第一章 夜明け前の静寂②
授業が終わると、ユウナはすぐに席を立った。
「ユウナ、どこに行くの?」
一緒に帰ろうとしていたのか、エマが不思議そうに見上げた。
「ごめん、今日図書館に寄って帰りたくて」
「そっか。じゃあ、また後でね」
エマは明るく微笑んで教室を出ていった。最近、エマとはこうして別行動を取る場面が増えていた。
それはユウナだけではなく、エマ自身も学園側に呼ばれる機会が多くなったせいでもある。特待生としての立場のせいなのか、それとも、最近判明したSランクの血液のせいなのかは分からない。
どちらにせよ、何かが変わり始めていた。
周囲の生徒たちは雑談しながら教室を出ていくが、ユウナは迷わず図書館へ向かった。
レイに呼ばれた理由は分かっている。
血液検査の結果――今回もDランクだったことだろうか。確かに珍しい事例かもしれないが、ユウナ自身にも理由は分からず、これ以上話すこともない気がしていた。
図書館のゲートをくぐると、生体認証のシステムが作動した。ここには貴重な文献も多く、部外者は立ち入ることができない。
館内に入ると、ひんやりとした静寂が広がる。まるで、この場所だけ時間が止まっているようだった。ユウナは視線を巡らせ、図書館の奥へと歩いた。目的地は、最奥にある特別研究室。
そこは、一定のランク以上の生徒や研究目的の者だけが使える部屋だった。部屋の横にある認証装置に学生証をかざす。レイが事前に登録してくれたおかげで、ここを通ることができた。生体認証だけでは入れない、特別な空間だ。それだけ、この場所が重要であることを示している。
扉が開くと、すでにレイは待っていた。デスクの上には、何冊もの専門書が広げられ、タブレットにも様々な情報が表示されていた。それらのほとんどが、血液学・遺伝学・歴史に関するものだった。
「わざわざ呼び出して、すまなかった」
レイは視線を上げずに言った。いくつかの書籍を順番に調べているようだった。
「はい……でもなぜ?」
ユウナが彼の向かいの席に着くと、レイは初めて顔を上げた。
「メッセージアプリは、監視されているからな。あれ以上のことは話せなかった」
「え……?」
ユウナは、監視という言葉に背筋が凍る。それは、学園が行っているのだろうか。レイは、何でもないことのように続ける。
「聞きたいことがいくつかある。まず、なぜ君はずっとDランクのままなのか」
レイはタブレットの画面を指でスクロールしながら言った。
「過去の資料も見たが、少なくとも学園に入ってからは、ずっとDランクだ」
「それは……他の検査もして、どこも具合が悪くないので……体質だと思います」
ユウナは、戸惑いながら答えた。レイは興味深げに目を細め、軽く頷いた。それ以上の感情は見えない。
「では、別の質問をしよう。君の両親も、同じような体質なのか?」
ユウナは少し答えに迷ったが、素直に事実を伝えた。
「母は私を産んですぐに亡くなりました。父のことも聞いたことがありません。私は祖母に育てられましたので、体質が遺伝なのかどうかも分からなくて」
「……なるほど」
レイは、考え込むように目を伏せた。長い睫毛が頬に影を落とし、薄暗い室内で肌がより透明感を増して見えた。
ユウナは、エマのことを話すべきか迷っていた。しかし、それを勝手に話すわけにはいかない。ましてや、吸血族に伝えたらどんな結果を生むのか、それが分からない以上、レイをどこまで信用すべきか判断できなかった。
だが、そのことを先に口にしたのはレイの方だった。
「君の友人のエマ・フォスターは、BランクからSランクに上がったようだね」
「……どうして、それを?」
思わず息を呑む。学園側とエマしか知らないはずのことが、すでに吸血族には伝わっている。
「まあ、吸血族と学園には独自のルートがあるからな。ちょっとした騒ぎになっているようだ」
レイは淡々と告げた。
「そんなに、Sランクは珍しいの?」
「確かに貴重だ。しかもSランクでいられる期間は短い。
だから、どうにかして手に入れようとする者はいるだろうな」
レイは指先でタブレットを軽く弾いた。
「ただ、何か引っかかる」
「何が?」
「それまでBランクだった血液が、たった一度の検査でSランクになる。そんなこと、今まであったか?」
「それは……よく分かりません」
そもそも、Sランクの生徒がいるなんて聞いたことがなかったので、ユウナは判断しかねた。
「まあ、その件に関しては、さほど興味がない」
「え?」
「人工血液ユニットがあれば、それだけで事足りる。僕はどんなランクでも構わない」
レイの言葉はあまりに淡々としていた。ユウナは何か言い返そうとしたが、結局言葉は出なかった。
人工血液ユニット――ブラドールとは、吸血族が開発した人工血液カプセル であり、彼らの主な生命維持手段である。その原料は人族の血液だが、精製せずにそのまま口にすると、死に至る毒となる。
だから人族から提供された血液を精製し、ランクに分けられる。ブラドールは、ランクにより高額になり、やはりランクによりその効果は歴然としている。日々の活力や、美しい肌や髪の維持、種族独自の能力も底上げする。
同じく狼族にとっても、ブラドールは『暴走』を抑えるためや、その力をブーストするのにも不可欠だった。しかしブラドールの精製技術は、吸血族が独占しているため、Bランク以下のものしか提供されず、これが種族間の不均衡を生んでいるとも聞いている。
「ただ、君の血液には興味がある。今後も協力を頼む」
「……私がなぜあなたに?」
すると初めて、レイが薄く笑みを浮かべた。
「そうだな、いずれ分かる時が来るはずだ」
レイはそれ以上引き止めることなく、再び本に視線を落とした。
ユウナは特別研究室の扉を開け、外へ出る。なにもかもが分からないままで、レイの目的も全く見えない。もやもやした気持ちで館内の本棚を眺めていたら、見慣れた姿を見つけた。
「ユウナ!」
ヴァルトだった。
「こんなところで何してたんだ?」
「ちょっと……調べものしてた」
曖昧に答えながら、ユウナは歩き出す。しかし、ヴァルトの視線が彼女の後ろを捉え、鋭く睨みつけた。
「――おい、そいつ」
振り向くと、特別研究室の扉を開けてレイが出てきたところだった。それに、ヴァルトの表情が険しくなる。
「ユウナに近づいて、何が目的だ?」
ユウナが先ほどまで一緒にいたということをヴァルトは知っていたのだろうか。そして彼はレイに詰め寄った。
「目的? 君たちには関係ない」
レイは微動だにせず、静かにヴァルトを見上げる。
「ふざけるな」
ヴァルトが強く拳を握るのが見えた。こんなところで、彼が問題を起こすとは思えないが、ユウナは息を呑んでふたりのやりとりを見守るしかなかった。図書館内の生徒たちも固唾を飲んで、しんと静まり返る。
「吸血族が何を考えてるか知らないが、ユウナを巻き込むな」
「巻き込んでいるつもりはない。僕が興味があるのは――ユウナの血液だけだ」
ヴァルトの表情がさらに険しくなる。
「……なんだと?」
「純粋な研究対象としてね。彼女の血液は、僕にとって特異なサンプルだ」
レイは淡々と言い放った。感情の一切が読み取れない。
ヴァルトの手がレイの肩をつかもうとするのを、ユウナが慌てて制した。
「やめて、ヴァルト!」
ヴァルトはハッとして、ユウナの声に従い、腕を下ろした。
「それと」
レイは、ヴァルトを正面から見つめて言った。
「ヴァルト・アイゼン――君にも興味がある」
レイの口から自分の名前が出た瞬間、ヴァルトは一瞬固まった。
「俺の名前を知っているのか?」
「当然だろう? 君の名前は、誰でも知っている」
その言葉にヴァルトは、わずかに眉をひそめた。
「君はただの狼族ではない。いずれ、重要な存在になる」
「何の話だ?」
「さて……」
レイはそのまま踵を返し、図書館の奥へと消えていった。ヴァルトは、背中を見送ったまま、険しい表情で立ち尽くしていた。
「……吸血族のくせに、変なやつだ」
ヴァルトは唸るように低く呟いた。