第八話
先生と私は校庭のプール脇にある花壇に腰をおろした。
昇降口で先生が言った、『言ったじゃないか、海に行ったとき、憶えてないの?』というフレーズが私の頭の中で何度も反転した。
やっぱりあれは聞き間違いなんかじゃなくて、先生は私を好きだと言ってるんだ。少しづつその確信が頭の中で固まってくる。
今だ。今を逃せばもう二度と私は気持ちを打ちあけることができないような気がした。
先生の横顔を見つめると私はその視線を捕らえて静かに眼を落とした。
花壇の脇にしゃがみ、グラウンドの土に私はハートのマークを大きく描き、その中に『すき』とひとことだけ書いた。先生はその絵を見てから涼やかな視線を私に向けた。
少しの沈黙の後、先生が口を開いた。
「じゃあどうして部活休んでたの?」困惑した眼で私を見た。
「それは、先生があの後何も言わなかったから」私は逸る胸を押さえて言った。
「そうだったの、ゴメン、何も言わないで。オレ、なんか強引だったかなって後で思ってさ。悪かったかなって思ったんだ。津田さんの気持ちなんて考えてなかったんじゃないかって……」先生がひたと私を見た。
「いいの。先生は教師だからそんな風に考えちゃうんだよ。でもあの夜も先生、私に何もヘンなことしてないし、悪い事なんかしてないよ」
ヘンなことしても悪くはなかった、という本心は言わず、私はサラッと言った。
先生は誠実すぎて不器用なんだ。
でもその不器用さがたまらなく愛しくて胸キュンで、もし、ここが学校でなかったら私は迷わずホグホグしていたと思う。
私はこれで早坂先生と相思相愛なのだと思うと天にも昇る心地だった。
お互いの気持ちを確認したと言っても先生と私はやはり教師と生徒、学校以外の場所では人目を憚って逢わなければならなかった。
でも秘密を持つ事は私には苦痛でなく、ある意味歓迎しているようなところがあった。
だってそうでしょう? なんの障害もない、社会的制約もない恋愛なんてふやけたラーメンのように伸びきって味も素っ気もない。
私達の恋愛には危なさと脆さ、そして燃え上がるようなパッションが常に同居していた、とは言わないまでも心弾むような小さなことが楽しかった。
例えば放課後の美術準備室は私達のお気に入りの場所だった。
先生たちの作品やモチーフ等といったガラクタに囲まれながら、それらを整理するひと時。
「津田さん、これ三年生の作品なんだけど、これも文化祭に出すから向こう(美術室)に持って行って」
「は~い」
「あとさ、この卒業生のはもう処分してって本條先生が言ったからさ、焼却炉もってっていいよ」
「わかりました」
なんて先生のお手伝いをするのも今まで以上に胸ときめいた。
文化祭の準備は忙しく、部員達が総勢で作品の展示に追われた。
そんな時も先生が私と眼が合うたびににっこりとして、それだけで私は十分幸せだった。
先生は美術室付近の廊下に絵を掛ける時も私を誘って手伝わせた。
先生が釘と金槌をもち、私が針金をかけていく間、自然に肩が触れ合いそれだけでドキドキしてしまう。
陳列台を運びながらお互いの視線を他の人にわからないように、ちょっと見つめあう。 ほんとうに些細なことが私にとっては胸キュンで先生の気持ちを確認する瞬間だったりした。
夕方晩く麻里と私がおやつを買うのにコンビにへ行った。
「ねぇ、葵ちゃん、この間早坂先生に呼ばれてどうだった?」
校舎を出るか出ないかのうちに訊いてきた。
「え~っ、どうってべつに」
きたきた。 麻里は私と早坂先生のことが聞きたくてしょうがない。
「ウッソ~、そういう感じじゃなかったよ。 葵ちゃんあの後すごく嬉しそうだったよ。ね、なんかあったんでしょう?」
麻里には借りがあるので隠す気はなかったけど、あんまり興味深々丸出しなのでちょっと焦らしてみたくなった。
「部活なんで休んでるんだとか、文化祭の事とか、そんなことだよ」
「それで?」
「バイトいきなりフケさせて悪かったとか言ってた」
「ほんとだよね、あんなコトされたらこっちに気があるのかなって思っちゃうじゃん、ふつー。やっぱさぁ、あの先生、芸術の先生だよね、ちょっと変わってるんだよ。 葵ちゃんも苦労するよね、あんな人好きになっちゃってさ」
ってさー、あんた勝手に結論出さないで
「でも やっぱりいい人だよ、心配しててくれたし。あのね、先生のことどう思うって訊かれたんだよ」
「エッ、エッ、ホント?」
「うん」
「で、葵ちゃん、なんて言ったの?」
もー、麻里ったら声うわずってるよ。
「メチャクチャ好きって言った」 まあこのくらい脚色してやろう。
「やったじゃん!」
麻里は私の背中をバシッと思いっきり叩いた。 痛てっ!
「え~っ、それでそれで? どこまでいったの? 先生と」
麻里、あんたは芸能リポーターかい?
「何もしてないよ」
「えっ? またぁ、ウソでしょー」
ウソって あんた疑い深い人だね。
まぁ 三十歳のおじさんと交際って二週間で“やっちゃった”麻里にしてみればうそのような話かも。
「うそじゃないよ、ほんとに何もないよ」
麻里の表情が、信じらんないという顔からなにか私を憐れむようにかわった。
「早坂先生ってまじめなんだね~」
とガッカリしたように言った。
無理もありません。 当時はこの歳で“やっちゃった”子はそんなにいなかったから、麻里は“生きた情報”に飢えていた。 もっと言えば少数派である“経験者”はどこかにヤバイという気持ちを持っていたので“赤信号みんなで渡れがばこわくない”式に “やっちゃった”子が増えれば心強いのだ。
だったらやらなきゃいいのに。
と思うのは「よい子」の葵ちゃんだから言えることで、麻里に言わせれば
“だって断ると彼氏がすっごい可哀相な顔するんだもん”
ってそれはあんたの彼氏がおやじだからだよ。
コンビニでみんなの分のおやつを買い麻里と私は学校にもどった。
文化祭が終わると私達はまたもとの生活にもどったけど、私は文化祭フィーバーの後で少し疲れたのだろうか、虚脱感に襲われて二,三日学校を休んだ。
「葵ちゃん 電話よ」
ベッドの上で本を読みながら横になっていると階下から母の声がした。
「誰?」
「美術部の早坂先生よ」言いながら母が私に受話器を渡した。
「もしもし、早坂先生?」 私は疲れも吹っ飛びそうだった。
「うん、今のお母さん?」
「はい」
「体、大丈夫なの? 鈴木さんから君が休んでるって聞いて心配したんだ」
「もう大丈夫です。 明日は学校出られます」 母が近くにいるかなと意識しながら話す。
「明日? 明日は文化祭の振り替えで休みだよ」
「あっ、そうか、やだ忘れてた」
「ほんとに大丈夫なのかなぁ …」 電話の向こうで笑ってる先生。
「学校休んだら日にち 忘れちゃった」
「言わなきゃよかった。そしたら君、一人で学校行ってたね」 まだ笑ってる
「じゃあ…明日大丈夫かな?」
「えっ?」
「出てこれる?」
「はい、今だってもうほとんど元気です」 いや、先生のお誘いとあればたとえ熱が四十度あったって出かける。
「そうなんだ、よかった。 明日うちにおいでよ」
……それってもしかして先生のマンションに来いってコト?
えっ、そうだよね。 うちってコトはバイト先の研究所でも美術準備室でもなくて……。 すぇんせいのおうち!
でも私はまだ実感が湧かなかった。
「先生のお家、ですか?」 これは母に聞かれてはマズイと思いながら小声になった。
「そうだよ、イヤ?」
って…嫌なわけないでしょー、ただびっくりして、それだけだよ。
「イヤなわけありませんですよ、だけどそんな、いいのですか?」
緊張しすぎてヘンな敬語になっちゃった。
先生がまた笑ってる
「明日、十二時で大丈夫? 駅前の本屋で待ってるよ」
「は、はい。 じゃあ明日」
そこで電話はガチャンと切れた。
おぉ~~っ、これって初デート、私と先生の初めての。
それもセンセのおうち、ってことはもしかして……おぉ~~~っ!!
わたしの“虚脱感”は一気に吹っ飛びました。
明日、私と先生は遂に“男女の仲“になるのです。
昔っから母が言ってました 「男の人一人の所に一人で行くという事は一線を越えても良いと言うことで何かされてもこちらは何も言えないんですよ」
何も言うどころかこれこそ“願ったり叶ったり”ではないの。
私は麻里とリサ子に思いっきりアッカンベーをしたい気持ちだった。
“先生とは進展がない”というレッテル、汚名、恥をこれで全て挽回できる。
しかも彼らのように“公共の”誰とも知らぬ人々が使用したラブホなんかではなく(オェ~っ)
先生と私だけの聖なる愛の空間……。
おお、これこそが私の初めての愛の行為にふさわしい舞台ではないの!
神様、ありがとう! ハレルヤ! アーメン!
ところで私はこの晴れの舞台に着ていくべきランジェリー(キャー)に悩んだ。ピンク、白、黒…はたまた赤! あるいは紫! いや、何も着けずに!
私は箪笥の引き出しを開け、ああでもない、こうでもないと迷いに迷った。
その夜は眠れるわけもなく、仕方がないので父の晩酌につきあってウィスキーの水割りを四杯もがっぷり飲んだと思う。正体不明に眠りこけた。
コケコッコー!
ついにその朝になり私は時計を見た。
「ぎゃ~~~~っ」
うそでしょう? これは悪夢にちがいない! もしくはうちの柱時計が狂っているのです!
いいえ、窓の外にはお日様がカンカンと照っているではないの?
十一時四十分!!!!
私は猛ダッシュでシャワーを浴び、ドライヤーで髪を乾かし、ランジェリーは考えてあったけど、 う、上に着ていくものが……。
あ~~~っ 何着てこう?! うぉ~~~っ!
バスタオルを体に巻いたまま、二階の部屋に駆け上がり、とりあえずお気に入りのワンピースをハンガーから引き剥がし、それを着ると玄関へ飛び出した。
「いってきま~~ス」
とにかく駅前の本屋さんへ駆けつけた。
ハァハァ…ハァハァ ゼィゼィ……。
息荒くするのはちょっと早いか。
本屋さんのガラスの自動ドアがゆっくりと開くと私は先生の姿を探した。
本棚の間の狭い通路を歩きながらそこいらを見回した。
「あれっ」
先生は普段かけないメガネをかけて本を読んでいる。
私の立っているところからは横顔しか見えない。
その横顔は凛としていて私はいつまでも見惚れていたいほどだった。
先生は私に気が付くと傍に来るように黙って合図をした。
それとなく先生の隣りに立つと、そっと一枚の紙切れを差し出した。
みるとそこに先生のマンションの地図があり “離れて付いて来て”と走り書きがしてあった。
先生がレジで本を買っている間、私はその様子を本棚の陰から覗い言われたように後をついて歩いた。
30分も歩くと通行人も疎らになってきた。 先生のマンションは駅から遠く 時々先生が振り返って私がはぐれないようにしてくれた。
長い道程をテクテクと歩きながら、先生が私と出会うまでにはもっと長い道があったことを思い知らされた。
私より6年先に生まれた先生はどんな道を辿って先生になったのだろう、まさか教え子と恋に陥ちるとは思っていなかっただろう。
学生時代はどんな生徒だったのだろう、彼女はいたのかな。
そんな事を考えているうちに私は先生のコトを少しも知らない自分に気が付いた。
私の知っている先生は部活の先生で学校で美術を教えていて、暑い日でもラーメンをかきこんじゃう人で、海に行ってもロマンチックなことを言いもしない。
もちろん車の中で手も握らない。 そのくせ傍によると男の人のパフュームの匂いがして、ふとした表情がすっごく色っぽい。
なぜか急に先生がミステリアスな人に感じられた。
こうして尾行しているのがヘンに似合ってるような謎に満ちた人物。
なんなんだろう、もしかしてこの人ゲイ? それかバイセクシャル?
まさか! まさか!だよね?
でもさ、芸術家にはゲイの人が多いって言うよね、もしかして先生のマンションにはそのゲイ友がいて私はその人と先生に輪姦されるのかも…ヒェ~~~っ!
どうしよう、もしそうだったらこうしてノコノコ付いて行く私って寅の穴のムジナ?じゃなくて、ミイラがミイラ取りじゃなくて、あぁ~なんだっけ?
でも、猟師も懐に入る鳥は撃たないっていうし、だけどやっぱ回れ右しよっかなぁ。
「津田さん、この建物だよ」
先生が指差した。
それは欅並木の通りにある赤レンガに包まれた瀟洒なマンションだった。