一六章
十六章
寒い冬が近づこうとする中、まだ枯れ朽ちることなく、力強く咲く花々たちを眺めるのを楽しみにしているエリスは、もはや恒例行事と化しつつある庭の散歩をしていた。
そんな花々と少女がいる中で、レオンはベンチに座り、眉を顰め、珈琲を啜りながら分厚い解剖学の本を読んでいた。エリスは、レオンの元へ行き、かれの隣にゆっくりと座ってこう尋ねた。「難しい顔をしてどんな本を読んでいるの?」
「解剖学の本だよ。君も読んでみるか?」
「そんな難しい本、私にはまだ読めないわ。それより、今日だけで構わないから私と一緒に庭で散歩をしてくれないかしら?」と頼んでみる。が、レオンは少女のことを見向きもせず、そっぽを向いて断った。まだ幼いエリスは頬を膨らませて、折れることなく、もう一度試みると、かれはしばらく悩み、少女の熱烈な視線を感じたのか「そこまで言うなら構わないぞ」と、咳払いをして、どこか照れた様子で答えた。
エリスは、可憐な薔薇が花開くように微笑を泛べると、嬉しさのあまりに思わず、その場でドレスの裾が宙でふわりと浮かせ美しい円を描く。白く細い釦ブーツが見えるほどまでくるりと何度も舞い踊った。
「君、転んだら怪我だけでは済まない。今すぐに舞うのやめることを推奨する」と、分厚く重たい解剖学書の本を閉じ、珈琲を飲もうとした瞬間――舞い踊ることに夢中になっていた少女は平衡を崩し、倒れそうになったところをかれは慌てて抱き留めた。
レオンは眉を下げ、ため息混じりにこう言った。「全く君は退屈させない子だな」
「ごめんなさい……あなたと庭の散歩をするのはとても久々だからつい浮かれてしまったわ」と、顔を赤らめ、己の愚かさに羞恥しながら、顔を両手で覆った。かれは、そんな少女に愛おしさを抱きながらも穏やかな声でこう言った。「なかなか優美で見応えがある舞であったぞ。だが、舞うとするなら次からは平らな屋敷の床でやることだ。それより、いつまで俺の腕にいるつもりかな?」
エリスは、ハッとしてすぐに離れた。そして不慣れな様子で「あの……色々とありがとうございました」と言った。
「君に怪我が無ければ良い。さて、散歩でもするか?」
上機嫌な少女は、頬を薔薇色に染めて頷いた。二人で鮮やかな秋薔薇を眺めながら、香り高い庭をゆっくりと歩き始める。その途中、エリスは自身の背よりやや高いところにある薔薇に手を伸ばし、香りを楽しみ始める。そのすばらしく美しい光景をこの眼で見た特別な情を抱くレオンは、思わず見惚れてしまった。色鮮やかな植物たちと儚く妖精のような風貌を感じさせる少女の組合せは、大袈裟ではあるが、まるでラファエル前派のジョージ・フレデリック・ワッツが描いたエレン・テリーの肖像画を眺めているような気分にさせた。まじまじと、自身を見つめていることに気付いたエリスは何かもの言いたげな顔を向けた。レオンは、鼻に指を添えて誤魔化すようにかのじょが手にしていた薔薇を見ていたと、見え透いた嘘をついた。それでも、かれを決して咎めることなく、微笑み返した。
レオンは、燃える焔のように赤くなった顔を逸らしながら、次の場所へ進むようにと手招きをし、ゆっくりと歩き始める。それを見たエリスは慌てて、かれの元へ走った。
「走らなくて良いぞ。その格好では走るのも大変であろう?」とレオン。
「平気よ。ここにきて間もなかった頃の私は、まるで生まれたての子鹿のように上手く歩くことが出来なければ、上手く走れなかったもの。あの時は、ずっと手を貸してくれてありがとう」
「確かに、あの時はヒールに慣れなくてよたついていたな――しかし、君と出会ってからもうそれくらい経つのか」
「私が言っても説得力はないと思うけど、時間って経つのあっという間なのね」
「ああ、あっという間だ――君に尋ねるが、ここに来てから幸せか?」
喜悦に満ちた声で少女は「もちろんよ。ここに来てから人らしく生きることが出来て、とても幸せよ」と答えた。
「そうか。なら、良いんだ」
かれは薔薇を眺めながら、姉マティルダに酷く叱られた記憶を思い浮べる。かのじょは、ここにいて『とても幸せ』だと述べている。ラファエル卿に頼み、デビュタントに出そうとしようと考えた俺はすばらしく愚かなのかもしれない。仮に、出したとしてもあの子は人見知りが激しく、すぐに憐れな壁の花になってしまう。そんな惨めで辛い思いをさせるくらいなら、このまま結婚するのが互いに幸せなのかもしれない。だが、俺が恐れているのは、あの子からの拒絶だ。かつてロンドンで検察医をしていた時、混血なだけでどれほど酷い差別を受けたものだろうか。それだけではない、少し前に限嗣相続の件で遠縁の親戚を訪れた際、純血ではないだの夫が働いているのは貴族として恥であると酷く罵倒された挙句に、拒絶された。そんな中、確かに俺はあの子を愛している。いや、愛してしまったのだ。しかし、拒絶されることを恐れながら、結婚し、あの子を心の底から幸せにしてあげられるのだろうか? 本当にこのままで良いのだろうか? とかれが悩んでいると、庭の近くで銃声が響いた。
「レオン、何の音かしら?」とエリス。
「この近くに銃声とは奇妙だな――確認するから君はそこで待っていてくれ」と言い、一発の銃声が聞こえた玄関口側まで向かった。かれは、どこか不穏な空気を感じながら、庭の奥までじっくり調べる。すると、背後からコツコツと足音が聞こえ、振り返ると、そこには髪の長い白い髪の男が立っていた。男は杖を捻り、中からナイフを取り出してそれをレオンの左腕の外側を突き刺し、杖で右脛を叩いたのち足元を薙ぎ払った。
かれは、前方に倒れ、咄嗟の鋭い痛みと鈍い痛みにかれは小さく悲痛の声を洩らす。そして初めて経験する強い強い痛みに耐えながら男の顔を見ると、そこにはエリスの父ウリエル・グレイが立っていた。このままではまずいと判断し、必死で起きあがろうとするにも全身を走る痛みにより、思い通りに身体を動かせなかった。
すると、異変を察したエリスはレオンの元へ駆け寄る。が、少女は顔面蒼白した。何故ならば、目の前に痛みで悶え倒れているレオンと怖しい父の姿があったからだ。エリスは、庭の奥に逃げようにも恐怖で身体が大きく震え、菫色の瞳から大粒の涙を流すしか出来なかった。屋敷内にいるメイド達とイアンも異変に気付いているだろうが、助けに来ないのは恐らく、父に怖れ慄いているからだろう。そうしている間に、ウリエルは愛しかった娘に近づき、「ああ、なんて醜いのだ! エリス、もう手遅れかもしれないが、私の手で救済してやろう」とエリスを押し倒し、細い細い首に手を掛け、力一杯首を絞める。窒息するような呻き声を上げ、苦しみ少女は悶え足掻く。徐々に意識が朦朧としている中、突然視界が一瞬にして真っ赤に彩られる。命の灯火を灯した少女は、一体何があったのか理解出来ず放心した。
そして「アーネスト!」と、レオンの憤怒に満ちた叫びが庭中に響く。初めて、名前で呼ばれたカッスルは驚きで眼を見張ったが、そんなことはほんの僅かのことだった。探偵の手には鮮血に染まるナイフが握られており、ウリエルを殺めたことを物語る。かれは、立ち上がって、左手に突き刺さったナイフを強引に抜き取り、覚束ない足取りでエリスの元へ向かい、かのじょに覆い被さったウリエルを退かすと、彼の首は深く切られ、身体をぶるぶると大きく震わせ、血に咽ぶ不快で怖しい声が聞こえ、そしてまもなく絶命した。
ハンカチーフを取り出し、血塗られた乙女と化したエリスの顔や髪を拭いながら、かれはカッスルに問い出した。
「何故、ウリエルを殺した! そして、何故、あの子の居場所を教えた?」
その問いに探偵は、落ち着いた様子で鮮血に染まったナイフをハンカチーフで綺麗に拭いてからしまい、シガレットケースとマッチ入れを取り出し、巻煙草を吸いながら上流階級訛りで説明した。
「私たちにとってウリエルと言う男は邪魔だったからですよ。その為には、お二人には少々痛い目に遭ってもらう必要があったのです」
「邪魔だったから殺しただと? 貴様、人の命を何だと思っている!」とレオン。
カッスルは、榛色の眼をガラス玉のように妖しく光らせながら「邪魔だから殺して何が悪いのですか? 命なぞ簡単に散る為にあるのです。それに、ウリエルと言う男はあなた方にとって様々な障害になる男でしょう? そんな邪魔者を殺めてあげたのですよ。感謝して欲しいくらいですし、実に、愉快な最期を迎えた笑劇でしたね」と答えた。
そんな悍ましい探偵に対し、反論しようとするとかれに、カッスルはすぐに脣を動かす。「それより、私に楯突くよりも、その左腕を止血しては如何ですか? 傷の具合はどの程度か存じ上げますが、そのまま放置されては失血死しますよ――それから、ウリエルの死を望んだのはあなたの姉マティルダですから……」
「なにを言っている!嘘を言う……」
やや不機嫌なカッスルは銃を取り出し、沈黙させる為だけに、かれの足元付近を撃つ。そして光のない眼を向けながら、レオンに「まるで生まれたての雛のように騒がしい男ですね。私の機嫌が更に損なう前に止血することを推奨致します。反論するなら、痛みに餓えていると捉え、その左腕を撃ちましょう」と忠告した。
そして、銃声を間近で耳にしたレオンは、これらは全てカッスルの手によって仕組まれたものだと気付く。それに強い苛立ちを覚えたかれは思わず「くそ! カッスル、早急にアンを呼んでこい!」と、荒々しい口調で頼んだ。
「分かりました」
探偵は、やれやれといつもの訛りに戻り、小言を洩らしながら、早急に玄関を開けると、目の前には、恐怖で慄いているアンがいた。二人のメイドとイアンを安全なところへ隠れさせ、自らのみで主人の元へ向かおうと試みようとしたことが伺える。だが、それが出来なかった。そんなメイドに、カッスルは尋ねた。「どこから見ていたのですか?」
「わ、……私だけ全てを見ておりました。それは、もうとても怖しい光景でした――止めに入ろうとは思いましたが、噂のウリエルと言う男に危害を加えられるのではないかと思い、情けないことに私の身体は恐怖とトラウマで支配され動けなかったのです。そ、それより、旦那さまはご無事なのでしょうか!?」と、顫える声で探偵に訊くと「早急に止血してあげて下さい」と冷静に答えた。
アンはすぐに走り出し、主人の元へ向かった。白いエプロンを解き、それを勢いよく破って、かれを横にさせ、左腕に強く強く丁寧に巻きつけて、必死で止血をする。
「アン、そこで力一杯強く結んでくれ――それより、あの子の面倒を見て欲しい。見ていたのなら分かるかもしれないが、放心状態だ」
「かしこまりました。旦那さまはどうか安静にしてくださいね――さあ、エリスさん大丈夫ですよ。私に着いて来てください」とエリスを誘導すると、入れ変わるかのようにカッスルがやってきた。
「治療の必要がなければ、さっさと部屋で安静にされては如何でしょうか?」
「黙れ――そんなことより、マティルダにウリエルを殺すように依頼されたのか?」
「いいえ、『ウリエルさえいなければ良いのに……』」と、呟いていたので、邪魔者を排除したまでです」とカッスル。
「マティルダめ、余計なことを……それよりこの死体の処理はどうするつもりだ?」
「ここの警察は当てになりませんので、面倒ではありますが、G管区署の者に頼み、今夜、ロンドンまで運び、路地裏に放棄させましょう。高価なモノは予め取り外し、ギャングに襲させたことにすれば良いのです。金品を目的とした強盗で殺されたことにすれば、誰しもが憐れみ納得するでしょう」
「その為に、死体の放棄を他人にこき使うとは、とんだ畜生な野郎だな!」
「何とでも好きにお呼びください。さて、私はエリス嬢が心配なのであなたは、足の鈍い痛みが消えるまでそこで寛ぐと良いですよ」と、探偵はかれを置き去りにして、屋敷へ入った。
中に入ると、荷物置きとして使われた椅子にエリスを座らせ、コニーが髪や顔に付着した血を丁寧に拭っていた。一方、少女は、壊れてしまったのか途方を見つめ、涙を流し続けていた。
「カッスルさん、一体何があったのですか?」とコニー。
「お嬢さん、知らなければ、幸せということもありますよ。それでも、お聞きになりますか?」と微笑を泛べながら言うと、メイドは深く悩み始めた。いつも穏やかな日々を送っていたのに、それが今日という日に突然壊された。あのアンですら、恐怖で動けなかったほどだったのだから――小さな唇を震わせながら尋ねようとしたその瞬間――「……られたの」と少女は喋り始める。
「お父様がレオンを痛めつけたあと、私を押し倒して首を絞められたの」
「首を絞められた? どうやって助かったのですか?」とコニー。
「わからない。突然、視界が真っ赤になってからなにも覚えていないの」
「突然、視界が真っ赤? カッスルさん、あの場にいましたか?」
「はい。ハワードはウリエルに腕を刺され、脛を叩かれた挙句、足元を薙ぎ払われて前に倒れたところが見えるところにいました。そして、エリス嬢の首を絞めていたところ、彼の頸動脈の通る首を勢いよく切りました」
コニーは最も簡単に人を殺めた探偵に対して、恐ろしさのあまりに、思わず叫んだ。「ひ、人殺し!」
すると、探偵は、小首を傾げながら見下すように言った。「人殺し? 殺して何が悪いのでしょうか? あの時、私がウリエルの首を切らなければ、エリス嬢は殺されていたのですよ? 一つ尋ねますが、メイドのアンですら恐怖で慄いていた程です――お嬢さん、あなたになら一体何が出来たと言うのですか?」
ナイフの如く鋭利な言葉にメイドは言い返すことすら、赦されずただただ沈黙することしか出来なかった。確かにカッスルの言う通りだ――非力な自分では何も出来ず、返り討ちに遭っていただけであろう。何せ、主人レオンの身動きですら、取れなくさせたのだから――結局、自分は無力であるとコニーは涙を浮かべる。
「涙を浮かべている時間があるのなら、速やかにエリス嬢の服を着替えさせては如何でしょう? いつまで血塗れの乙女にいさせる気ですか?」と言うと、「そんなことあなたに言われなくても分かってるわよ! コニー、あんな狂った人殺しなんか放って置いて行きましょう!」と、不機嫌なベティが楯突き、二人を連れて二階にある少女の部屋へ連れて行った。
「人殺しねえ……」とカッスルは、呟き、先程までエリスを座らせていた椅子に座って足を組み、再び巻煙草を吸い始めた。そしてコツコツと安定した足音が聞こえると、カッスルはその方角へ視線だけを向ける。そこには、左腕を力強く抑えているレオンがいた。
かれは、探偵に向かって口を開く。「こんな状況にも関わらず、よく優雅に巻煙草を吸えるな」
「どうやら軽口を叩けるまで回復はしたようですね。腕の具合は如何ですか?」
「アンの素早い処置のおかげで無事に止まった。あとは縫合するだけだ」
「縫合するのに針と糸は何処にあるのですか?」
「それなら、階段横にある扉が診察室だ」
探偵は、巻煙草の火を消し、診察室へ入ろうとする。かれに止められそうになるにも、構わず払い除けて、その部屋に入ると、そこにはアンがいた。かれは何故ここにいる? と、尋ねたそうな顔をしていると、メイドの手には傷口を縫合に必要な道具が揃っていた。
レオンはアンに尋ねた。「どうして道具の一式を君が持っているのだ?」
「旦那さまの代わりに縫合しようと思いまして……」とアン。
「それは、有難いが縫合したことなんかないだろう?」
「なら、私がやりますよ。その顫えた手で一体何が出来ると言うのですか? 縫合なら警部補時代にいくつか経験がありますので私がやります。アン嬢は助手を務めて下さる助かります――ハワードは服を脱ぎ……いや、アン嬢、傷口が開かないようにジャケットとシャツにユニオンスーツを脱がしてあげて下さい」
アンは頷き、一方のレオンは、カッスルを睨みながら、メイドに左腕を差し出し、固く縛った布を解き、指示された通りにジャケットなどを脱がす。
「お手柔らかにな」
「それは約束出来ませんね。それより、幸い深さは神経や血管などには達していないのでご安心下さい。コカイン溶液の塗布は必要ですか?」
「そんなことしている場合ではない! 早くあの子の元へ向かわせてくれ!」
「承知していると思いますが、激痛を伴いますのでタオルを口に含んで下さい。まあ、あなたには血のついたジャケットやシャツの方がお似合いですが……」
「軽口を叩く時間があるならさっさとやれ」と不満を洩らしながら、かれはアンに渡されたタオルを口に咥えた。
銀色の浅めのオーバルボールに石炭酸を入れ、折り畳みガーゼを浸すと、それを絞り、傷口に当てた後、その周辺に付着した乾燥した血を丁寧に拭った。
レオンは、左腕が燃え尽くされるような激痛に耐ながらも悲痛の声を洩らすことなく我慢し、体を大きく震わせた。
「アン嬢、糸と針を下さい」
アンは予め、糸を通した針をトレーに置き、渡した。探偵は、慣れた手つきで縫合を始めた。痛みは口に咥えていたタオルを取り、カッスルに震えた声で問いかける。「随分と手慣れているな。元警部補はなんでも器用にこなすのだな」
「以前、監察医にやり方を教わっただけですよ。それに、あなたが初めてではありませんから」とカッスル。
「初めてやったのは一体いつだ?」
「そうですね……それは、秘密です」
「元警部補でも知られたくない過去があるとでも?」
「そう言うことにして下さい。しかし、悪運の強い男ですね。傷口としては3センチ程度ですよ」
「何故、そんなに傷口が小さいのだ?」
「着ている服の生地が分厚かったのも影響しているでしょうが、杖の中に仕込まれた細いナイフで刺したからですよ。恐らく、引っ掻いたように刺したのでしょうね。おかげで、私の負担は少なく二針で縫い終えました。憐れなウリエルに感謝ですね」
「襲われた身にもなってみろ!」
「それは、きっと愉快なのでしょうね――おや、そんなに睨まないで下さい。それより、アン嬢、剪刀をお借りしてもしてもよろしいですか?」
メイドは銀色のトレーを持ち、その上に置かれている剪刀を渡すと、探偵は受け取り、糸を切った。清潔なガーゼを傷口に当て、包帯を巻いた。
「さて、これで出来上がりましたよ。傷口が閉じるまでしばらく安静にしていて下さい」
「待て! どうしても今夜、G管区署の連中たちに死体を運ばせるのか?」
「そうですね……あなたがどうしてもと言うのなら、私と二人で運びましょうか?」
「それだけは御免だ」
「あのよろしいですか?」とアン。
「何でしょうか?」とカッスル。
「カッスルさん、今夜、私と一緒にロンドンへ行き死体を処理するのは如何でしょう?」
メイドの思いがけない言葉に二人は眼を見張った。そんな中ですぐに口を開いたのは探偵だった。「面白いことを言うのですね。ですが、却下です。女性の力では運べません。男性二人で一人の男性を運ぶのに精一杯なのに女性のあなたではただの足手纏いにしか過ぎません。大人しく、警察に任せれば良いのです。私は、今からG管区署に向かいますのでお二人はエリス嬢の様子でも見てあげて下さい。それでは、また今夜お会いしましょう」
レオンは探偵を止めようにも、彼はすぐに診療室の出入口から飛び出た。追いかけようとすると、アンが呼び止める。「旦那さま! 悔しいですが、カッスルさんの全ておっしゃる通りです。あの死体は警察の方々にお任せした方が正しい判断でしょう。さあ、服を着直してエリスさんのところに行きましょう」
かれは、どこか納得していない様子ながらも、メイドと共に少女の元へ向かった。扉を開けると、皆が集まっていた。
「レオン、その腕は大丈夫?」と、イアンがすぐに駆け寄った。
「ああ、心配ない。安静にすれば傷口は塞がるさ」
「良かった。お父さんに叔父さんが亡くなったこと手紙で知らせた方が良いかな?」
「いや、知らせなくて良い。いずれ新聞で亡くなったと報道されるだろう。真実とは異なる内容でな」
「カッスルは人殺しになりたくないから嘘をついたの?」少年は、訝しげに尋ねた。
「分からない。奴は、ロンドンにあるG管区署の警察たちに任せると言っていた。金品目的のギャングたちの襲撃による強盗殺人で今夜片付けるそうだ」
「そんな事できるの?」と、イアンは驚きながら、訊いた。
「賄賂を渡せばな。だが、カッスルのことだ。何をしでかすかわからない。それより、あの子の事だが……」
「今は落ち着いておりますよ」とコニー。
「やっぱり、お父様は殺されていたのですね」と眼を伏せがちにエリス言った。
「……すまない」
エリスは立ちあがり、レオンの元へ駆け寄り、強く抱きしめた。
「お父様のことは良いの。これで自由になれたのだから……そんなことよりも、レオンが無事で本当に良かった」と少女は、涙ぐんだ声で言うと、かれも少女を抱きしめ返して頭を撫でながら言った。
「心配掛けてすまなかったな」
「本当に心配したんだから……」
イアンとメイド三人は、二人だけの甘美な雰囲気を壊さぬようにと静かに出ていき、そっと扉を閉めた。音を立てぬよう階段を降りて、玄関を開けて四人で庭へと向かった。
「あの二人、素敵な雰囲気でしたね」とコニー。
「あとは、旦那さまがプロポーズすれば完結なのですがね」
「プロポーズってことは結婚するの?」
アンは咳払いをしながら言った。「三人とも! 呑気ね。庭に死体があることを忘れないでちょうだい」
コニーはハッとして、不安そうな顔で「警察の方々がこちらに来るまではそのままにしておくべきでしょうか?」
「カッスルさんが、今夜、ロンドンのG管区署の方々になんとかしてもらうと言っておりましたが出来るのでしょうか?」とベティ。
悩めるメイドたちにイアンがこう言った。「死体は惨たらしくて見るものではないとレオンが言ってたからそっとしておこうよ。それに、変に動かしたらカッスルの機嫌も損ねてしまうだろうかそのままにしておこう」
「そうですね。しかし、今日のカッスルさんの態度は色々と腹立たしかったですね! ねえ? アン」とベティ。
「そうね。普段は穏やかな人だと思ってたけど、今日に限って、威圧的で怖しかったわね……それに、あの人、本当にただのしがない探偵なのかしら? 元警部補とは言っていたけど、今は警察たちを動かせる権限はないはずよ?」とアン。
「やっぱり賄賂を渡しているのでしょうか?」とコニー。
すると、イアンが「考えても仕方ないから、今日起きたことはなるべく忘れよう。アンたちだって、考えていたら仕事にも支障が出るし、捗らないでしょう?」
アンはしばらく沈黙したのち口を開いた。「そうね、イアンの言う通りだわ。後のことは、警察に任せましょう」
メイド三人は頷き、庭を後にすると、屋敷に戻って各々の業務に戻る。少年は、好奇心に負け、ひっそりとウリエルの亡骸を見に行く。だが、すぐに後悔することとなった。




