終わりゆく日常
まぶしい光に瞼を揺さぶられ、俺はゆっくりと目を開けた。
窓の隙間から差し込む朝陽が、宿の簡素な部屋を金色に染めている。
昨日までの旅路の疲労は完全には抜けきっていないが、それでも身体の重さは幾分か軽くなっていた。
深く息を吸い込むと、窓の外からは街のざわめきが響いてくる。行商人の声、子供たちの笑い声、馬車の車輪の音──活気に満ちた日常の音だ。
「……今日から、また歩き出すんだな」
そう呟きながら身を起こす。
顔を洗い、簡単に身支度を整えると、俺は宿を出て街の大通りへ足を運んだ。
朝の光に照らされた石畳は白く輝き、行き交う人々の笑顔がそこかしこに溢れている。
露店では香ばしいパンの匂いが漂い、近くの広場では吟遊詩人が竪琴を奏でていた。
俺は無意識に足を止め、その光景を眺める。
魔王との戦いを終えたはずの世界。そのはずなのに、胸の奥には不安が燻り続けている。
「……せめて、この景色だけは守りたいもんだな」
思わず独り言が漏れた。
***
広場を抜けて裏通りに入ったときだった。人通りの多い大通りとは違い、薄暗い路地には澱んだ空気が漂っている。
「……そろそろ出てきたらどうだ?」
足を止め、気配のする方へ視線を向けずに声を放つ。
影が揺れ、低い笑い声と共に三人の男が姿を現した。
「ケッ、気づいてやがったか。勘のいい奴は嫌いじゃねぇぜ」
リーダー格の男が、錆びた短剣を弄びながら前に出る。
「何の用だ? 残念ながら、ただの散歩でな。金目のものは持ち合わせがない」
「嘘つけよ。その上等な服が何よりの証拠だ。なぁ、兄ちゃん。揉め事はごめんだ。有り金ぜんぶ、そこに置いてってくれりゃあ、見逃してやるよ」
「忠告しておく。やめておけ。お前たちじゃ、俺からは何も奪えない」
俺の静かな言葉に、男の表情から笑みが消えた。
「……ああ? 舐めてんのか、てめぇ」
「事実を言ったまでだ。命が惜しければ、今すぐ消えろ」
「はっ、威勢のいいことだな! 後悔させてやるよ! やれ!」
男の号令と共に、三人が同時に襲い掛かってきた。
だが、その動きはあまりにも遅い。
俺は踏み込んできた男たちの攻撃を最小限の動きで捌き、的確に急所を打って、次々と意識を刈り取っていく。
一瞬の後、その場に立っているのは俺一人。リーダー格の男は、仲間が崩れ落ちる様を、信じられないといった表情で見つめていた。
「ひっ……な、何なんだよ、お前……!」
恐怖に顔を引きつらせ、男は後ずさる。だが、その背中はすぐに路地の壁に行き当たった。
絶望的な実力差。戦意は完全に砕かれている。
だが――男は震える手で懐を探り、小さな小瓶を取り出した。
「こうなったら……これを使っちまえば……!」
男は小瓶の中身――赤黒い液体を、覚悟を決めたように一気に呷った。
「――グ、アアアァァァッ!!」
絶叫と共に、男の身体が異様に膨張し始める。筋繊維が服を突き破って盛り上
がり、血管がミミズ腫れのように全身に浮かび上がった。瞳孔は開ききり、理性の光はどこにもない。口からは涎が垂れ、獣のような呻き声が漏れていた。
「……薬物か。それも、かなり悪質な」
さっきまでの恐怖は消え失せ、男はただ破壊衝動のままに俺を睨みつけている。
ドンッ!と、男が路地の石畳を蹴った。
さっきとは比べ物にならない速度とパワー。振り下ろされた拳が、俺が寸前で
避けた地面を砕き、破片を撒き散らした。
休む間もなく繰り出される猛攻を、俺は冷静に見切り、捌いていく。
「面倒だな……!」
俺は男の攻撃の合間を縫って懐に潜り込み、その腹部に掌底を叩き込む。衝撃で動きが止まった一瞬、首筋の急所に的確に指を打ち込んだ。
「……ぐっ……」
ピタリ、と獣の動きが止まる。
膨れ上がった筋肉は急速に萎み、男は白目を剥いてその場に崩れ落ちた。
「……ふう」
気絶した男のそばに、空になった小瓶が転がっている。
俺はそれを拾い上げた。ガラス越しに、微かに不穏な魔力が渦巻いているのが分かる。
「ただの薬じゃないな……。これは、あいつに見せた方がいい」
俺は小瓶を懐にしまうと、衛兵に知らせるのも忘れ、すぐさま目的地へと足を向けた。
***
再び、《シューネル魔術研究所》の門をくぐる。
研究室の扉を開けると、シューネルは山積みの資料を相手に、うんざりした顔でペンを走らせていた。
「……あら、何の用? 出発は明日だって言ったはずだけど」
「急ぎの相談だ。これを見てくれ」
俺は懐から小瓶を取り出し、彼女の机に置いた。
シューネルは訝しげにそれを手に取り、眉をひそめる。
「……何、これ。空っぽじゃない」
「さっき、街のチンピラがこれを使って化け物みたいになった。中身は赤黒い液体だった」
俺の言葉に、シューネルの目の色が変わった。彼女は小瓶を光にかざし、指で慎重に表面をなぞる。
「……まさか。『ブースト』……? 北の戦場で出回ってるって噂の、魂を削る代物よ。もう王都にまで流れてきてるなんて……!」
彼女はすぐさま立ち上がり、何かの装置の前に座る。
「……これは、ただ事じゃないわね。ただの錬金術じゃない。微かに、あの遺物と同じ種類の魔力を感じる……!」
解析を始めたシューネルの横顔は、研究者そのものだった。
魔王の「歪み」は、人々の心を蝕むだけじゃない。
こうした薬物の形で、世界に広まろうとしているのか。
「悪いけど、解析に少し時間がかかるわ。出発は、明日の朝にしましょう」
「分かった。結果が出たら教えてくれ」
「ええ。……イアス」
部屋を出ようとした俺を、シューネルが呼び止めた。
「……あんたも、ちゃんと休みなさいよ。これから先は、もっと過酷な旅になるんだから」
「ああ。分かってる」
ぶっきらぼうな優しさに苦笑し、俺は研究所を後にした。
宿に戻る道すがら、俺はもう一度、街の景色を目に焼き付ける。
明日からは、この平和な日常から遠く離れることになる。
だが、この景色を守るためなら、どんな道だって進んでみせる。
決意を新たに、俺は宿の扉を開いた。
今年中に終わるはずだったんだけどなぁぁぁぁああああ




