第九話
先生の住むマンションの周辺はレストラン、カフェ、ベーカリー、それにブティックなどが欅並木の両側にずらりと並んでいて、どれもが小奇麗な外観の、おしゃれな店構えだった。
中でもヨーロッパの小さなコテージを模したような太い木の窓枠がついたベーカリーが私の目を惹いた。 陳列ケースが表に向かって置かれ、その中にお行儀よく並んいる黒すぐりや、ラズベリーなど、果実をふんだんに載せ、艶を出したタルトレットは目に鮮やかだった。
「先生、私ケーキを買っていくね、先に行って待ってて」
お店の中に一足踏み込んだだけで甘いバニラと生クリームの香りが私の鼻をくすぐる。
『先生は何が好きだろう』 大小様々で、色とりどりのケーキの中から、私はクリームがどっさり乗ったフレンチシルクパイを選んだ。
マンションのエントランスに続く階段を数段上がり、中に入るとそこは外観以上に凝った造りだった。薄い赤茶色と白の大理石の床はピカピカに磨き上げられ、穏やかな波に似た模様を浮き出させた渋い菊塵色の塗の壁に、縦長の天井まで届くほどの窓が幾つもはめこまれている。
そのロビーの中央に、上品な細工を施したシャンデリアの灯りで、葡萄色の艶やかなブロケードを張った猫足の椅子やソファがしっとりと調和していた。
『ほんとにここに早坂先生が住んでるの?』
私はお菓子の箱を抱えて、このロビー全体を見回した。
駅前の本屋で先生にもらった紙に書かれた部屋番号の前に着き、私はドアのベルを押すと、インターホンから早坂先生が返事をした。
縁取りのあるがっしりとした玄関のドアが開いて、先生が顔を出した。
「いらっしゃい、入って」
靴を脱ぎ、先生の案内で居間に通された。
私は驚いた。
目の前にはガーンと広がるリビング/ダイニング・ルームがあり、そこに置いてある家具、調度品のすべてが重みのあるスペイン風で統一されてる。
高校の非常勤講師と美術研究所のバイトを掛け持ちしたって買えるようなしつらえではないと思う。(って私の推測だけど、これは絶対当たってる)
先生って一体何者?
私は先生の住む“マンション”とは アパートよりちょっと格が上くらいのものを想像していたので、このギャップを埋めるのにかなり時間がかかった。
先生は居間からマーブルのカウンターで仕切られているキッチンに回って冷蔵庫を開けた。
「座んなよ。のど渇いただろう、なんか飲む?」
座んなよって、先生、このデカいソファのどこに座ってもいいわけ?
そのソファなるものは私が普段寝ているベットの4倍くらいの大きさでがっしりした木彫りのフレームで囲まれ、そのカーブのついた凹みの前に、丸く厚みのある足のせ台があった。
私はソファに座り、先生が持ってきてくれたコーラを一気に半分くらい飲んだ。
清涼飲料水の泡が喉を刺激し、その喉を収縮するような感じが引くと先生の方を向いた。
「先生って凄い所に住んでるんですね」
つい、信じらんな~い、みたいな口調で言ってしまった。
「ここは兄貴の家でオレは借りてるって言うか、ハウス・シッターなんだ」
私が勘違いしたのを可笑しそうに言った。
「な~んだ、びっくりしてソンしちゃった」 早坂先生が分不相応のお家に住んでいる裏にはもっと謎めいたものがあってもよかった。
「黙ってればよかったかな? そしたら来週あたりオレのよからぬ噂が学校で流れてるね。『早坂先生の実体は麻薬密売人か?』とかさ 好きだよな、皆そういうの」
「そんな、言いませんよ。そしたらバレちゃうでしょ、私がここに来た事?」
「あ、そうか、津田さんシャープだね。そういえばさっきも本屋からここまで来るのになんか私立探偵みたいだったよ」
先生がにこにこしながら言った。
「私もそう思った。そしたらこのマンションに来て、ほんとに怪しいじゃないですか。でもよかった、お兄さんのお家なんだあ」
「オレの兄貴さ、海外に駐在でほとんど帰ってこないから代わりに住んでてくれって頼まれてるんだ。 そういえば体は大丈夫なの? ずいぶん歩かしちゃったね」
「もうすっかり元気です。 文化祭の後片付け休んじゃったから皆に迷惑かけちゃったけど」
「なに買ってきたの?」先生がケーキの箱を指差した。
「フレンチシルクパイ、好きですか?」
「どんなのか見てみないとわかんない」 そう言いながら先生はもう箱開けてる。
「おいしそうだね、ねえ、津田さんご飯食べた?」
「寝坊しちゃったからまだです。先生は?」
「寝坊かあ、それで遅れたんだ。ああ、オレ? うん、なんか食べようか」
先生はそう言うとすっくと立ち上がって電話の置いてあるカウンターに行き、レストランのメニューを持ってきた。
「本当はどっか連れて行ってあげたいけど、万が一知ってる人に見られるってこともあるからここで我慢して」 先生がちょっとすまなそうに言った。
「気にしないで下さい。私そんな事はいいの。 それより今日、こうして先生に逢えたことのほうがうれしいから」
「ほんと?」 先生の眼が嬉しそうに輝いた。
こんな素敵なお部屋で先生と一緒にいられるなんて、いいえ、仮に先生のお家がこれ程豪華でなくったって私は一向に構わないのに。
私はそれなりに落ち着きを取り戻して部屋の中を眺めた。
居間の壁には先生の作品と思われる幾つかの油彩画が飾られていた。
これらの絵はみんな額に入っていて不思議とこのゴージャスな居間に調和してた。
その一つは殆ど無彩色、無機質なビルが林立するのを背景にして星が一つ輝き、生命感に溢れる赤ん坊が今にも目を醒まさんばかりの表情で小さな箱に寝かされている。
私はその一枚の絵に引き寄せられた。
出前のピザを食べながら私は先生にその絵について聞いた。
「随分前だけど、オレの兄貴にキリストの降誕にちなんだ絵を描いてくれって頼まれたんだ」 先生はソファの後ろに掛かっているその絵を振り返りながら言った。
「ふーん、でもキリストは貧しい馬小屋で産まれたんですよね?」
僅かながらもクリスマスのお話くらいは私も知っていた。
「うん」 先生はピザを口一杯に頬張ったためか、口を結んだままそれだけ言うのがやっとだ。
「ちょっと変じゃないかなぁ、っていうか先生、この絵は聖書に書かれてる通りの描写ではないですよね」先生の向かい側に座った私は上目遣いで絵を見て言った。
「確かにネ、オレが描いたのは現代に生きている『キリスト』っていうか、そんな意味を込めて描いたんだ」 先生の目が真剣になった。
「現代に生きる?わかんないなぁ、だってキリストは二千年も昔の人でしょ?」
「キリストというのは救世主という意味だけど、これはわかる?」
「この世の人々を救うって意味ですか?」
「そうだよ。 津田さんよく知ってるね」
「私、小さい時キリスト教の保育園に通っていて、そこに来る牧師さんからいろんな聖書のお話を聞いたんです」
「そうだったの」 先生が何故か嬉しそうに私を見た。
「じゃあ下手なもん描けないなぁ」先生はちょっと照れたように言った。
「だけどそんな昔に聞いたこと、よくは憶えてないですよ」
「保育園のときじゃ、無理ないよ。 ねぇ、ユダヤの人達はね、長い間、それこそ何百年という間、他の国の支配を受けて奴隷として労役についてたんだよ。
このこと、聞いたことある?」 先生が軽く首を傾げて私を見た。
「うん、なんとなくそんなことを聞いたような気がするけど」遠い国の遠い昔の話だ、それほどピンとはこない。
「その何百年も奴隷であったということ、つまり、なん世代もの間、彼等は眼で見ることのできない重い鎖に繋がれていたってことだよ」
先生が言おうとしていることが掴みかねた。 この絵の赤ん坊のキリストと、今先生が話しているユダヤ人の長い奴隷の歴史とがどういうふうにつながるんだろう。
「それがさ、もしかすると現代に生きる人々と共通しているんじゃないかと思うんだ。 奴隷としての無報酬の労役と、ちゃんと給料をもらって労働しているっていうことは違うけれど、それ以外に今の人達が何かの奴隷になっている、しかもその状態があまりに長く続いているので、そのこと自体に気がつかないってことがあるんじゃないかな?」
ここまで聞いて私の頭は少し混乱してきた。
「例えばここに金銭欲に捉われている人がいるとするよね、その人はつまり『お金』というものの奴隷になってるってことにならないかな。
つまりさ、心が常にその『お金』に縛られていて自由じゃないんだよ」
この説明はなんとなく私にも理解できた。 タエコおばさんの店でバイトしていてお金にまつわるゴタゴタはよく聞いていた。
「つまりさ、その人間を縛っている諸々の手枷、足枷を解き放つのがキリストの一つの目的なわけだけど、この絵の中のキリストはまだ赤ん坊でその力を発揮するには幼すぎるんなんだ。 それはね、オレ自身の中にまだ沢山の手枷、足枷があってそれを解いてくれる『何か』を待っているような、そんな部分があるんだよ。
だけどここにキリストが生まれたことを見るとき、そこに希望があるんだ。
いや、希望なんていう弱いものじゃなくて、むしろ『確信』と言えるかもしれない」
先生はそこまで熱っぽく語ると澄んだ瞳をじっと私に注いだ。
瞬間 私は“この人が本当に好きだ”と思った。
普段あまり饒舌ではない先生が、ありのままの想いをさらけ出すのがキャンバスの中なんだ。
そしてこの人は本当に真剣に絵を描いてる。
「なんか難しい話、しちゃったかなあ」 先生はちょっと恥ずかしそうにケーキの箱を開けると目を輝かしてその丸いフレンチシルク・パイを取り出した。
こんもりとクリームが載せられているパイを見て、ろうそくがあったらよかったね、と先生は言った。 私が訳を訊くと、初めてのデートだからそのお祝いに、パイのど真ん中に火を燈したろうそくが欲しかったらしい。
そんな無邪気な先生がまた一段と愛しく感じられて私は胸を揺すぶられた。
程よく甘くふんわりとしたクリームは、ほろ苦いチョコレートの味と相まって、まるで先生と私の人目を避けなければならない恋のようだと思った。
続く