十九章
十九章
レオンとエリスはロンドンへ向かう汽車の中で神々しい光すらも遮る灰色の景色を静かに眺めていた。昨日のカッスルによる無数の棘のような言葉で心に深い傷を負っていた少女は暗鬱な表情を泛べていた。そんなエリスの心の傷を僅かでも癒そうとかれは鞄から茶色く花の刺繍が施された巾着袋を取り出し、愛しい人の名を呼ぶ。すると、エリスは顔を上げて微笑を泛べた。しかし、その微笑は一輪の薔薇のように華やかなものではなくどこか暗い陰を宿していた。かれは、躊躇いがちに巾着袋を渡すと、少女は優雅にそっと受け取った。レオンは、中身を確認するように促すと、そこには黄色のデイジーの花冠が入っていた。驚きで目を見張ったエリスは、思わず菫色の眼差しをかれに向けた。レオンは照れ臭そうに口を切る。「気に入ってくれただろうか? 本来であれば、花を使った髪飾りは特別な日にしか着用されない。だが、君にはどうしても日常的に身につけて欲しい」
「どうして私なんかのために髪飾りを?」
「どうか【私なんか】だなんて言わないでくれ。君の涙が忘れることが出来ず悩んだ末、メイドたちに昨日のことを話したのだよ。そうしたらコニーが怒り、突然屋根裏から造花のデイジーと繊細なコームを取り出し、その場に座り込み、黙々と作り始めたのさ。あまりの衝動さと真剣さに皆、圧倒され息を呑んだ。それに、彼女が曰くにはデイジーには無垢、希望、美しい人の意味が込められているらしい。君に相応しいではないか! だが、日常的に花冠として付けるには派手すぎるらしい……後頭部を覆うよう両耳に掛けるように付けて欲しいとのことだ。そうすれば、ボンネットの上からでは隠れて身につけていることは分かるまいし、日常的に身につけてもさり気なく、可憐に見えるであろう」
少女は、一度花冠と巾着袋を座席に置き、菫色のボンネットを丁寧に外してそっと膝の上に置いた。花冠に手を伸ばし、しばらくそれをじっと見つめたのち、指示された通りに器用に身につけると、車窓に映る姿の自身を見つめた。そこには、昨日の自身よりもごく僅かだが、女性らしさと言う自信が身につき、思わず皆が見慣れた花開くような微笑を泛べた。
「レオン、ありがとう。ロンドンから戻った際には、コニーにきちんとお礼を言うわ!」
「その様子だと、大変気に入ったようだな――コニーも大喜びするだろう」
「ええ、身につけた姿で戻るわ! お礼にコニーの頬に接吻をしなくてはいけないわね。あんなことがあったけど、なんだかあなたとならきっと素敵な未来を築けそうだわ」エリスはすっかりと心の傷が癒えたのか、菫色の瞳を星々のように瞬き、ほんの少しぶかぶかな婚約指輪をじっと見つめる少女。胸のおくの安堵がじわじわと広がり、かれは笑いながら言った。「君の笑顔をまたこうして見られて悦びを感じるよ。さあ、もうすぐロンドンに着く。忘れ物をしないようにな?」と、ボンネットを手を伸ばし、優しくそっとエリスに被せて、薬品で荒れた大きな手で器用に紐を結んだ。少女はレオンのその手を取り、かれの温かさに触れようと眼を伏せ手を頬に当てた。レオンは胸の奥で疼く熱に顔が火照り、結んだ指をわずかに離す瞬間に、呼吸を飲み込んだ。汽車が轟音を立てて停まり、ロンドン・ブリッジ駅を知らせる笛の音が街の霧を切り裂く。かれは慌ただしくエリスが被っている控えめなボンネットの上から手早く、だが丁寧にすばらしい純白のヴェールを覆い被せる。何故ならば、特徴的な白い髪と菫色の瞳を隠すためだ。鞄を持ち、狭いコンパートメント席の扉を開けて、出ると、真っ先に少女の手を離すまいと物語るように強く握り、出入口へと向かう人々の混沌の波に呑まれぬよう二人は汽車から出た。すると、エリスはこじんまりとしたカンタベリー駅とは対照的に広々とした駅構内に感嘆し、導かれながら辺りを見渡す。レオンはふと心を柔らかく揺らした。——それは、かつてイアンと初めて出会った日の少年の姿と重なったからだ。あの子はとても好奇心に満ち溢れて、視界に入るあらゆるものが全て新鮮に見え、少年の世界が様々な色で彩られていくかのように勿忘草色の瞳を輝かせていた――あの子は今なにをしているのだろうか? きっと今頃、旧友、世話人のネリー・トゥホルスキー、女教師ヘンリエッタ・クラークソンとの久々の再会に寂寥としていた心は喜悦で満たされているだろう。俺にもかつて、監察医時代に世話になった旧友がいる――売春宿の女主人キャスリン・シャーウッドだ。もう婚約をした身分だ――この際、彼女に顔を出して伝えるべきなのだろうかと逡巡していると、あっという間に地上へと出た。たくさんの人々と馬車が行き交い、喧騒が甘美な毒のように二人の肌を刺し、ひとつ、ひとつの音が身体の奥で乱暴に震えた。それでもかれはすぐに辻馬車を手配し、ハットン・ガーデンへ向かうように告げると御者は潔く承諾し、レオンは先に少女を馬車へ乗せ、かれは後から乗った。御者は二人が、乗車したのを確認すると手綱を引き、静かに次の目的地へ向かい始める。
「いよいよか……」とかれは囁く。
「何か不安なことでもあるの?」レオンは眉を顰め、沈黙してから口を開いた。「君と結婚するだなんて未だに現実だと実感しないのだよ……胸の奥ざわついて落ち着かない俺がいる。だが、君を幸福にしたい――マティルダの叱責が脳裡に過り、そしてルーナの影が俺をけして離そうとしない」
「そんなことを心配していたのね。きっと大丈夫よ――たとえ、どんなことがあったとしても私たちならきっと乗り越えられるはず――あなたがそんな顔したら、私たちの未来は色も希望もないものに染められそうで胸がとても締め付けられるわ……それに、私は幸福よ。レオン、あなたは?」
「無論だ」優しい声音で言うと、少女は悦びで頬を一瞬にして薔薇色に淡く染めながら言った。「先程のレオンの言葉をマティルダに聞かせてあげたかったわ……きっと誰よりも喜ぶわ!だって、あなたから胸の内を明かすだなんて滅多にないことだもの」かれは、頭を掻きながら「やめてくれ! マティルダだけには聞かれたくない!」と叫んだ。エリスは頬を染め、視線を彷徨うレオンを見つめ「照れているのね。そんなあなたもとても愛しているわ」と囁いた。そんな優しい囁き声は、耳朶を撫でる風よりも優しく、かれの心臓にそっと爪を立てるほど甘美なものだった。
理性の糸が引き裂かれそうになりながらも、レオンは乱れる鼓動を抑え、話題を鋭く切り替えた。
「ところで、結婚指輪だが、君はどんなものを望む? ラファエル卿が言うにはダイヤがついたのが流行りものらしいが興味はあるか?」
「私は姉たちと違って流行り物には興味はない――いいえ、よくわからないわ。永遠に身に付けるものですからお互いに気に入ったものにしましょう」
「君の言う通りだな、時間はたっぷりあるのだからゆっくり探すとしよう」少女は小さく頷き、辻馬車から見える景色を眺め始める。エリスにとって、一度目のロンドンは深淵のように恐怖で支配する世界だった。だが、二度目のロンドンは心の奥底に幸福で満ち溢れているのか、かつて恐怖で覆われた記憶はまるで幻のように消し去り、目の前に広がる景色の全てがとても美しく映っていた。霧に包まれ、ざわめきと喧騒が絡み合う街をしばらく見つめていると、重厚な辻馬車が轟音と共に停まり、二人を迎えるかのようにハットン・ガーデンへと滑り込んだ。レオンは先に降りて、軽やかに手を差し伸べる。エリスは菫色に揺れる優美なバッスルドレスの裾を持ち上げながら、差し伸べられた手に身を委ね、辻馬車から降り立つ。かれはポケットから御者に乗車料金とチップを渡し、低い声で礼を言い、別れの言葉を告げた。その足取りのまま宝石店の扉を開けた。
中に入ると、選民意識に満ちた鋭い目を持つ商人が客を品定めするかのように立っていた。レオンは商人に「ラファエル・グレイ卿のご紹介で、参らせていただきました。結婚指輪を探しているのですが、少し拝見させていただけませんか?」かれの声には軽く翳る緊張と、しかし、揺るがぬ決意が混ざり、空気を切り裂くように店内に響いた。その瞳は商人をじっと捉え、挑むかのような鋭い光を宿していた。
商人は小さく眉を顰めながら「どのようなものをお探しで?」と問いかける。手元のマホガニーのショーケースから、光を帯びてきらめく指輪の数々を次々と取り出す。流行を追う華美なものから、控えめで素朴なものまで、どれも力強い存在感を放ち、まるで選ばれる者を待ち受けているかのようだった。二人は並ぶ指輪に群れに圧倒され、息を呑んだ。そして、指輪を一つ一つ手に取り、それらを慎重に眺めた。金属の冷たさがレオンの理性が微かに震える。少女は躊躇いながらも指輪の放つ光の反射をどこか楽しみながら嵌めていた。その仕草にかれの心は大きく乱れた。
「これ……似合うかしら?」囁く声に、レオンは言葉を詰まらせる。視線は指輪ではなく少女の瞳へ吸い寄せられる。どんなに美しく輝く宝石よりも、肌の柔らかさ、息遣い、微かな頬の紅が、彼の理性を支配する。
「レオン?」――愛しい人の声にハッと我に返る。エリスの指先に輝くのは、ローズカットのシングルストーン。その小さな宝石が少女の指で妖しく光り、菫色の瞳の煌めきと絡み合う。
レオンは指先を見つめるも、微かな吐息を洩らした。
「君には、少し派手すぎる」
「では、こちらはいかがでしょうか?」商人は指輪を差し出し、声を抑えつつも丁寧に説明した。
「こちらはミルグレインの技法で縁を細かく刻み、女性のみ中央には小さなダイヤモンドを埋め込まれています。光を受けるとほのかな輝きを放ち、控えめながらも存在感を失わない逸品です。お値段は二百ポンドほどです。どうぞお試し下さい」
エリスは指輪を指に滑らせ、静かに息を吐いた。菫色の瞳が微かに揺れ、心の奥の悦びが燃え上がる。レオンは沈黙したままその瞬間を見守る。沈黙の中、互いの心が共鳴し、言葉など要らないと悟った。
「これにしましょう」――エリスの声はかすかに震えていた。しかし、それは確かな決意を帯びていた。かれは鞄から財布を取り出して、金を取り出し、商人に二百ポンドを手渡す。硬質な硬貨と紙幣が掌の中で冷たく響き、契約の重みを示す。職人の手で指輪は仕上げられ、二人が住まう屋敷へ丁寧に届けられることになった。
商人は眉を緩めて微笑を泛べる。「素敵なお二人ですね…本当にありがとうございます」声には商人特有の軽やかさと、どこか温かい尊敬の色が混じっていた。小さく頭を下げ、指輪の群れで乱れた手元を整理すると、二人を後に送り出すように扉を開けた。店の外、冷たい霧に包まれる街角で、二人の指先には確かな温度と重みが残っていた。街の喧騒も霧も、今の二人にはもはや無関係の背景に過ぎなかった。商人は背中越しにもう一度、微笑ましげに二人を見送り、店内に戻る。店内の光は微かに揺れ、宝石の輝きと商人の誠意が、通り過ぎる者の目にはほんの一瞬、温かい光として映った。二人は指輪の重みと輝きに抱かれるように、しばらく無言のまま店を後にした。宝石店を出た瞬間、霧が裂けた。まるでロンドンの街が、二人の行く道を舞台に変えるかのように。その霧の切れ間を、金髪と揺れる大ぶりの耳飾りがまず支配した。続いて現れたのは――夜の世界を女の腕一本でねじ伏せてきた売春宿の女主人であるキャスリン・シャーウッド。
そして何より印象的なのは、やや掠れた艶のある声だ。「まあ!レオンじゃない、久しいわね」その声は、夜更けのワインのように濃く、一滴で酔わせるような甘い艶を帯びていた。
「なんだか幸福そうじゃない! ロンドンに戻った途端、そんな顔するだなんてね」目は笑っているが声の奥に、嫉妬の熱がひっそりと潜んでいた。エリスの指に輝く婚約指輪を見た瞬間、その熱は隠しきれず、ぬらりと露わになる。
少女はレオンの背にそっと隠れた。その控えめな仕草がまた、キャスリンの艶笑を深める。
「まあ、なんて可愛いらしいの――隠れるだなんて! そんな顔されたら、守りたくなるのも分かるわ」やや掠れた艶声はやさしく笑う。だが、その柔らかさは、相手を甘く包み込みながら締め付ける蛇のそれだった。
「ねえレオン。この子にはまだ話してないんでしょう?あなたが昔――私の売春宿で寝泊まりしてたことを」
キャスリンは一歩、二歩と近づく。香り立つ濃密な夜の香水が、霧と混ざり合う。「あなたがロンドンで死にそうな顔して働いてた頃よ。私が食べさせて、休ませて――いろんな意味で面倒を見てあげたじゃない」耳飾りが霧の光を鋭く弾く。エリスの指輪にそっと視線を落とし、掠れた艶声がからかうように低く響く。「その指輪……いいわね。手元の光が、まるで【愛された女】の証みたいだわ――羨ましい」
そして――囁くような声で毒をひとしずく。
「でもレオン。そんな高価な宝石を贈れるなら……
どうして一度も、私のところに戻らなかったの?」その掠れた艶声は、甘くて、苦くて、刃のようで。聞く者すべてを惑わせる響きをしていた。だが、次の瞬間、キャスリンは頭を上げ、かれの眼差しを見つめた。
「……ああ、そうね。今日、ここにいること自体が奇妙なのよ」耳飾りが微かに揺れる。
「あなた達がこの時間、この道を歩くなんて知らなかった。でも【待っていた】私がここに立っている。どうしてかしら?」艶声に愉悦が混じる。
「――カッスルよ。わざわざご丁寧にあなたたち二人が婚約したと知らせてくれたのよ。なんとも厭らしい探偵だわ」
レオンは驚きで眼を見張り、「カッスルだと! あの男め……」と叫んだ。
キャスリンはレオンとエリスをゆっくりと見渡し、劇場の主役に台詞を投げる女優のように言い放つ。
「そうね、本当に厭らしい探偵だったわ。それと、ロンドンはね……美しいものほど喰らう街よ。その指輪ひとつでその子を守り切れるかしら?」艶声が、甘く、残酷に響いた瞬間――霧の中で、微かな気配がすり抜ける。誰も気づかないうちに、エリスの指がレオンの外套からふっと離れ、霧がざわりと揺れ、次の瞬間にはもう、少女はいなかった。人混みのざわめきに紛れ、霧が彼女を飲み込む。
キャスリンも、艶やかに笑ったまま、エリスが消えたことに気づかない。霧の奥で白い髪と赤い瞳。ルーナは人混みをすり抜け、エリスを強く引っ張ったまま静かに消えていく。街の喧騒と人波に紛れ、二人には全くその気配が届かない。
キャスリンは、わずかに眉を上げ、艶笑が止まり、掠れ声で呟く。
「あら? この霧……妙に深いわね」
その声はまだ艶やかだが、ほんの一瞬だけ、鋭い警戒が混じっていた。霧だけが渦を巻き、ロンドンという街が【美と言う獲物を飲み込んだ】のだ。
レオンは、異様な霧の深さに全身の警戒心を研ぎ澄ませた。街路を覆う湿った空気が、まるで生きた獣の息づかいのように肌を這う。
「エリス!」
愛しい人の名を呼ぶ声は、濃霧に呑まれ、虚空に溶けて消え、返事はない。胸の奥で何かがひび割れ、焦燥感が血管を焼くように駆け巡る。慌てて辺りを見渡すが、そこに愛する人の姿はない。膝が抜け、石畳に崩れ落ちる。先ほどキャスリンが放った言葉――【その指輪ひとつでその子を守り切れるかしら?】その響きが、ジギタリスの猛毒のように心を侵し、体中の力を奪う。状況をまったく理解できず、眉をひそめたキャスリンが問いかける。「一体全体、何があったのよ?」
しかし、レオンの瞳は遠く、街の霧の奥に絡め取られたかのように虚ろで、言葉を受け取る耳も心もそこにはない。まるでかれ自身の意識が、背後の石畳や馬車の轟音、そして霧に吸い込まれ、現実から離れて彷徨っているかのようだった。キャスリンの艶のある声が空気を震わせても、レオンは微動だにせず、ただ深く息を吸い込み、吐く。それだけで、街の陰鬱さと狂騒が、彼の心の内側に反響するかのように際立った。
キャスリンはその沈黙を見つめ、唇の端にわずかな笑みを浮かべつつ、掠れた艶のある声で低く囁く。
「大丈夫? 恐ろしいことでもあったのならきちんと話してちょうだい!」
彼女の眼差しは真剣で、ただただレオンの無言に寄り添うように温かく、心配に満ちていた。
「ねえ、無理に言わなくてもいいわ。でも、あなたがこんな顔をするなんて、見ていられないわ!」
沈黙の街路に、キャスリンの声だけが柔らかく響く。霧が彼女の輪郭を包む中、その艶のある掠れ声は、ただ心配の色に濡れていた。しかし、レオンの意識はまだエリスがいた瞬間の温度に絡め取られ、視界には消えたはずの少女の影がちらつく。
「……大丈夫だ、キャスリン」
かれの声は低く、淡々とした紳士の調子だが、胸の奥にざわめく焦燥を隠せない。街路を覆う霧は、人の目を欺くように静かに立ち込め、二人の視界の中でエリスの存在だけを消し去ったかのようだった。
霧が肌にまとわりつく街路で、レオンはふと、背中に感じていた温もりが消えていることに気づいた。その瞬間、心臓がぎゅっと締め付けられる。エリスの柔らかな指の感触、微かな香り、外套越しに寄せられたかのじょの体温――すべてが忽然と消えていたのだ。
「エリス?」
低く呟く声が、霧に吸い込まれる。だが答えはなく、街の騒音と人々のざわめきだけが返ってきた。
かれの瞳が鋭く光り、冷静さを装いながらも、体中の神経が火花のように弾ける。
「どこに…」
言葉が途切れ、馬車の轟音、足音、遠くの鐘の音が頭の中で交錯する。霧の奥で、かすかな白銀の光――ルーナの髪。
赤い瞳がちらりと視界の端に映り、次の瞬間にはもう消えていた。
人混みに紛れて、無音のまま、彼女はエリスを攫ったのだ。レオンは咄嗟に周囲を蹴散らすように歩き出す。手は振り払う群衆の間を掻き分け、外套の裾を掴み、眼差しは霧と人の背に集中する。
「待て!エリス!」
声は街全体に響き渡る。だが霧は返事をせず、無情に二人の距離を引き離す。足音、ざわめき、冷たい霧、すべてが戦場の鼓動のように感じられた。レオンの胸の奥では、理性と狂気が交錯する。指輪の温もりがかすかに残る手が、彼女の存在を追い求め、焦燥が理性を突き破ろうとする。
「エリス――必ず見つける!」
低く、硬く、しかし揺るぎない決意の声。その声だけが、霧の街路を切り裂き、消えた彼女の行方を追いかけていく。
だが、その様子を遠目から見守る人物がいた。それは、アーネスト・オールドカッスルだ。カッスルは少女に救いの手を差し伸べることもしなければ、レオンに告げることもなく、淀んだ空気に汚い街ロンドンで埃と煤の匂いに紛れ、探偵の靴音はすぐに雑踏へ飲まれていった。




