒声とカッスルの皮肉が奇妙なことに心地よく響いた。

「なんだかんだで、こいつらがいると助かるな」呆れながらも、そんな実感が否定できなかった。

 レオンは眼前で、激しく火花を散らす二人の声に額を押さえた。二人の言い争いは、まるで売春宿全体を震わせるかのように大袈裟に、そして大胆に響いている。

「あなたね! この男を連れ出すなんて正気なの!? まだ立つのだってやっとなのよ!」

「あなたに言われる筋合いはありませんよ、ケイト嬢。私には、ハワードが必要なだけです。あなたの大事な赤子ではないのですから」

 女主人は烈火のごとく顔を紅潮させ、今にも帽子の羽根が逆立ちそうだ。

「言ってくれるわね! この冷血探偵! レオン、聞いた? この男は——」

 かれは椅子から立ち上がる。視界は少し霞むが、二人の声で痛む頭をさらに叩かれる前に終わらせる必要があったからだ。

「黙れ、二人とも」その声は低く、掠れていながらも、尋常でない迫力があった。ケイトもカッスルも、言葉の途中で止まる。娼婦たちでさえ、廊下の影からそっと覗き込み、空気の変化に息を呑んだ。

 レオンは、深く息を吐いた。まだ胃はむかつき、脚は鉛のように重い。だが、それでも行かねばならない。

「ケイト、カッスル。どちらも言いたいことは山ほどあるだろうが――俺には、もう聞く余裕がない。エリスを取り返す。以上だ。」

 女主人は唇を噛みしめ、悔しそうにうつむいた。探偵は無言で頷くだけだったが、その眼には僅かなに喜悦が宿っていた。

「レオン、本当に大丈夫なの?」

「大丈夫じゃないが、行くしかない」そう言うかれの声音には、揺らぎのない決意があった。

 ケイトは目を伏せ、少しだけ微笑を泛べた。「分かったわ。だけど、無茶はしないで」

「それは約束出来ないな」

「罪深い男ね、気をつけて行くのよ」だが、その口調にはいつもの温度が戻っていた。

「馬車は準備してあります。ハワード、準備が整い次第、行きましょう。私は、先に外で待っております」探偵が巻煙草を消し、外套を払って言い、売春宿から立ち去る。

 レオンは上着と外套を羽織り、寝室を出て、手すりに手を掛けながら慎重にゆっくりとした足取りで玄関まで歩む。外へと続く重い扉を開けると、冷えた空気へ足を踏み出した。

 その先に待つのは、霧に包まれたテューダー・リジーの闇。肺に流れ込む冷気が、かれの身体に残る薬の名残を僅かなに切り裂いた。

「ハワード、お待ちしておりましたよ」

「カッスル、行こう」

「ええ、もちろんです」

 二人の足音だけが、賑やかな売春宿の喧噪から遠ざかっていく。そして、辻馬車(ハンサムキャブ)に滑り込むかのように乗った。

 御者は二人が乗車したのを確認すると、手綱を引き、テューダー・リジーへと向かった。馬車は静かな朝の街を滑るように進んだ。冬の朝日が薄い霧に溶け込み、灰色の街路に淡い金色の光を落としていた。石畳の上で馬の蹄が響き、周囲の家々はまだ眠りの余韻に包まれている。かれは、しばらくそんな光景を堪能するかのように長らく沈黙しながら眺めていた。そして、その沈黙を破ったのはレオン自身だった。

「カッスル、この時間に街を出るのも、なかなか悪くないな」レオンは外套の襟を立てながら呟く。体内に残る薬の影でまだ身体は重く、頭もぼんやりしている。しかし、心の奥の決意は朝の光に少しずつ染まっていた。

「悪くないでしょう。しかし、目的地は仕立て屋テューダー・リジー、逃げ場などありませんよ」カッスルは皮肉な微笑を泛かべ、手袋を整えながら視線を前方に固定する。

 馬車が角を曲がると、目的の仕立て屋――テューダー・リジーが、静かな朝の通りに姿を現した。木製の看板が朝日に輝き、店内からは、針の音と布を叩く音がかすかに聞こえてきた。馬車はテューダー・リジーの前へ滑り込むように止まり、二人は辻馬車(ハンサムキャブ)から降りた。

「ここか」レオンは呟く。胸の奥に僅かな緊張が走る。エリスを取り戻すための第一歩だ。

「さて、早速中へ入りましょうか」探偵は冷静に言いながら、冷たい朝の空気を胸いっぱいに吸い込む。二人は静かに石畳を歩き、テューダー・リジーの扉に手をかける。扉の向こうには、取り戻すべき日常と、待ち受ける試練。だが、今のかれには、恐れよりも希望が一枚、深く積み重なっていた。

 


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