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十五章

十五章

 翌日、カッスルは馬車に揺られながらウリエル・グレイが住むベルグレイヴィアへ向かっていた。特別に人形作家から依頼を受けたわけでは無いが、ある重大な情報を提供するのを目的していた。巻煙草の快楽に浸いながら、外を眺めるとベルグレイヴィアが見えた。ヘンリーとして見たこの街は美しく見えたが、本来の姿であるアーネスト・オールドカッスルの視点から見れば、不思議と高級な住宅街が並んでいるだけのただの汚い街に見えた。まもなくウリエルの自宅に到着しようとしている。山高帽を被り、巻煙草の火を消して書類などを纏めて支度をする。

 馬車が止まり、例の男の自宅に到着したことを知らせる。カッスルは、いつになく落ち着いた様子で馬車を降りて、ウリエルの元へ向かう。扉を力強くノックし、ポリー或いは作家が出てくるのを待つ。すると、現れたのはウリエル・グレイだった。

「どこぞの小汚い若僧か分かるまいが、今すぐにそこを退く良い。退かなければどうなるか……」

「これからブライア・ローズへ向かうのでしょう?」とカッスルが冷たい声で言うと、ウリエルは眉を顰めながら尋ねた。「目的はなんだ?」

 不穏な空気が流れる中で探偵は冷静に「ウリエル殿。私は元警部補であり探偵のアーネスト・オールドカッスルと申します。私がここに訪れたのは、貴重なエリス・グレイの情報提供です。不要であれば、あなたのお望み通り退きます」

 作家にとって、今すぐにでも喉から手が出るほど欲しい情報であった。愚民の誰しもが、エリス・グレイに関心を失った中で唯一の情報を握る男が今そこにいる。このような形で見窄らしい探偵とやらに娘の情報を提供されるのはなんだか腑に落ちる。が、ウリエルは老婆ポリーを呼び、カッスルを客室まで招くように言った。ポリーは深々とお辞儀をし、探偵の外套を受け取り、それをホールスタンドに掛け、客室まで案内した。

「お紅茶をお持ちいたしますので、もうしばらくお待ちくださいませ」

「私の分だけで頼む」

「ですが、お客様が……」

 ウリエルは、肌身離さず持っている杖で老婆の足元を強く突く。

「どうやら歓迎はされていないようですね」

「私がいつ貴様を歓迎していると言った? さっさとエリスの情報を吐き出すが良い。今、娘はどこにおる?」

 レイピアの如く鋭い眼差しで睨まれながらも、探偵は決して怯むことなく不敵な微笑を泛べて答えた。「あなたが最も嫌っている男の友人の屋敷で保護されております」

 作家は一瞬、眉を顰め考えた。「私が最も嫌っている男だと――兄上のことか! そして、ジョージとモイラに保護されているだとなんと忌々しい!」

「正式にはジョージやモイラではなく、レオンハルト・ハワードと言う男が保護しております。お二人は既に亡くなっております。肝心の証拠ですが、お望み通りであれば、お見せしましょう」

 カッスルは、これまでの手紙でのやり取りや資料を全て鞄から取り出して見せた。作家は驚きで目を見張らせ、手紙や資料を一つ一つ手を取り、一枚一枚じっくりと読む。次第に、ウリエルの顔は焔のように赤くなり憤慨し、テーブルに置かれた手紙と資料を勢いよく薙ぎ払った。カッスルは宙に舞う資料や手紙を静かに眺めた。

「兄上、レオンハルト・ハワードめ! 許さん! この手で殺めてやりたいほどだ!」

 そっと扉を開けてポリーは様子を窺うように言う。「だ、旦那様、お紅茶を……」

「黙れ!さっさっと置き、お茶を注ぐが良い! ついでにこの男の分も用意しろ! 早急にだ!」

 老婆は酷く震えた声で「か、かしこまりました」と言い、速やかに紅茶を淹れ、部屋を出た。

「私に紅茶を提供するとは、どう言う気の回しですか?」

「貴様を客人として認めたからだ。それで、今のエリスはどうなっているのだ?」

「知れば知るほど、あなたは自我が崩壊してしまうほど怒り狂うと思います。が、それでもお聞きになりますか?」

 作家はゆっくりとカッスルの顔を近づけて、囁いて言った。「さっさと話せ」

「良いでしょう――私が初めてお会いした時のエリス嬢はまるで人形のように無表情で生きているのかすらわからないほど実に無機質でした。が、今ではすっかり人間らしくなり、文字の読み書きも出来れば、涙を流し、花のような愛らしい微笑も泛べます。そして、すっかりと美しい花と戯れるのが好きな少女へと変わりました。昨日は、あなたの兄上であるラファエル卿とお会いしておりました。それだけでは、ありません。卿の嫡男であるイアン・グレイとも戯れておりました。あのイアン・グレイですよ。家系図上では抹消されているはずの子供が生きていたのです」

 ウリエルは、紅茶を一口啜った。「ふん! 何処までも忌々しい男どもだ。まあ、良い。二人のことは私が始末するば良いだけの話だ。そして、爵位は私の手に渡るのだからな。ああ、しかし、私の愛しいエリスよ! なんて憐れなのだろうか……」

 話の途中でノックがし、ポリーが入ってきた。カッスルの分のお茶を淹れるが、作家は老婆に憤怒の眼差しを向け、「この役立たずめ! お前が管理を怠ったせいでエリスは人形でなくなったのだぞ!」と杖で臀部を何度も打った。ポリーは小さな呻き声を上げ、何度も何度も謝罪しながら涙を流した。そんな悪虐非道極まりない行いをカッスルは止めることが出来なかった。いや、ただ見つめるのが懸命な判断なのだ。仮に止めたとしても、ウリエルの逆鱗に触れるだけだ。だから、憐れむことなく、冷めた眼で二人をただただ見つめた。カッスルは作家の癇癪が治るまで、恐れることなく提供された紅茶を口に含み、それを静かに堪能した。しばらくすると、作家の癇癪は治り、憐れな老婆を客室から追い出した。

「すまなかったな」

「構いませんよ、ところでエリス嬢を殺めるのですか?」

「実物を見てから判断する――しかし、あの時、殺しておくべきだったな」とウリエルの口から恐ろしい言葉が出てくる。

「あの時とは? 一つ、お伺いしますが、何故エリス嬢を殺める必要があるのでしょうか?」

「行方をくらます前の話だ。十六歳を迎えた時に剥製にし、永遠に美しいままでいさせるべきであったな。それこそ本物の人形でいられたのに、私の大きな失態であった!」

「随分と素晴らしい趣味をお持ちで。しかし、エリス嬢も一六歳とはまだお若いのですね。剥製にするには成熟するまで待って見ては如何でしょう?」

「ふん! 貴様などのような薄汚い探偵には、私の美の概念は理解出来まい。エリスも愚かだ――老いることがどれほど不幸で悲劇的なのかを理解しておるまい。一刻も早く、この私の手で救済を与えてやりたいものだ」

「救済――お久しぶりにお聞きましたよ。ところで、エリス嬢が、行方をくらました際、何故、二十歳前後の男性として世に探し出すようにしたのですか?」

「実際に男の装いをさせていたからだ。年齢も二十歳前後相応に見えていたこともあり、女の装いをさせるより、思いのほか美しかったのだ。それよりも貴様のおかげでようやくエリスの居場所を特定の出来た――感謝しよう。さて、見窄らしい貴様に最高の褒美を遣わそう」

「ありがたいのですが、私には褒美は不要です。依頼料をハワードからたんまりと頂いておりますので、どうかお気にせずに」

「なら、今すぐに決行しよう」と立ち上がり、支度をしようとする。が、探偵はすぐに止めた。

「決行するなら明日がお勧めですよ。無計画で行ったところで、上手くやれるとは私は思えません」

作家は片眉を上げ、カッスルを見下しながら言った。「貴様如きの下層階級に指図はされたくまい! が、一理ある。さあ、貴様の話を聞かせよ。退屈なものだった場合、分かるな?」

「老婆と同じ道を辿る程、退屈な計画は用意しませんよ。良いですか? 肝心の基本的にはエリス嬢は、ディナー後に庭を出ているか文字の読み書きの勉強をしているかのどちらかになりますが、明日は庭で花と戯れる日となっております。問題は、屋敷の主人であるハワードですよ。往診に出かけれてなければ良いのですが、何せ不定期なものですから期待できません――おや? そんな不機嫌な顔をなさらないで下さい。むしろ、在宅している方が好機なのです」

「ほう、何故そう思う?」ウリエルは紅茶を啜りながら、尋ねた。

「ウリエル殿、あなたが愛用している杖ですが、先端を捻ると分離し、ナイフになっておりませんか?」

 作家は驚きで眼を見張った。会ってから間もない男に何故、杖の秘密を見破れたのだろうか? ウリエルは不思議で堪らなかった。銀色のラウンドグリップの先端にはローズカットされた妖しく煌くアメジストが嵌められながらも握りやすくなっており、黒の柄の部分を除き、優美なアラベスク柄が彫られ、特注で脅迫用及び体罰用として作らせたものだった。が、この手の職人ですらも誰がどこから見ても見破れぬはずだ! と作家は思った。

 この男は只者ではない――恐る恐る、ウリエルは杖について訊いてみた。

「何故、杖の秘密を分かった」

「簡単ですよ。あなたは、誰よりも傲慢であり、怒りっぽく、常に誰かを支配したい。そんなあなたは表向きは護身用で職人に作らせ、本来の用途は脅迫用でもあり、体罰用でもあるからです。先程の老婆に体罰を与えようとした際、杖をほんの僅かに捻ろうとする動作が見えたのです。ただ、あなたは憤慨のあまり、体罰を優先した――ナイフで、『次は命はないぞ』と脅迫するだけでは、あなたの怒りは鎮まりませんからね――一つお伺いしたいのですが、ナイフの切れ味が如何にどれ程、鋭いものなのでしょうか?」

「ふむ。林檎など容易く切れるほどの切れ味だ。これで愚鈍な警察共を威嚇したが、結局のところ奴らは何も役に立たなかった――しかし、大した洞察力だ」

「有難きお言葉を感謝致します。ウリエル殿、その立派なナイフで医者として必要不可欠であるハワードの腕を刺し、杖で脛と足元を狙いを薙ぎ払って見ては如何でしょうか?――悶絶している間にエリス嬢の細い細い首に手を掛け締め、殺めれば良いと考えております――あなたはどうお考えですか?」

「質問に答える前に訊くが、何故私に協力する?」

 カッスルは不思議そうに首を傾げながら、決して悪意のない澄んだ眼をしながら答えた。「それは、かれが絶望する顔が見たいだけです」

 ウリエルは、楽しそうに笑い出した。そして「絶望した顔を見たいからか――貴様は面白い男だ」と言った。

「面白い男はハワードの方ですよ? 近々、ハワードとエリス嬢のお二人は結婚するか否かと話し合っておりますから」

「何!? 結婚だと!? それだけは、決して許さん! 貴様、オールドカッスルと言ったな? ディナーあとに行けば良いのだな?」作家は、青白さが無くなるほど顔を焔のように赤くするほど尋ねた。

「はい、間違いございません。陽動役に私もついて行ってもよろしいでしょうか?」腰元を捲り、ホルスターからウェブリーMk Iを取り出す。

「構わん! 仮に邪魔な忌々しいハワードがいたと

したら、貴様の言うとおり確かに好機であり、このナイフと杖で痛めつけ、絶望を差し上げてやろう――実に明日が楽しみだ」とウリエルは悪意に満ちた微笑を泛べる。

「では、ウリエル殿。明日はディナー前にロンドン・ブリッジ駅に立ち合いましょう」

 ウリエルは頷き、ほんの僅かに機嫌が良くなり、紅茶を啜った。その間に、探偵は床に散らばった手紙や資料を黙々と片付け始める。そして、それらが全て揃っているのかを確認していると作家は静かに、そして不気味に笑い始めた。実に、狂気に満ちた笑いであり、その笑い声は、カッスルの内に秘めたる狂気を刺激した。探偵は、鞄を閉じ、立ち上がって、速やかにウリエルの元から去った。すぐに御者の元へ行き、拠点であるコッテージ・デライトへ向かうように言った。馬車に乗り、すぐにシガレットケースとマッチ入れを取り出し、巻煙草と言う逃がれられない麻薬の快楽に浸かる。肺を甘美なる毒で充分に満たした後、鞄を開けて、これまでの手紙と作成した資料を取り出して、一枚一枚丁寧に読み直す。依頼人であるハワードに対する()()()なのは重々承知だと己に言い聞かせ、明日はかつてない笑劇を特等席で鑑賞出来ると思もうと、カッスルは思わず不敵な微笑を泛かべた。ふと窓を眺めると住み慣れた街ウォータールーが探偵を歓迎した。しばらくすると、拠点コッテージ・デライトに辿り着き、賑わっている酒場(パブ)の中へと入った。カウンター席に座り、主人であるアーサートンを声高で呼び、琥珀色に煌めくスコットランド産の伝統的なウィスキーボウモアを要求した。

「よお! やけに機嫌がいいな。エリス・グレイの情報を提供しに行くと言っていたが、上手くいったのか?」アーサートンはウィスキーを取り出し、グラスに注いで渡した。

「ええ。無事に提供しに行きました。ウリエルと言う上位中流階級の男ですが、実に狂気的でありましたが、楽しませて頂きましたよ――さあ、アーサートンも一杯どうぞ」

「今日は気前が良いな。一杯貰うぞ――しかし、依頼人を裏切ることにならねえか?」

「それについては、問題ございません。裏切りだと私自身も重々承知しておりますし、何よりも退屈なあの田舎町で笑劇が観たいのですよ」

 主人は笑いながら「笑劇? 三流の笑劇ではご不満ですか?」と言った。

「いいえ、十分に満足しておりますよ。先程も申し上げましたが、私が観たいのは美しいが取り柄しかないカンタベリーと言う田舎町で笑劇をこの眼に焼き付けておきたいのです。ですが、ウリエルの行動次第では、ロミオとジュエットのような悲劇を鑑賞することになるでしょう」

「ロミオとジュエットだと? 俺にはそんな洒落た劇は合わん。俺たちのような学のない労働階級者には賞金を賭けたベアナックル・ボクシングを鑑賞した方が楽しいね」

「おや、私もベアナックル・ボクシングの鑑賞は好きですよ――ただ、警部補をやっていた時代はある程度の学が求められたので大変でしたよ。警部補に辿り着くまでの私は薬草学に解剖学や文学など一切興味ありませんでしたから」と、ウィスキーを一口飲むと、口の中に香る豊かなピート香とスモーキーが広がり、僅かに感じる芳醇な甘みを堪能し始める。そして巻煙草を取り出し、ウィスキーのすばらしい香りを引き立てると同時に、再び肺を毒で満たした。

「そうか。元警部補のカッスルも好きだったとは意外だな。しかし、学が求められたとか俺には出来ねえ」

「警察は、あくまでも私たちのような労働階級者ですよ。娯楽は噂かベアナックル・ボクシング以外何もなかったのですよ。あのような碌でもない職に就かない方が身の為です。それに、意外にも、貴族と話す機会が多かったのですし、多大な負担が多い分、安い賃金で働かされていたものですから割に合いません――さて、退屈な話はここまでにしましょう」

「おう! それより、ロミオとジュエットと言っていたが、エリス・グレイはもしかして女なのか?」主人は猫をも殺す怖しい好奇心で尋ねた。すると、カッスルは笑いながら「面白いことを言うのですね。私と秘密の共有をしたいと言うことでしょうか? 良いでしょう――アーサートン、あなたにだけ教えましょう」と言うと、上機嫌にアーサートンの耳元で囁いた。

 主人は驚きで眼を見張り、探偵に「それは本当なのか?」と尋ねる。

「ええ、全て事実です。あなたは大変甘い蜜を吸われましたね。忠告しておきますが、蜜の分け合いは禁止ですからね――他の者へ蜜を分けた際は、それ相応の覚悟をしておいて下さい」とアーサートンに暗く光のない榛色の眼で忠告をした。主人はどこかカッスルに対し、どこか底知れぬ悍ましさを感じ、静かに頷いた。

「さて、飲み直しませんか?」と探偵。

「ああ、そうだな。一つ気になったのだが、ウリエルとはどんな男だったのだ?」とウィスキーを口元へ運ぶ。

 カッスルはため息混じりに言った。「それはそれは、大変恐ろしい男でしたよ。彼は、人形愛好家であり、人形作家でもあります。だから、エリスはウリエルにとって大切な大切な人形だったのですよ。その為、警察を威嚇し、目が血走るほどまで探していたのですよ。失踪する前は乳母がいたのですが、その乳母の管理不足により、逃げ出したそうです。その為か、私がいるにも関わらずですよ? 乳母を駒のように粗末に扱い、体罰を与えておりました。しかも、杖で臀部を激しく叩いておりました。グレイ家は近親相姦により、生を授かったせいなのか、私の眼にはとても異常に見えました。そして最後に、兄がおり、自身が上位中流階級である事に強い不満を抱いておりましたね――なんだか哀れな男ですよ」

「気味の悪い男だな。酒が不味くなる。お貴族様ってそんな奴が多いのか?」とアーサートン。

「いいえ。彼だけが特別でしょう。事件に立ち合った際、幾人かの貴族にお会いしましたが、彼らのほとんどが傲慢、或いは数少ない心優しい者がいるかのどちらかでした。それより、明日はウリエルと依頼人の笑劇を鑑賞出来ると思うと心が弾みますね」

 主人は呆れながら、ウィスキーを口にし、言った。「よくそんな狂人と正常な依頼人を会わせようと考えたな。随分と趣味が悪いぞ?」

「秘密を知ったあなたもね」と探偵は微笑を泛べた。

「まあ、良い。ここまで来ちゃあ後戻りは出来ねえ! 明日は一体どうなったか教えてくれよな? とにかく、俺は依頼人が無事であることを祈るさ、裏切り者の探偵さんよ」

「裏切り者の探偵さんね――その呼び名、嫌いではないですよ」

 アーサートンはふた返事をし、まるでカッスルとの会話を終えたいかのようにウィスキーを一気飲みした。そして要求したウィスキーを早く飲み干すように合図を送ると探偵は一気に飲み干し、巻煙草を吸った。巻煙草の火を消し、部屋に戻ることを主人に告げ、コッテージ・デライトから出た。酒場(パブ)の入り口の横にあるチョコレート色の扉を開けて、細い階段を登り、豪華絢爛な自室へと入る。明日の支度に差し掛かる前に、紅茶を嗜もうと、マホガニー材の食器棚からまるで穢れを知らない純白の茶器を取り出し、それをテーブルに置いた。ケトルに水を入れ、それを沸かし始め、棚からダージリンの茶葉を取り出す。ティーポットに茶葉を入れ、お湯が沸くのを待ちながら、窓側にある小さな棚を開けて、護身用のナイフを取り出す。ナイフの鞘を外し、切れ味を確認する為、一枚の紙を取り出して、試しに切ってみると、特別に力を加えることなく綺麗に紙は切れた。満足したのか探偵はそれを鞘に収め、すぐに持ち出せるようにとローテーブルに置いた。明日、万一、ウリエルに危害を加えられるようなことがあった際に使用する為の物だ。念には念を入れようと、カッスルが考えてるうちにお湯が沸く音が室内に鳴り響いた。すぐに、ティーポットにお湯を注ぎ、テーブルに砂時計を置いた。それを眺めながら、マティルダの言葉が脳裡に蘇る。「ウリエルさえいなければ良いのに」と――実に愉快な発言であった。が、どの道、明日はどうなるか分かるまい。あの()()()()()()()ウリエルさえ、私を裏切らなければ良い。そう願いながら、砂が落ち切った砂時計をしまい、ティーカップにすばらしい濃いオレンジ色のダージリンを淹れ、それを数十秒眺めたあと口へ運んだ。口の中に広がるまるで花の蜜のような甘い香りはどんなに素敵な美酒よりもカッスルの身も心も癒す。

 しばらく紅茶が齎す甘い余韻に浸かりながら、再びマティルダの言葉が脳裡に蘇る。何故、彼女があの時、あの言葉を発したのだろうか? あの男が怖しいからなのだろうか? 或いは、ハワードとエリス嬢にとって障害になるからだろうか? 後者だとすれば、実に弟思いな良い姉だ。だが、私にはそんなことはどうでも良い――今は、明日を待てば良いだけのことなのだからと紅茶を啜りながら、探偵は仄暗く見慣れたウォータールーの街並みを静かに見つめた。

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