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二十二章

二十二章

 翌晩――店主ルーカスは、テューダー・リジーの店仕舞いを終え、煤けた暖炉に薪をくべると、重いため息をついた。ルーナは昨晩から、まるで何者かに取り憑かれたように針を走らせ続けている。客が帰り、日が落ちても、の部屋からは細い糸を引くような縫い仕事の音が絶えなかった。兄は、先ほどまでの喧騒とは対照的な静まり返った廊下を歩き、妹の部屋の前で足を止めた。隙間から洩れる蝋燭の薄い明かりが、床の木目を妹の影を照らしていた。

 軽く三度ノックし、扉をゆっくり開けると、そこには、異様な光景が広がっていた。ルーナは机に座り、山ほどの布地、解体されたドレス、床に落ちた糸くずに囲まれていた。指先は刺繍を縫う為赤く擦り切れ、針の跡が無数に走っている。それでもの手は止まらなかった。そんな妹に対して、訝しげに兄は眉を顰めた。

「ルーナ。昨日からずっと作業をやっているのかい?」

 ルーナは振り返り、微笑を泛べた。それは幸福ではなく、どこか空洞めいていた。

「あともう少しで仕上がるの。ねえ、ルーカス――見て。とても綺麗でしょう?」妹は、机の上のドレスを抱き上げた。それは、確かに美しかった。絢爛たる細工のまるで穢れを知らない純白のドレス。しかし、その美しさが、不自然なほど歪だった。だが、ルーカスは目を細めた。「そんな注文を受けた覚えはないな? 僕の勘違いかい?」

 ルーナは小首をかしげた。その仕草はまるで幼い少女のように無邪気なのに、ルビーのように輝く瞳の奥はまるで底が割れていた。

「違うわ。ルーカス。私の可愛いお人形さんよ。私たちと同じ髪色で菫色の瞳がとても綺麗な上に泣き顔が愛らしいの……」

 兄の背筋に冷たいものが走る。

「ルーナ」まるで試すように囁き掛ける。

「今日、客のひとりがこう言っていたのだけど、地下から鳴き声が聞こえると――それも少女の鳴き声だそうだ」

 すると、針の動きが止まった。妹は、じっとルーカスを見た。その瞳は、ウィンダミア湖のようにとても澄んでいるのにどこか狂気を帯びていた。

「ルーカス? 私を疑っているの?」兄は一歩、部屋に踏み込んだ。

「そんなことはない。ただ確かめたいだけだよ」

「でも、あの子が泣いていたのは、私のせいじゃないわ」

「ルーナ、一体何の話をしているんだい?」その問いに、まるで愛を語るような声で囁いた。

「美しいあの子がいけないのよ」

 兄は会話を続けるか躊躇した。ルーナの手の中で揺れる白いドレスが、どこか血の気のない布切れのように見えた。

「もうすぐ出来上がるのよ! あの子にぴったりな世界でいちばん美しいドレスが!」妹は舞い踊るように机に戻り、針を握る。

「だからお願い――邪魔だけはしないで」その声音は優しい。だが、その優しさは狂気の底でしか成立しない種類のものだった。ルーカスは、そっと部屋の扉を閉めると、まるでその静寂を乱すことすら恐れるように廊下へ出た。自室へ戻り、ランタンに火を灯す。その淡い炎はわずかに揺れ、握りしめた彼の指先の震えまでも照らし出す。

 兄は深く息を吸い、静かな足取りで、禁じられた(セルラーへの)扉へと向かった。深紅のカーペットを踏みしめるたび、不穏に床が軋む。まるでルーカスの行く末を諫めるか、あるいは急かしているかのように扉をそっと押し開けた。すると、地下から吹き上がる深い闇と冷たい空気が、兄の頬を撫でる。それは、まるでこの場所がルーカスの来訪を予期し、長い間飢えていた客をようやく迎えるかのような歓迎だった。兄は、微かに指先を震わせながら、足音が響かぬようにそっと、そっと地下へ降りていく。兄は、緊張と恐怖で思わず息を呑む。片手に掲げたランタンの薄い火を頼りに、地下へ続く階段を一段ずつ降りていった。冷気が肺に入り込むたび、胸がわずかに疼く。下へ進むほど、妹の部屋とは別世界のように、空気が酷く淀み、湿り気を帯びていた。そして、最後の段を降りきったとき、その光が届く範囲に小さな影が震えているのが見えた。

 兄は驚き、絞り出すような声で言った。

「君は……?」

 そこにいたのは、白い髪と涙で頬を濡らした菫色の瞳の少女だった。

「お願い――ここから出して」その細く悲しげな声はあまりにも生々しく、人形などではない生の響きを持っていたことで、ルーカスの背筋を冷たいものが走り抜けた。

「ルーナが言っていた 【お人形さん】とは君のことだったのか? まさか、いや、そんなはずは……こんなことはあってはならない」だが、この地下の空間を満たす重たい沈黙は、彼の希望を容赦なく打ち砕いた。

「僕の妹が君をここに?」

 少女は涙を拭いもせず、顫え、怯えた顔で首を振った。

「あなたが口にしてるルーナって人に、腕を強く掴まれ引っ張っられたの――必死で抵抗したけれどもあの人の力には敵わなくて……気付いた時にはここに連れて来られて閉じ込められたわ」この様子では、互いに面識はない。だとすれば、ルーナは、ただ【美しい】という理由だけで攫ったのだ。兄は胸の奥がゆっくりと冷えていくのを感じた。深呼吸してひとつ息を吐いた。

「心配いらない。僕が助けるよ」その瞬間、階段の上から、かすかな音がした。兄の心臓が跳ねる。

「まさか……」

 ランタンの炎が僅かに揺れた。地下へ続く階段の入口に、細い影が現れた。

「ルーカス?」その声は、柔らかく、甘く、そして妙に澄んでいた。それは、いつもの妹の声。ルーナは蝋燭を片手に立っていた。だが、その瞳だけがいつもの妹と違っていた。

「どうしてここにいるの?」その声は、地下の冷気よりもずっと冷たかった。少女は、ルーカスの袖を掴み、必死に兄の影に隠れようとする。その瞬間、妹の表情に微かな歪みが走った。笑みでも、怒りでもなく独占欲に近い、壊れた感情の片鱗。

「ねえ、ルーカス」妹はゆっくりと階段を降りてくる。

「この子、泣いていたでしょう?」ルーナは蝋燭の灯りを近づけ、少女を覗き込んだ。

「可愛いでしょう? ほら、あなたも見て! こんなに綺麗なのよ。泣き顔なんて、まるで宝石みたいじゃない? アメジストの涙よ」

 そこでルーカスは、初めて悟った。妹はもう理性ではなく、【美】のためだけに動き、そして、その美は誰にも邪魔されたくないのだと!

「ルーナ! これは犯罪だ! 左手の薬指を見るんだ! この子には婚約者だっている! 今頃、この子を探しているはずだ」そう言った瞬間――ルーナは、微笑を泛べた。しかし、その微笑は愛情ではなく、壊れ物に触れた者を見つめる眼差しだった。「ルーカス。邪魔をしないでって言ったのに……」

蝋燭の炎がふっと揺れ、地下の闇が三人を飲み込む中で、兄は言った。

「君がなんと言おうが、この子を解放する! そこを退いてくれ!」

「ルーカス? どうしてこんな事を言うの? 美しいものを着飾らせるのが私たちの仕事じゃない!」

「違う! 君がやっていることは幼い子供が行なっているお人形遊びだ。この子は人形ではなく、僕たちと同じ赤い血を流す人間だ」

 ルーナの手が、ロイヤルブルーのドレスの布をぎゅっと握り締めた。その小さな手の震えが、怒りとも執着ともつかぬ微細な波動となり、部屋の空気を震わせる。

「赤い血? くだらないわ。ルーカス、あなたはまだ理解していないのね」妹の声は柔らかいが、その底には深く冷たい刃が潜んでいる。

「美しいものは、固定されてこそ価値があるの。壊れやすく、流れやすい命の中で、真の美を保てるのは――私だけなのよ!」

 ルーカスの胸が強く打つ。「君はそれを美しさだと思っているのかい? それは、ただの独善にしか過ぎない!」

ルーナは片手に持った蝋燭を階段に置き、少女の側に置かれている机の上の置かれている数着の重たいドレスを抱えて、兄の目の前に差し出した。

「これは可愛いお人形さんのための完璧な服よ。見て、ルーカス。泣き顔も、恐怖も全部美しいでしょう?」その言葉に、兄は戦慄した。眼前にあるのは確かに美しいドレスだ。しかし、そこに込められた意図は、無垢な人間を縛る異常な所有欲そのものだった。

「ルーナ――もうやめるんだ! これ以上は……」兄の声は震え、怒りと恐怖が混ざる。

「君がどんなに美しいと信じようと、この子には自由が必要だ! 命は、布や装飾品じゃないんだ!」

 妹は微笑を泛べる。その微笑は、慈しみとも愛情とも思えるが、同時に殺意にも似た冷徹さを秘めていた。「自由? 自由を与えるつもりはないわ! まだ不完全だから私の美しさにまだ触れていないのよ」地下室の空気が一気に凍りついた。兄は、それでも一歩前に踏み出す。

「これ以上、私の前を塞ぐなら――ルーカス、あなたも私のお人形にしてしまうかもしれないわね」兄の心臓が一瞬にして凍る。美しさと狂気が交錯する妹の瞳。その奥底にあるのは、観察者が見つめるべき、完全に制御された【異常の美学】だった。重い沈黙が部屋を覆う。布の擦れる音、そして二人の呼吸だけが静かに、しかし確実に迫り来る緊迫を刻んでいた。

 ルーカスは、震える手をぎゅっと握りしめ、深呼吸をひとつした。目の前で微笑むルーナ――その微笑がどれほど狂気に満ちていることか、兄はもう否定すらできなかった。

「ルーナ!」その声に、妹はかすかに眉を顰めたが、すぐにまたあの狂気に満ちた微笑に戻った。兄は一歩前に出ると、ルーナの頬をはたいた。驚きのあまりに妹の手が一瞬止まる。その声は低く、甘い響きを帯びていた。だが、そこに潜む刃のような感情は、微かに震えている手の震えでわかる。

「これは美のためじゃない。そして、人の命に触れる行為ではない」兄はランタンをテーブルに置いて、そっと手を伸ばし、ルーナの両肩に両手を置いた。ルーナは、思わず眼を見張った。怒りでも悲しみでもない純粋な驚きと、初めて制止されたという感覚。ルーカスはその瞬間を見逃さず、静かに語を継ぐ。

「ルーナ。君が培ってきた技術は、誰かを傷つけていい理由にはならない。それに、こんな非人道的なことをやるだなんて僕が忌み嫌ってるグレイ家の一族と変わりないじゃないか! 僕が自身の血筋を嫌っている理由は分かるかい? 美に執着し、その美によって人を傷つけているからだ! ルーナ、それによって虐げられた母さんのことを忘れたのかい? もし母さんが生きていて、こんな惨状を目の当たりにしたらどれだけの涙を流し、悲しんだと思う? きっと美の呪いが発症したと口にし、深く絶望するだろう」

 妹は一、二歩後ずさり、兄が持つランタンの灯りに照らされる顔に、初めて迷いの色が混ざった。小さく揺れる肩――兄の背後で少女が震えながら隠れている。ルーカスはすぐに気付き、少女をそっと引き寄せた。

「君は大丈夫だ。安心してくれたまえ」

 少女の瞳から、ようやく恐怖の色が少しだけ薄れる。ルーナは差し出した数着のドレスをぎゅっと握りだし、静かに息をついた。怒りや執着の熱がまだ残っているが、ルーカスの行動で、彼女の理性の扉が一瞬だけ開いたのだ。

「分かったわ、ルーカス」その声は震えていたが、僅かに人間らしい響きがあった。狂気の中に、ほんの一瞬、理性が顔を出した瞬間だった。兄は深く息をつき、少女を守るため、そして妹を止めるため、冷静に二人を地下から階段を上がらせた。外の空気が肺に入り込むと、胸の奥の緊張が徐々に和らいだ。しかし、ルーナの瞳の奥には、まだあの「美の執着」が残っている。兄はそれを知りつつ、静かに、確実に妹の行動を制御する決意を固めた。

「さて、僕も出る」

 ルーカスは、テーブルに置いたランタン持ち、階段に置かれた灯された蝋燭を消して手に持つと、階段をゆっくりと上がった。地下室の冷気が徐々に遠ざかり、屋敷の暖かい空気が三人を包む。ルーナの執着の余韻はまだ残っていたが、少なくとも今夜は、三人に穏やかな時間が流れるはずだった。

「ルーカス、今夜は夕食はいらないわ」とどこか寂しげな声で言い、自室へと閉じ籠った。

「そうかい! 全く君は困った妹だよ」ルーカスが珍しく嫌味を洩らしながら、カウンターにランタンと蝋燭を置いた。 

「あ、あの、よろしければお名前をお伺いしてもよろしいですか? 私は、エリス・グレイと申します」兄は震える少女の声でその名を聞くと、驚きで眼を見張り、戸惑いながら、青い瞳で少女を見つめた。

「ルーカス・テューダーだ。君は亡くなったウリエルの子かい?」

「はい。アンナリーゼとヨランダと言う二人の姉もいます。父と姉たちはテューダー・リジーの常連だったのですか?」

「最も厄介な常連であり、親戚でもあったよ。まさかルーナが親戚を攫うとはとんでもない芝居を見せられてる気分だ。それより、こんなことを君いうのもなんだが、ウリエルが亡くなったのは不幸中の幸いだよ。君を攫っただなんて知られたら、今頃は酷い仕打ちを受けていただろう」

「実は、私も父がいなくなって良かったと思っております。ルーカスさんが酷い仕打ちを受けるところだなんて見たくありません。それに、私は父に人形として愛してましたから……」

 その恐ろしい言葉を聞いた兄は顔面蒼白し、心から誠意を込めてエリスに謝罪した。「僕の妹が本当に申し訳ないことした! 人形扱いされた挙句に、あんな暗くて寒い地下に閉じ込められて怖かっただろう? もう少し早く気づいてあげれたら、君は恐ろしい光景を見ずに済んだのに――ああ、僕は君の婚約者になんて言えば良いのだろうか……」

 少女は、戸惑いを瞳を宿しながらも、どこか優しく穏やかな声で宥めるように言った。「ルーカスさん、私の婚約者はレオンハルト・ハワードと言う方です。普段はとても優しい方なので、きちんと事情を説明すれば許してくださるはずです。それに、私からも話しておきます」

「いや、君の口から何も説明しなくて良い。これは、僕の過ちであり大きな責任でもある! だからこそ、君の婚約者にはきちんと謝罪をさせて欲しい!」

 エリスはしばらく沈黙した。やがて薄紅色の脣が開く。「ルーカスさん、あなたがそこまで仰るのなら尊重します」

 ルーカスの肩がわずかにほぐれた。

「どうもありがとう――そうだ、まずは君が休む部屋を案内しなくてはね。ついてきて」

 少女はこくりと頷き、ぎこちない足取りで後に続いた。廊下には、冷えた空気が流れ込んでいた。だが、兄の歩みは一定で、時折、振り返ってはエリスの歩幅に合わせてくれる。その些細な気遣いが、とても胸に沁みた。

 廊下の奥を進むとルーカスの部屋だった。暖炉はまだ火が入っていなかったが、昨夜の残り香のようにほのかに温もりが漂っている。柔らかな布団が整えられた部屋の窓からは、淡い月光が差し込み、静かに質素な家具を照らしていた。小さな机の上には、簡素だが清潔なランプが灯っている。

「ここを今夜、君の部屋にしよう。鍵もかかるし、誰も勝手に入ってこない」

 エリスは戸口に立ち、かすかな安心を感じつつも、胸のどこかでまだルーナに対する用心深さが離れなかった。

「申し訳ありません。本当にここで休んでいいのですか?」

「もちろんだよ。君のために用意したんだ。無理に眠ってくれとは言わない。ただ、落ち着ける場所が必要だろう?」

 兄はそう言い、部屋の奥にある小さなテーブルへ視線を移した。

「それと何か温かいものを食べた方がいい。ずっと緊張していたろうし、体も冷えている。簡単なものだけど、用意してくるよ」

 エリスの瞳が動揺を示す。「私、食べてもいいのでしょうか?」

「もちろんだ、遠慮なんて必要ないよ。君は()()()なのだから」

 少女は思わず息を呑んだ。自分が客と呼ばれることが、こんなにも救いに聞こえるとは思わなかったからだ。「ありがとうございます」

 ルーカスは静かに微笑を泛べる。「できるだけすぐ戻るようにするよ。熱いスープと、焼きたてのパンがある。大したものではないけれど君に元気を取り戻してほしいんだ」そう告げて部屋を出てゆく背中には、どこかレオンに似た温かさがあった。エリスは小さく息を吸い、小さな胸をそっと押さえた。この屋敷の影に潜む狂気を知りながらも、それでもなお、今だけは僅かな安堵に身を委ねてもいいのかもしれないと少女は思った。

 自室を出るとテューダー・リジーの厨房はすっかりと静寂が支配していた。

 ルーカスは静寂を破るようにランプに火を入れ、明かりがゆらりと広がったところで仕立ての良い上着を脱ぎ、袖をまくった。今日の夕食は、特別な料理ではない。裕福な庶民の家庭でよく出される温かく、腹にしっかりたまる食事だ。

「さて、何が食べやすいかな?」独り言のように呟きながら、棚から保存していた野菜を取り出す。玉ねぎ、人参、じゃがいも――そして、今朝の残りの牛すじが鍋の奥にあるのを確認し、兄の表情が少し柔らぐ。

 鍋を火にかけ、バターを落とす。熱でじりじりと溶けていく香りは、どんな不安も少しは溶かしてくれるような家庭の匂いだ。規則正しく刻んだ玉ねぎを入れ、甘い香りが立ちのぼると、静かな厨房にぱちぱちと弾けるような音が響く。「ちゃんと食べてくれるだろうか」ルーカスはエリスのことを考えると胸が締めつけられた。あの怯えた菫色の瞳、まるで糸が張り詰めたような細い肩。食事を拒むのではないか、口にしても味など分からないのではないかとそんな不安がよぎる。だが、だからこそ、兄は鍋のスプーンを強く握った。

「少なくとも、あの子を空腹で眠らせるわけにはいかない」

 柔らかく炒めた野菜にだし汁を注ぎ、ゆっくりと煮込む。牛すじを加えれば、スープは一気にコクを帯び、香りは厨房いっぱいに広がった。更に、パン籠から朝に焼いたパンを取り出し、暖炉のそばで軽く温める。外はぱりっと、中はふんわりとした、庶民にとっては少し贅沢な白パンだ。

盆の上に木皿を用意し、牛すじと野菜の煮込みスープ、温めた白パン、バター、薄くスライスしたチーズを置いていく。どれも特別ではない――ただ、疲れた心と体をそっと包むための温かな食事だ。

「エリスが、少しでも安心してくれますように」

ルーカスは祈りともつかない息を吐いた後、盆を持ち、ゆっくりとエリスが待つ部屋へ向かった。

「お待たせ。見た目はとてと地味だけど味はきっと、喜んでもらえると思う」兄はそう言い、手製の料理をテーブルに並べた。

 少女は目を丸くして、そっと手を伸ばす。兄は静かに微笑を泛べる。「さあ、お食べ」

 エリスは小さく頷き、震える手でスプーンを手に取り、スープを口に運ぶと、初めこそは味は分からなかったものの、二口目で自然と目が輝き、微笑を泛べた。ルーカスはその様子を見て、ほっと息をつく。

「この煮込みは、昔から家でよく作られていたものだよ。労働者階級の家庭では、こうして少しずつ野菜と肉を煮込むだけで、十分に満足できるんだ」少女はじっと兄を見つめながら、小さく頷いた。「とても美味しいです。こんなに温かくて、優しい味はなんだか久しぶりな感覚です」

 ルーカスはランタンの淡い光に照らされたエリスの頬に目を細めた。「気に入って貰ったようで良かった。しつこいようで申し訳ないが、今夜はここで、少しでも体と心を休めてほしい。君を守るために、僕がそばにいるからね」

 少女は器を抱きしめるようにして、初めて心の底からの安堵を示す。その微笑は、地下の恐怖をすべて洗い流すかのように、静かに部屋に満ちた。

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