十三章
一三章
次の日、昼を間近にしても一向に起きてこない苛立ちを感じていたアンはかつてない苛立ちを覚えていた。周囲にいる者たちも緊迫した空気にひどく戸惑っていた。
「もう我慢できません!」
「アン!?」
ベティがアンを呼び止めようとするも、彼女は駆け足で階段を登り、主人の部屋を激しめに三度ノックし、勢いよく入った。そこには、スーツを着たレオンがベッドに陰鬱な顔をして座り込んでいた。
「旦那さま、もうそろそろお昼になりますが、一体どうなされたのですか?」隣に座る。
「アンか、ラファエル卿に両親について話すことが怖いんだ――きっと向こうはようやく古い友に会えると期待で胸を膨らませているはずだ。だが、俺はそれを裏切ることになる。俺は、一体どうすれば良いのか……」
アンはしばらくレオンを眺めたのち、力一杯の平手打ちをした。そして、こう言った。「いつまでずるずると引きずっているのですか? お二人が亡くなって悲しいのはあなただけではないのですよ! 私だってそうです――お二方の命日が近づく度に、心が満たされず空っぽになるのです。それは、ベティ、コニー、そしてマティルダだって同じです。ご両親のためにも、そして、旦那様の未来のためにも明るく生き、死を受け入れましょう――それが、死者への精一杯の弔いであり、きっとお二方もそう望んでるでしょう」
暫く重く長い沈黙が続いた。とてもとても長い沈黙だ。部屋に響き渡るのは、生命を感じさせる呼吸音のみ――メイドは主人を見兼ねて立ちあがろうとした途端、レオンを重たいを開いた。「アン、すまなかった。ラファエル卿は何時ごろに訪れる?」
「昼頃にしかイアンさんにお伺いしておりません」
「その間に、君から受けた平手打ちの痕が落ち着いてくれれば良いのだが……」
「これでは、ラファエル卿に向ける顔がないとおっしゃるのですか? ご安心ください。怪我をした事にすれば良いのですよ。今からガーゼで抑えましょうか? その方が様になりますよ」
「いや、結構だ。しかし、良い平手打ちだったよ」
「お褒めいただき光栄です。それより、皆様が一階でお待ちしておりますよ」
かれはふた返事をして、ベットから立ち上がって鏡で自分の顔を見た。ほんの僅かに頬が赤く腫れ上がっている程度だった。気にする程度でもないと判断したレオンは部屋を出て、階段を降りると、すぐにイアンが眼に入った。
少年が「お寝坊さんがようやくお目覚めだ、レオンにしては大変珍しいね」
「大寝坊してアンに平手打ちをされたのですか? 情けないですね」とベティ。
「ベティ、そこまで言わなくて……」とコニーが優しい言葉を掛ける。
かれは微笑を泛べながら「悪かったな、大寝坊した上に情けない主人で! ベティ、珈琲を頼む」
「かしこまりました。しかし、あんな泥水を好んで飲まれるとは随分と旦那様は味覚までおかしくなってしまったのですね。アンにもう一度平手打ちされてみては如何でしょう?」と皮肉を言いながら、メイドは淹れに行った。
「旦那様、ベティが意地悪で申し訳ございません!」とコニー。
「いつものことだから、気にするな。俺に対する彼女並みのコミュニケーションの取り方なのだから――それに、彼女は本当に美味しい珈琲に巡り会えてないから言えるのだよ――それより、エリスを見なかったか?」
「エリスさんでしたら、居間の窓で庭を眺めていますよ」
「そうか。少し話してくる」とレオン。
「あー、えっと、あまりお勧めはしないよ。昨日から落ち込んでるから」
イアンの言葉に暫く黙り込むと、かれは意を決して彼女の元へ行った。物憂げな様子で窓の外を見ていた。その眼は、いつになく憂いを帯びていた。
「エリス」
少女は驚いて咄嗟にレオンの方を向いた――「昨日はすまなかった、君とポリーの件だが、可能な限り最善を尽くすよ」
「嘘つき」と、エリスは立ち上がり、階段まで行き勢いよく駆け上ると自室に引き篭もった。
「俺だって本当は君のそばにいたいさ……」と小さく独り言を洩らす。
「旦那様、珈琲をお入れ致しました」かれは、返事をし、いつもの席でいつもより味気ない珈琲を啜った。レオンは考え始める。可能なものならば、俺だってエリスといたい。だが、階級の壁とウリエルと言う障害がある。結ばれるだなんて不可能な話なのだ。ここで匿っているのも見つかるのも時間の問題でもある。そこにポリーまでを匿ってみろ! エリスの為になるが、ウリエルが何を仕出かすかわからない。まるで、厄介払いをしているようだが、ここにいるより、誰かと結婚した方が幸せに決まっている。少なくとも、この俺なんかより結婚するよりかはだ! 何よりもあの子は美しいのだから……すぐに婚約者候補も見つかるだろう。そう考えているうちに部屋のノックが三度鳴った。
「アン! 僕が開けても良い?」
「構いませんよ、ただし、今回だけですからね」
少年は、勢いよく扉を開けると、そこには格式高いすばらしい背広に高級感漂うアルスター外套を着たラファエル卿が立っていた。
「お父さん! お久しぶり!」とイアン。
卿は膝を落とし、大粒の涙を流しながら「イアン、こうしてまた会えるとは思わなかった。元気にしていたか?」と強く抱きしめた。
「元気にしていたよ! またお父さんに会えるだなんて夢見たい。けど、また皺くちゃになっちゃったね」と抱き離して、父の深い皺に触れる。
「お前も歳を重ねると私のようになるぞ」
「お父さんみたいになるの楽しみだな」
「ところで、イアン。君の世話をしていたレオンハルトとはどの者だ?」
「私です」と前へ出た。
「君がレオンハルトか………立派になったな、ジョージによく似ている。我が息子を救ってくれたことに深く感謝する。しかも、それが、古い友の子に救われただなんて神も捨てたものではないな」
「いえ、当然のことをしたまでです。貴族の子供と知った時は驚きましたけど……」
「その際は、驚かせてしまった悪かった。ジョージとモイラは元気にしているか?」
「ラファエル卿、その件について話があります。とても大事な話です。どうか客室までお越し下さいませんか?」
卿は酷い胸騒ぎを覚えた。念願の旧友にようやく再会を果たせる思い、心を弾ませていたが、かれの表情は暗澹としている。意を決して話を伺わなければならないとすぐに感じた。
「分かった。話を伺おう」とラファエル卿。
レオンは、客室まで案内すると、二人ともソファから浅く座った。ノックの音が三度響き、コニーが入ってきた。茶器を置き、慣れない緊迫とした空気に慎重に紅茶を注ぐ。ティーポットを置き、軽く会釈をして部屋を出る。
暫く沈黙続く。先に、沈黙を破ったのはラファエル卿だった。「それで、ジョージとモイラの二人に何かあったのか?」と紅茶を啜った。
かれは、声を震わせながら答えた。「両親は去年、馬車の事故によって亡くなりました」
その瞬間から、残酷な言葉にラファエル卿はティーカップを落とした。
「ジョージとモイラが亡くなった?」
「はい、死後写真を残すことが不可能な程、無惨な姿で亡くなりました。それより、ラファエル卿お怪我はありませんか?」
茶器が割れた音にメイドのコニーが慌ててやってくる。幸い二人には、怪我はなかった。メイドは割れた茶器を箒で入念にまとめて塵取りで回収し、床を拭いた。
コニーはラファエル卿の異変に小声で尋ねる。「旦那様、ラファエル卿はどうなされたのですか?」
「俺の両親の死が受け入れられないのだと思う。念願の旧友にようやく再会を果たせると思ったら亡くなっていただなんて残酷だからな……痛い程気持ちは分かる」
しばらく放心していた卿はようやく口を開いた。「レオンハルトと言ったかね。本当にジョージとモイラは去年、事故で亡くなったのだな?」
「はい。残念ながら……」
ラファエル卿は碧い眼に涙を浮かべながら「そうか――墓参りをさせてくれないだろうか? 弔いとして花も添えたい」と言った。
「分かりました、すぐに馬車を手配します。イアン
はどうしますか?」
「連れて行くさ。あの子に『死』について教えてやらなければならない」
「そうですか――どこに向かうかは、私は黙っておきます」
「すまないね」
レオンは玄関に向かって、外へ出ると、バーニーがいる小屋まで行くと扉をノックしながら御者の名を叫んだ。だが、返事はなかった。次に馬小屋に向かうと、愛馬の手入れをしていたバーニーがいた。
御者はかれに気付き、軽口を叩いた。「よお、ご主人様。馬車を手配して欲しそうだな。エリスのお嬢様とデートか?」
「違う! 墓参りに行くのだよ。すまないが、支度を頼む」
バーニーはふた返事をして、支度を始める。
「それと、話がある。イアンの事だが、父親がやってきた――貴族で亡き両親の友だ」
御者は振り向き、驚きで見張った。「遠い遠い親戚の子供じゃないのか!?」
「今まで、嘘をついて悪かったな。あの時は、言い訳を考えるのが精一杯だった。許してくれ」
「許すも何もお前悪いことしてないしな。むしろ、エリス嬢に一刻も早く愛の言葉を囁かない方が俺としては腹立たしいな!」とバーニー。
「俺にはあの子にそんな情はない」
「本当は愛しているくせに……」と囁く。
「つべこべ言わずに、さっさと支度しろ!」と怒鳴り、屋敷に戻る。
屋敷の中では、イアンがどこか落ち着かない様子でいた。かれは、少年に尋ねる。「一体、どうした?」
「お父さんの様子がおかしいんだ。今にでも泣き出しそうな顔をしながら、アンと一緒に秋薔薇を選んでいたんだ。それに、お友達のお墓参りにも行くって言ってたし、どうして僕まで一緒に着いていかなければならないの?」
「それは、行けば理由が分かるさ」
「そうだと、良いけど……勉強の為っていっていたけど、僕まで行く必要あるのかな?」
「それは、ラファエル卿が教えてくれるさ。あの人は、聡明な人なのだから」
「イアン、待たせて悪かったな」とラファエル卿。
「平気だよ。お父さん、どうして赤い二輪の薔薇を持っているの?」
「亡くなったジョージとモイラへの弔いの花だよ。二人が好きな花だったからどうしても添えてあげたくてな」
「亡くなったのに二人は喜ぶの?」
「……きっと」寂しそうな微笑を泛かべてイアンに答えた。
メイドのベティが「皆さん、お忘れ物はありませんか?」と言った。
三人は頷き、レオン扉を開け、馬車へと向かった。三人の後ろ姿を見届けるように三人のメイドは深々とお辞儀をして「行ってらっしゃいませ」と見届けた。
ラファエル卿はバーニーに軽く挨拶をし終えると、レオン、イアン、卿の順番で乗った。御者に行き先を伝えると、手綱を引き、目的地である父ジョージと母モイラが眠る墓場まで向かった。その間、一切の会話はなく、彼と卿の表情はどこか暗く虚ろだった。イアンは、二人に会話を切り出そうにも上手く切り出せず、バーニーに尋ねた。
「ねえ! バーニー、これからお墓参り行くけど、墓地ってどんなところなの?」
「静かで暗くてどこかの誰かさんのような陰気臭いところだぞ。場所によっては、呪われた幽霊や人に悪さする亡霊だの出てくる場所もあるそうだが、これから行くところはそんなのいないから安心しろ、坊ちゃん!」
「幽霊なんているの?」
「レオンハルトと言う陰気臭い幽霊がいるじゃないか」
ラファエル卿が初めて口を開く、「バーニー、程々にしなさい。ロンドン塔でアン・ブーリンの幽霊が現れる噂が流れるほどだ」
「やっぱり幽霊っているんだね」
「噂と幽霊くらいしか娯楽がない国だ、実に退屈だよ」とレオン。
「そんなこと言ってこの国が好きなくせにな」とイアンが言うと「イアン。勘違いするな、俺が好きなのはこの田舎町だ」
「ほらほら、討論するなら家でやれ。死者が眠ってるところにもうすぐ着いたぞ」
二人は黙り、ラファエル卿、レオン、イアンの順で降りると「バーニーは邪魔にならないところで待っていてくれ」と言うと、御者は速やかに移動した。墓地の柵を開けて、中に入ると異質な静けさとどこか寂しさに包まれていた。イアンは初めて訪れる墓地にここは死者が静かに眠る場所だと周囲を見渡しながら二人の後を追う。レオンはピタリと足を止め、ここだと目で卿に訴えた。かれは二人に黙祷を捧げ始める。ラファエル卿は二人が眠る墓石を見てようやく現実を受け入れた。愛すべき友はもうこの世にはいない。そして、残酷な再会に今にでも涙を流しそうだった。レオンの黙祷が終えるまで友が眠る墓石を眺めた。そして、かれが黙祷を終えるとまるでその場から立ち去るかのように出入口まで向かった。ラファエル卿は二人に一輪ずつの赤い薔薇を添えると、その場で泣き崩れた。涙が枯れるまで泣き続けたら。間も無くして、イアンがこう尋ねた。
「親しい人が亡くなるとどれくらい悲しいの?」
ラファエル卿は涙を拭いながら言った。
「心が壊れ、いつ元に戻るか分からないほどだよ。イアン、友は大切にしなさい。私は友と十六年ほど疎遠になり、ようやく再会を果たすと思ったが、皮肉にもこのような形で再会してしまった。決して私のようになるのではないぞ――亡くなってしまっては、もう二度と会えない、もう二度と喋れない、そして、もう二度と共に笑い合うことができないのだ」
「そんなの嫌だ!」ラファエル卿は無情にもこう言った。「イアン、死とはいつ訪れるか分からないものなのだよ。今日まで元気だったレオンハルトだって明日には死んでいるかもしれない。それほど、死とは身近にあるものだよ――死とは永遠の眠りであり、別れでもある。だから、共に過ごせるうちの時間は後悔のないよう大切にしなさい。時間は戻らないんだから……」
イアンはしばらく考えてから力強く頷いた。
「正直、お前があの時いなくなった時、もう二度と会えないと思ったよ」
「ごめんなさい」イアンは苦虫を噛んだかのように誤った。
「イアンが無事ならそれで良いんだ。それより、ジョージとモイラも喜んでいるであろう。こうして大きくなったお前の姿を見せることが出来たのだからな」
「会ったことないけど喜んでくれていたらいいな」
「そろそろ行こう。レオンハルトを待たせているだろう」
二人はジョージとモイラの墓石が見えなくなるまで見届けてレオンの元へ戻った。
「伝えられたいことは伝えることは出来ましたか?」
「ああ、」




