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二十一章

二十一章

 アーサートンは、まだ目の端に眠気を残したまま厨房に立ち、昨夜延々と愚痴り続けていた話の続きを零しながら、いつものようにカッスルへ朝食と紅茶を運んだ。

「全く、昨日は散々な思いをしたぞ。客も従業員も大騒ぎでな」

「それは大変失礼致しました。しかし、まさかハワードに胸ぐらを掴まれると思いませんでした。あのまま拳まで振り上げていたのなら、さぞ【愉快】な光景が見られたのでしょう。闘技場の再興ですよ? 面白いではありませんか」

 主人は、呆れ果てたように言った。「あのな、オールドカッスルさんよ。あのまま本当に殴り合いにでもなってたら困るのは俺だぞ!(あいつらは)は絶対賭け事を始めるぞ? 【どっちが先に倒れるか、いくらだ?】ってな。そんな見世物まがいな騒ぎを起こされたら、後処理で俺の首がもげる!」カッスルは肩を軽く竦め、目を細めた。その仕草には謝罪めいた色などひとかけらもない。

「それは、重々承知しております。だからこそ、昨日はきっちり調教して参りました。今頃、ハワードは、キャスリン・シャーウッドの売春宿で赤子のように深く眠っているはずです」その声は、妙に柔らかく、残酷な余韻をまとっていた。あたかも、レオンが落ちるべき場所へ落ちたことを確認した医者のように。

「ああ、全身の力を抜ききって、ぐったりとね。あれほど頑なな男でも、【心が折れる瞬間】だけは実に静謐なものです」アーサートンは皺だらけの額に手を当て、深いため息を洩らす。

「お前――本当に観察して楽しんでるだけじゃないだろうな?」探偵は紅茶を口に含み、片眉を吊り上げて【図星ですね】とでも言いたげに、ただ静かに微笑を泛べた。そして、紅茶にミルクを注ぎ、ひとつの渦が立ち上がるのを静かに見届けながら、淡々とかき混ぜた。まるで、人間の心が崩れ落ちる瞬間を再現するかのように……

「まあ、良い。今日は何をする予定なんだ? 探偵さんよ」

 カッスルは優雅に紅茶を啜り、立ちのぼる蒸気を指先でなぞるように眺めてから答えた。「本日はルーナ嬢を観察する為、テューダー・リジーへ潜入します。今頃は、胸の内で小さな歓喜を鳴らしながら針箱を抱えている頃でしょう」

 アーサートンは、再び眉を顰めた。

「歓喜だの抱えている頃だのって、お前の言い回しはどうにも理解出来ない上、不吉だな。あの女はただの仕立て屋だろう? 服を縫うだけの珍獣だ」カッスルは穏やかな微笑を泛べ、スプーンで紅茶をひと混ぜした。その仕草には、何かを静かに見透かす者の余裕が漂っていた。「いいえ、アーサートン。ルーナ嬢は 【ただ縫う】だけの女性ではありません。彼女が扱う布は、時として人間の内側を縫い合わせることもあるのです」

「おい、そういう怖いことを平然と言うなよ! お前の目に映る世界は、いちいち芝居がかってるんだ――やめてくれ」

「ご安心下さい。今日のところは、ただ観察し、糸口を確かめるだけですから」

 アーサートンは額を押さえ、深くため息を洩らした。「はぁ……お前が静かに紅茶を飲んでる時が、一番厄介だわ」カッスルはその言葉をまるで最高の褒め言葉であるかのように受け取り、淡い微笑を泛べた。

「ところで、ハワードはどうするんだ? 一緒に潜入するって話ではなかったのか?」

「先ほども申し上げた通りです。ハワードは今頃、売春宿パラゴンにて赤子のように――深く暗い海の底へ沈むかのような眠りに包まれているでしょう。そして、潜入と観察が終わり次第、売春宿パラゴンへ行き、様子を窺おうと思います」

「そうか。それより、カッスル。早く朝食を食え。冷めちまうぞ?」

 探偵の前に置かれているのは、典型的なイングリッシュブレックファーストだった。ベーコン、ソーセージ、目玉焼き、マッシュルーム、グリルトマト、ベイクドビーンズ、トースト。

 どれも主人が手慣れた手つきで準備したものだ。だが、カッスルが食べ始めると、それは朝食から、解剖と観察の儀式へと変わる。

 まず、探偵はベーコンの端をフォークで軽く押し、脂の照り具合を確かめるように眺める。

「焼き加減は、罪を犯した者の額に浮かぶ汗のようですね」

「いちいち怖い喩えをするな!」憐れなことにアーサートンの抗議など、探偵の耳には届かなかった。ナイフが脂を裂き、カリッと音を立てる。その音さえもカッスルにとっては観察の貴重な資料の一つだった。

 次に、探偵は目玉焼きへ視線を移した。白身の縁のわずかな焼き色、黄身の中心の張り、その揺れ――すべてをじっと見つめる。ナイフで軽く触れ、黄身が震えるのを確認してから切り分ける。

「卵とは、内部を暴くために存在しているのですよ。どれほど厚く硬い殻に閉ざされていても、中身は脆弱そのものです」

「朝からそんな分析やめろ」

 マッシュルームは断面の水分量を確認するかのように転がし、ソーセージは均等に切り分けていく。皮がわずかに弾け、湯気が立った瞬間、カッスルは満足げに目を細めた。

「内部の圧力が解放される瞬間ほど、人間の心理に近いものはありませんね」

「お前、食いながら事件解説するな!」

 最後に焼き目の整ったトーストを取り、ざくりと音を立ててかじる。まるで、このざらついた食感自体に意味を見いだしているような集中した表情だった。

「ああ、実にすばらしいものです」

「お前は食事で何を悟ろうとしてるんだよ」

 カッスルは紅茶を啜り、ようやくナイフとフォークを静かに置いた。

「完食しました。さて、潜入と観察を始めましょう。胃袋が整っている日は大変良い仕事ができます」

「お前の整うの基準がわからねえよ」アーサートンが呆れた声で言うが、カッスルはまるで耳に入っていないかのように、満足の微笑を泛べて席を立った。

「しかし、お前は本当に()()に食べるな」

「それほど、アーサートンの手がける食事が、甘美で繊細なものであることを、静かに物語っているのですよ。それと、これを――」カッスルは、まるで紅茶に添える菓子でも渡すかのように、一枚の紙をアーサートンへ差し出した。

「なんだこれは?」

「開けば分かりますよ。では、行って参ります」ゆっくりと扉を開き、外套を靡かせながら、潜入及び観察へと向かった。主人は、渡された紙を乱暴に開くと、そこに描かれていたのはかつて「失踪中の紳士」として世間を賑わせたエリス・グレイの肖像だった。アーサートンは驚きで眼を見張り、「あのエリス・グレイは女だったのかよ!」と厨房に大声が響いた。その声は本気の驚愕であり、同時に【騙されていた】と気付いた者特有の情けない叫びだった。ちょうどその時――扉の向こうから、風のように薄く、しかし確実に届く声がした。 

「アーサートン、全くあなたと言う方は愉快な方ですね」淡い微笑を泛べて辻馬車(ハンサムキャブ)の中で揺られながら、テューダー・リジーへ向かう。朝の光が馬車の窓から斜めに差し込み、彼の顔に僅かな影を落とす。カッスルは思考を巡らせらせ始める。今日のルーナはどのように布と戯れ、どのように心を形作るだろうか? この潜入は単なる観察ではない。布の折り目、針の運び、糸の緊張――それらはすべて人の心理を映す鏡のようなものだ。指先で膝に置いた外套の裾を軽く撫でながら、さらに考える。双子の兄ルーカスの存在は、障害になるかもしれない。だからこそ面白い。注意深く振る舞えば、彼らの世界の微細な波紋を余すところなく観察できるだろう。

 馬車は石畳を滑るように進み、通りの喧騒を薄く遠ざけていく。揺れの中、探偵の眼差しは既に店の窓や扉の位置を計算し、潜入後の動きを頭の中で反復していた。そして、観察の儀式は、すでに始まっていた。辻馬車ハンサムキャブは石畳を静かに滑るように進み、テューダー・リジーの前で止まった。まだ開店前、店内は静けさが支配していた。探偵は、そっと扉に近づいた。ガラス越しを覗くと、ルーナはすでに針仕事に没頭していた。胸の内で小さな歓喜を鳴らすように針箱を抱え、布を自在に操る。朝の光が作業台を照らし、布の陰影が複雑に揺れる。妹の手元には、足踏みミシンが静かに控えており、ペダルを軽く踏むたびに布が滑り、一定のリズムで縫い目が生まれる。その微細な振動と規則正しい音は、まるで心臓の拍動を映すかのようであった。

 カッスルは、扉を慎重に開け、中へ潜入する。物陰に隠れながら観察を始めた。布を裁ぐ手の動き、糸を通す瞬間の集中――すべてが心理の縮図だ。しかし、その思考の途上で、店奥から足音が近づいてくる。その正体は、ルーナの双子の兄ルーカスだった。眼鏡を掛けて、まだ半分眠った表情で店内を見回す。

 カッスルは一瞬構えたが、兄は耳も目も鈍く、その気配に全く気づいていなかった。針箱を整えながらルーナに話しかける。だが、声はぼんやりとした印象だった。

「ルーナ、今日はやけに早いな。開店前に一体何をしてるのだい?」妹は顔を上げず、手元の布に集中したまま答える。

「ルーカス、少し早く来ただけよ。どうしても作りたいドレスが出来たの」

「そうだったのかい――怪我をしないように気をつけて」

 この様子だと潜入は全く問題ない。だが、油断は禁物だ。探偵は影から身を低くし、静かに観察を続ける。布の折り目、糸の緊張、ルーナの微かな表情の変化……これらすべてが、今日の観察対象だ。ルーカスが鈍感であればあるほど、潜入者にとっては好都合だ。しかし、観察の精度は落とせない。カッスルは、紅茶で整えた心を胸に、慎重に、しかし興奮と共に作業の様子を追った。

「早くあの()()()()()に着せてあげたいわ」喜悦を讃えた微笑を泛べながら、手元の布を軽やかに動かす。足踏みミシンのペダルを踏むたびに布が滑り、縫い目が規則正しく生まれる。そのリズムは、まるでルーナの想いの高鳴りを映すかのようだった。しかし、突然何かを思い出したかのようにミシンを動かす手を止め、静かに椅子から立ち上がった。

「そうだわ! まだお人形さんに食事を出していなかった」妹の声には小さな焦りと同時に、子どものような純粋な愛情が混じっていた。布の束をそのままにし、ルーナはそっと作業台を離れ、厨房から朝食を運ぶと、まるで本物の友人をもてなすかのように人形の元へ向う。カッスルは音を立てぬよう、ほんの少し体の角度を変え、視界を広く取ったまま観察を続けた。

 妹はカウンターに盆を置き、深紅のカーペットをそっと巡った。そこにはセルラーへの扉があった。その扉を慣れた手付きで開き、朝食の皿を整え直すと、慎重な足取りで地下へと降りてゆく。

 探偵は思わず目を細めた。「地下室ですか」床に残る微かな擦れ跡、妹の視線が自然に落ちる方向。ルーナが誰かをそこに隠していると物語っていた。カッスルは足音を失くしたかのように歩き、慎重に後を追う。階段の影に身を寄せると、微かな灯りの中、妹の声が柔らかく響いてきた。「お待たせしてごめんなさいね。今日はあなたのための特別なドレスを作っているの。その菫色の瞳がより美しく映えるように――きっと喜ぶはずよ」震える細い声が返った。その声は、やはりエリスだった。

「そんなものいらないわ。私をここから出して」左手に嵌められた少しぶかぶかの婚約指輪を握りしめながら言った。

 ルーナは一瞬沈黙し、微笑を泛べる。「いいえ、出せないわ。あなたはもう、私の大切なお人形さんなんですもの」その言い方は、慈しみと所有欲を一滴も混ぜずに分けられないような、危険な甘さを帯びていた。背後でそれを聞いていたカッスルは、ただ静かに呼吸し、観察の対象が【布】から【人間】へ切り替わる瞬間を逃さなかった。目の前で起きている行為は、針と糸の問題ではなく、【心の縫い合わせ】が失敗した者の狂気そのものだった。

「どうしてあなたは、私にこんなことをするの?」少女の声は震えていた。しかし、言葉を絞り出すその姿はまだ人間としての意志が残っていた。

 妹はゆっくりと首を傾げた。その仕草は愛らしさはあるが、表情の奥には温度がない。まるで、自分の言葉を外から聞いている人形のように、押し付けられた感情をなぞるだけの口調で答える。

「美しい者を着飾らせ、愛でることが一体何がいけないと言うの? 」無表情のままルーナの指先がテーブルを撫でる。そこには絹糸、花の刺繍、そして小さな刃物。どれも、本来は優雅な物を生み出す道具だが、今の妹の手に握られれば、それらは美のための拘束具に等しかった。カッスルは階段の陰で息を潜めながら、妹の口にする【愛】が、既に人間に向けられるべき形を失っていることを悟ったのだ。それは慈しみではなく、所有と固定化への渇望。同時に、その歪んだ美学の成り立ちを見抜く者として、思わず感嘆の念すら抱いてしまう自身に気付く。彼女の行動は常軌を逸している。

しかし、その精神構造の精密さと、【美】というたったひとつの概念へ研ぎ澄まされた執着は、一つの芸術的な異常性として完結していたのだ。カッスルはわずかに目を細める。理性と冷静さを纏ったその瞳には、恐怖よりもむしろ興味が宿っていた。

 エリスは震える指先で膝の上の布を強く握りしめていた。ルーナが「お人形さん」と呼ぶたび、その言葉が神経そのものに直接触れてくるようで、呼吸が浅くなる。地下室の灯りは揺れ、少女の影はか細く、今にも裂けそうだった。だが、エリスはまだ壊れてはいなかった。むしろ、壊れないために必死に自分の形を保とうとしていた。

「私をどうして……」声はとても弱いが、まだ「自分】を名乗っている声だった。

 次の瞬間、ルーナの微笑が形を変えた。

「だって、あなたは美しいのでしょう? だから、着飾らせてあげているだけよ。美しいものは、固定されてこそ価値があるの」その言葉は、蛇ように少女の首筋へ絡みついた。エリスの胸が急に強く上下した。それは、けして理解してはいけないものを理解してしまいそうになる恐怖だった。そして、同時に、それは亡き父ウリエルが、かつてよく口にしていた言葉だ。

「だめよ、そんな考え方は……」少女の言葉が震えて思考が、妹の甘い論理と亡き父の言葉に吸われていく。

「ねえ、エリス。あなたは誰のもの?」ルーナの声は、恋人の囁きにも似て、甘い。エリスは反射的に首を振ろうとしたが喉が塞がれてしまったかのように動かなかった――崩れ始めている。

 階段の陰でそれを見ていたカッスルは、胸の内で静かに確信した。心の縫い目が切れる音は、布が裂けるよりずっと静かだ。

 少女の指先が、膝の上の布を握っていたはずが、いつの間にか力なく落ちた。ただ、皺の寄った布だけが、かつての抵抗を物語るように残っている。

「私は……」声が途切れた。自分の名前すら思い出せなくなる前の、最後の抵抗だった。その瞬間、妹が少女の頬にそっと触れた。優しく、慈しむ。「大丈夫。あなたは、私だけの可愛い大切なお人形さんよ。何も考えなくていいの」

 エリスの目から光が僅かに引き、自我が沈む直前の深い海の底のような瞳になった。

「なんて美しげな崩壊だ……」探偵は呟き、己の胸の中に生じた感情が【興味】であることを認めざるを得なかった。次の瞬間、兄が階上から大きな音を立ててくしゃみをした。ルーナがわずかに肩を跳ねさせ、振り返った。それは、ほんの一瞬だったが観察者にとっては十分な隙だった。

 カッスルは階段の陰で、軽く息を整える。音を吸うような歩き方で階段を一段、一段上がると、ルーナの顔がこちらへ向く前に、セルラーへの扉をそっと閉じ、壁際の影へ滑り込んだ。階上の部屋は無人だった。探偵は、店の扉へ向かい、至急、パラゴンへ向かうように御者に告げ、辻馬車(ハンサムキャブ)に乗った。馬の蹄が霜の浮く石畳を叩き、静まり返ったロンドンの街を切り裂くように辻馬車は動き出した。車輪が石畳を転がる音が、冷たい朝の空気に淡く響く。カッスルは窓の外の光景をぼんやりと見つめた。霜に覆われた通りは、まだ人影もまばらだった。心の中には、今朝の観察が残した重さがずしりと乗っていた。エリスは、自我を必死に保とうとする幼い魂に対し、ルーナは美を求め、人間性を削ぎ落としてしまう狂気。

「この事実を、ケイト嬢にどのように伝えればいいのでしょうか?」思考は、馬車の揺れに合わせて静かに揺れる。言葉一つで、ケイトの心をも凍らせるかもしれない。指先で外套の裾を整えながら、探偵は窓に映る自分の顔を見つめる。無表情だ。だが、その瞳には冷徹な観察者としての光と、報告すべき重みに耐える決意が混ざっていた。馬車が角を曲がる。視界にパラゴンの建物が現れる。そして、カッスルは身なりをを整え「さて、間も無くですね」と呟いた。

 まだ静かで凍った朝の空気の中で、馬車は淡々と、しかし確実に目的地へと進み、石畳の上で軽く揺た。扉の前で止まったのだ。カッスルは馬車から降りるとノックをしてから、無音のまま扉を開けた。中に入ると、すでにケイトが控えめな距離で静かにこちらを見つめていた。明るい光の下で、彼女の表情は冷静さと緊張が混ざり合ったものだった。

「おはようございます、ケイト嬢」

「あら、カッスル。お早いご到着ね。レオンならまだ寝ているわよ? その間に、潜入と観察は終えたと顔が物語っているわね」

 女主人は、眉をわずかに顰める。「それで、潜入の結果は?」

「エリス嬢はテューダー・リジーの地下室に閉じ込められております」

「地下室に? 一体どうやって侵入したわけ?」

「ルーナ嬢がエリス嬢に朝食を提供する際に、カーペットの下に地下へと続く扉を開けたところを目撃しました。私は彼女にバレぬよう、足音を消し、息を殺して後を追いました。物陰に隠れながら会話を聞いていたのですが、エリス嬢はまるで人形のように扱われ精神が崩壊しかけており、ルーナ嬢は【私の可愛いお人形さん】と所有するかのように、そして慈しむかのようにエリス嬢に接しておりました」

「ルーナって女は狂っているわね。それより、今後の予定は?」女主人は呆れ、ため息を洩らしながら、言った。

「これ以上の潜入・調査は不要だと思います。明後日辺りに仕掛けるのが良いかと……」

「何故、明日ではないの?」

「あの鈍感の兄ルーカスですらも頻繁に地下室に入るのを目撃したり、使用された食器の数が多い事に違和感を覚えるでしょう」

「そんな鈍感な男が違和感に気づくと思えないわ」

「ケイト嬢、ルーカスのような耳と目が悪いものは周囲の変化に敏感なのですよ。ですので、明日の夜辺りに妹の異変に気づくでしょう」

「もしもあなたの推測が外れたらどうする気?」

「外れる? 私の推測が外れるとでも? 笑わせないでください。私はあの双子に猶予を与えているだけです。こちらから仕掛けた時には、さぞ愉快なことが起きるでしょう……ああ、楽しみでなりません」女主人を見つめるその眼には絶対的な自信が宿っていた。だが、同時にケイトは恐怖を覚えた。思わず、息を呑み、数秒、口を開くことすら忘れたように固まった。だが、やがてその瞳に冷たく鋭い光が差し込み、ゆっくりと唇を開いた。

「あなた、本当に恐ろしいわ。救うために動いているはずなのに、観察という言葉の方が先に来るなんて。でも、いいわ。あなたが本気でそう言うなら、明後日まで待ってあげる。責任は全部取ってもらうわよ」

 女主人は深く息を吸い込んだ。

「それに……エリスをあんな状態にしたまま放っておけるほど、私は強くないの。だから、必ず助けてあげて! あなたの美学にも、あなたの狂気にも呑まれないやり方でね」

 カッスルは静かに微笑を泛べる。

「もちろんです、ケイト嬢。あなたも強くあればあるほど観察に値しますから」

「褒めてるつもりなら最悪よ!」その恐ろしい言葉とは裏腹に、彼女の声にはほんの一瞬だけ、震えるものがあった。ケイトは踵を返し、レオンの寝室の方へ向かいながら言った。

「報告をありがとう、カッスル。あなたは気味が悪いけれど、役には立つわ」

「それは大変光栄です。ところで私もハワードの様子を窺ってもよろしいですか?」

「好きにしなさ――」

 女主人の声が途切れた瞬間、階段から軋む音が聞こえた。まるで、別の現実がゆっくりと浮上してくるような気配だった。こっそり覗いてみると、階段の手すりに片手を掛けたレオンが、寝ぼけた顔でこちらを見つめていた。髪はぼさぼさで、シャツの襟元は乱れ、まさに叩き起こされた男という惨状だ。それでも、かれの瞳には昨夜の痛みと怒りの残滓(ざんさい)が、まだ微かに残っていた。だが、それ以上に強いのは、状況を全く把握していない者特有の愚鈍な苛立ちである。

「――カッスル、なんでお前がここに……」その声はまだ眠気と不機嫌を引きずり、足取りはふらついている。ケイトは深くため息をつき、額を押さえた。

「レオン、もう少し寝ていればいいものを――何をしているのよ?」

「こんな寒さで眠れるか! それに、妙な夢まで見たんだ。地下で誰かが泣いてるような夢を……」その一言に、探偵の指先がかすかに止まる。

目の奥に浮かぶのは、先程まで見ていたあの地下室。あの揺れる灯り、皺の寄った布、崩れ落ちゆく少女の瞳。「おや、夢ですか」カッスルは微笑を泛べる。

「人は時に、見ようとしないものを夢で察知するものですよ。特にあなたのように心の奥が騒がしい場合は……」

「どういう意味だ?」

 レオンは苛立った声を出した。しかし、探偵はもうその声さえ観察の対象にするかのように、静かに視線を合わせる。

「ハワード、あなたが聞いたその泣き声は、夢の残滓ではなく、現実の未来の予兆かもしれません。今日はまだ教えません。あなたが知るべき瞬間は、もっと鮮烈で美しく避けがたい形で訪れるのです」

「何を言っているんだ?」状況が掴めず立ち尽くすかれの背後で、女主人が呻くように呟いた。「カッスル、お願いだからそういう不吉な芝居がかった言い方をやめてくれない?」しかし、探偵はただ深く礼をして答えた。

「ケイト嬢。真実は、芝居など及ばぬほど劇的なものでなければいけません。――特に、この件に関しては」

 探偵の外套が小さく揺れた。報告を終え、次に動く明後日に備える。だが、その二日間に訪れる些細な変化でさえ、カッスルにとっては観察すべき宝石の欠片だった。

「では、お二人とも。私の推測が外れないことを証明するまで、しばしお待ちください」カッスルの背はゆっくりと扉の向こうへ消え、残されたケイトとレオンは、まるで寒風吹きすさぶ朝に取り残されたように立ち尽くした。

 ケイトは小声で言った。「本当に、恐ろしい男ね。味方でよかったと思えるのが嫌になるくらいに」

 レオンは、まだ頭を掻きながらぼそりと洩らした。「ケイト、カッスルは一体何を企んでいるのだ?」

 女主人は答えなかった。いや、答えたくなかったのだ。ただ、ほんの僅かに震える指先を隠すように、ドレスを握り締めた。

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