プロローグ
鮮血に染まったような満月が、ぽかりと口を開けた暗い空に浮き上がる。それに呼応するかのように、獣のうなり声が響き、枝葉がざわめいた。また、濃い血液の錆びたような臭いが辺りを満たしている。
地面には倒れた『かつて人だったもの』の残骸が飛び散っていた。深い爪痕が刻まれた肉体は微動だにしない。
そこからやや離れた場所では、狼族の青年が苦しげに肩で息をしていた。彼の体は異様に震え、目は赤く充血している。致死量の『毒』を口にした彼は、助けを求めるかのように宙に指先を伸ばしたが、虚しく空を切るだけだった。そしてそのまま、凍てつく夜の闇へ静かに飲み込まれていった。
「また、起こったみたいだね。ユウナも本当に気をつけなよ」
朝の身支度を整えながら、エマ・フォスターは不安げな声で言った。テレビから連日流れてくる例の事件のことだろう。
「なんで? 私は夜に出歩いたりしないから大丈夫だよ」
神崎ユウナは気づかないふりをして、彼女に背を向けて鏡の前で制服のリボンを結んだ。鏡越しでも視線を感じて、気まずさに思わず目を逸らしてしまった。
「そうじゃなくて……いろいろさ」
エマの言いたいことは分かっている。やさしさから言葉を選んでくれていることも。
「ヴァルトはそういうんじゃないから」
『そういう』という言葉には、いろいろな意味を含んでいる。ヴァルト・アイゼンは狼族だということ。この事件の容疑者は全て同じ種族だと言われていること。それに、ユウナとヴァルトは幼馴染として仲が良く、付き合っているのではないかと誤解されていること。
そもそも種族間の恋愛は、明確に禁止されているわけではないが難しい。様々な困難や障害があり過ぎるのだ。
「今日、音楽の授業は合同だって」
この暗くなった空気を変えるように、エマは切り出した。さっきまでとは違って、彼女の声は弾んでいた。
「アルヴィス様の近くだったらいいなあ」
「アルヴィス様……かあ」
ユウナにはその魅力がよく分からなかった。吸血族は美しい銀色の髪と、透けるような白い肌と、神秘的な赤い瞳という外見に加えて文武に長けていることもあり、人族である女子たちからの人気も高い。特に吸血族のリーダー格となっているアルヴィスは、全てにおいて際立つ存在だった。長い銀髪や、人形のように整った容姿や、圧倒的な存在感は、学園全体を見渡しても超える存在はいない。
しかし、吸血族は基本的に男女共に才色兼備なためか、その分プライドが高く、いつも高圧的な態度で他の種族をどこか見下しているような雰囲気がある。
ユウナたちの通っているセレスティア学園の主な目的は、異種族間交流と共に、お互いの理解を深めることになっている。それなのに、自然と種族ごとのグループに分かれ、見えない壁があるようだった。そんな種族間の隔たりが寂しくも思えた。
「ねえ、髪いつもみたいに編んで」
ゆるやかなウェーブのかかったエマの髪は、ブラウンに近い。柔らかくてアンゴラのように手触りがよく、愛らしい外見の彼女にはよく似合う。
「いいよ、待ってね」
ユウナはエマの髪をゆるく編み始めた。おくれ毛さえも魅力的に見えるように。ユウナの真っ直ぐで深い黒髪とは正反対だし、性格もまるで違う。エマはこの学園に入学したころから寮のルームメイトだった。無邪気で明るい彼女には救われることも多い。
――もしかしたらエマだったら、アルヴィス様に選ばれるかも?
そんなことをつい考えて、言葉を飲み込んだ。
直接危害を加えられることは、今でこそなくなったけれど、吸血族や狼族にとって、本来ユウナやエマのような人族は『捕食される者』だ。少しでもその均衡が崩れると、最近起こっているような事件にも、繋がりかねなかった。
「あ、こんな時間! エマ、早く行こう!」
「ほんと? ちょっと待って」
鏡に向かって薄くリップを引くと、エマはユウナの腕を掴んで、慌てて部屋を飛び出した。
教室の正面に大きなスクリーンが映し出され、惑星が行儀よく並ぶ様子が、仮想の夜空に立体的に浮かび上がった。それはユウナが好きな授業のひとつのはずだったが、どうしても今日だけは集中できない。事件のことで頭がいっぱいで、手元のタブレットさえも開けないままだった。
ヴァルトは一連の事件をどう思っているのだろうか。同じ狼族だからこそ、何か感じることがあるはずだ。
さっきまで教室でも、その話題でもちきりだった。
「あの狼族の事件、どう考えても『暴走』だよな」
「だってほら、満月の夜ばかりだし」
「ほんと怖くて、狼族と関わるのもイヤ」
ユウナはそんな生徒たちの会話を聞きながら、胸がざわめいた。ターゲットは、すべて人族なので、皆が怯えるのも無理はない。けれども、すべての狼族が悪いわけではない。なにより、ヴァルトのことは幼い頃からよく知っているし、誰よりも信じている。とても正義感が強くて、誰かが困っていれば、種族問わず力を貸してあげていた。それだけに周りの信頼も厚いことも知っている。
しかし狼族は吸血族とは対象的で、茶色がかった金髪に彫りの深い顔だち、浅黒い肌にたくましい体躯、そのすべてが別の意味で圧倒される。
高い身体能力を持つ彼らは、人族にとって畏怖の対象でもあり、吸血族とは違う近寄りがたさを感じさせていた。
授業が終わった後、ユウナはトレーニングルームへ向かった。そこは狼族の生徒たちが中心となって日々鍛錬を重ねていた。学園の生徒たちなら誰でも使用できる設備だが、放課後は特に狼族を恐れて人族の生徒たちは自然と近寄らなくなった。
あの力強い肉体はトレーニングを続けることで、自らの力をコントロールし、『暴走』する危険性を少しでも防止する目的もあるようだ。
狼という名が示す通り、どんなに文明が発達しても獣のような本能はまだ彼らに潜んでいる。特に月の満ち欠けが非常に影響すると言われており、先日の事件のように満月の夜が、もっとも彼らの人格を揺るがす可能性もある。
「ヴァルト、いる?」
ユウナはトレーニングルームを覗いてみた。リーダー格のヴァルトと親しいこともあり、特に狼族を恐れたりはしなかった。
「やあ、ユウナ。久しぶりだね。ヴァルトなら、もう少ししたら来るんじゃないかな」
トレーニングマシンを使っていたカイルは、彼女を見つけると汗をタオルで拭いながら、近寄ってきた。彼は狼族にしては少々異色な存在で、やや細身で柔らかな金髪。甘いルックスや穏やかな雰囲気も相まって、密かに人族や吸血族の女子からも人気があると聞いている。
「ヴァルトに聞きたいことがあって」
「へえ、なんだろう? それは気になるな。ヴァルトが来るまで代わりに俺と話さない?」
カイルは意味ありげな笑みを作った。するとそこに割り込むように、
「カイル! またユウナを困らせてるでしょ?」
少し離れたトレーニング器具の向こう側からミカの声が響いた。ミカは狼族の女性で、大きな瞳にショートカットで、鍛えた身体は、トレーニングウェア姿さえも様になっている。
「ああ、ごめんごめん、困らせるつもりはなかったんだ」
カイルは微笑みを絶やさない。
「カイルはいつもこんな調子だから、ユウナ、気にしないでね」
「うん、ありがとうミカ」
彼女はいつも優しくて、人族のユウナにも自然に接してくれる。
「でも、ヴァルトの友人としてユウナに興味があるのは本当だよ?」
カイルは珍しいオモチャを見つけたかのように、悪戯な瞳を向けた。
「わ、私に? そんなに人族が珍しいですか?」
「そりゃあね、ここまで堂々と俺たちのところに入ってくる人族は貴重だよ」
カイルにどこまでからかわれているのか、よく分からなくてユウナは戸惑っていた。
「ユウナ、どうした?」
背後から聞き慣れた声がして、振り返る。ヴァルトは、精悍な顔立ちと赤毛が特徴的で、カイルと並ぶととても対照的だった。
「おっと、残念。ユウナ、またね」
カイルが悪びれた様子もなく、背を向けた。それにヴァルトは、少し睨みつけた。
「最近の事件のことが気になって。ヴァルトたちも変に誤解受けてないかなって心配で」
素直に思っていることを告げると、彼は少し考えて口を開いた。
「俺たちに直接そんなことを言える勇気のある人族は、いないからな」
ヴァルトは、人族たちが狼族を恐れて影で悪く言っていることが分かっているようだった。そして、自嘲的に笑いながら続けた。
「でも実際、狼族の被害も出ている。人族の毒にやられただけだとは思えない」
彼の言葉に、ユウナの胸がざわついた。人族の血液が狼族や吸血族にとって死に至らしめる猛毒であることを知らない者はいない。それは、遥か昔に人族が自らを守るために進化した結果だとされている。事実だとしても、自分たちの存在そのものが他の種族を傷つける『毒』であると考えるだけで、気持ちが沈んだ。
「どうして……こんなことが続くのかな」
ユウナが小さく呟くと、ヴァルトは肩をすくめた。
「さあな。でも、何もせずにはいられないだろ? 俺の周りだけでも調べてみようと思っている」
ヴァルトの低い声には、どこか覚悟を決めているかのようだった。
「くれぐれも無茶しないでね。絶対、約束して」
「……ああ」
そんなユウナの願いが、彼の心に響いたかどうかは分からなかった。
すっかり暗くなってしまった学園内をユウナは足早に歩いて寮へと向かっていた。ヴァルトには遅くなったから寮まで送っていくと言われたが、近くだから問題ないとやんわり断った。実際大きな樹々の影で暗くなった夜道は、少し怖くてヴァルトの申し出を断ったことを後悔していた。
「君が――神崎ユウナ?」
いきなり背後から声をかけられて、思わず飛び上がる。
「は、はい、そうですが……あなたは?」
雲間から月光が差し込んで、彼の赤い瞳と銀髪が揺れた。その姿を見てすぐに吸血族と分かった。制服を着ているから同じセレスティア学園の生徒だということも。ただ、他の吸血族とは違って、髪が襟足で短く切られているし、前髪も目にかかるぐらい無造作に伸びている。なにより、自分たちの容姿を美しく保つことに拘っている吸血族とは思えなかった。
「僕はレイ・ハウレット。吸血族だけど、あいつらが好む社交とか世間話とか、そういったものには興味がない。それよりも、古代の記録や遺物を研究しているほうが、よほど価値がある」
淡々と語るレイに、ユウナは圧倒されたが、ふと彼のことを思い出した。そういえば同じ授業を受けたことあった。レイは、吸血族の中に混ざっても、いつも本を読んでいて、目立つ存在ではなかった。しかし、レイはその時のユウナのことを覚えていないようだった。
「最近連続して起こっている殺人事件のことも、非常に興味を持っていて、真実が知りたいと思っている。それに――」
沈黙の後、レイはようやく顔を上げた。その赤い瞳がユウナをじっと見つめる。
「君には興味がある」
「えっ?」
突然の言葉に、ユウナは驚いて目を見開いた。
「君は……他の人族とは少し違う。それが何なのかはまだ分からないけれど、調べてみる価値がありそうだ」
その無機質な言葉の裏に、別の感情が隠れているような気がする。初めて話したばかりだと言うのに、不思議と彼の言葉は信じられるように思えた。