第七話
「先生、何処行くんですか?」
私は同じ質問を繰り返した。
「何処に行きたい?」
先生がギアを入れながら訊いた。
“ラブホにきまってるじゃないですか~”
まさかね。
「別に何処って…」 私はあまりにも突然の流れに戸惑った。
「じゃあ海を見に行こうか」
海?
そんなロマンチックな所へ連れて行ってくれるの?
「先生、どうして私を連れ出したの?」
私は自分が先生の誘いに何の抵抗もなく乗ったというスタンスは取りたくなかった。どうしてこう意地っ張りなのでしょう。
「どうしてって…君をお店に帰らせたくなかったから」
先生の声がカーステレオにかき消されるほど小さかった。
「先生バイトするの別に構わないって前に言いましたよね」
ちょっと拗ねたように言ってみた。
「うん…」
「じゃあ どうしてなんですか?」
私は少しじれったいなとは思いながらも静かな口調で訊いた。
「…うまく言えないけど、君が酔っ払いの相手をするってコト考えるのがイヤなんだ」 先生が淡々とした口調にも拘らず厳しい表情をしているのを私は見逃さなかった。
「なんでそんなコト考えるんですか? イヤなら考えなきゃいいし先生には関係のないことですよ」 私はわざと明るく言った。
「ホントにそう思うの?」 先生の澄んだ眼が翳った。
「先生 ただのバイトですよ、なんでそんなに拘るんですか?」
「…君が好きだから」
先生がポツリと漏らした。
「……!」
今なんて、今なんて言ったの? 私、何か聞き間違えた?
ちょっと、カーステのボリューム下げよーよ。
私はステレオ機材のあたりをいじった。
ぐわわぁ~~ん!!!
Highway to the HellUmmmmm……!!!
爆音が耳を劈いた。
メカに弱い私はとんでもない所を触ってしまった。
ヒェエエェ~~!
AC/DC様、私は高速道路からこのまま地獄へ堕ちたくはありません せっかく愛する先生とこれからお出かけすると言うのに。
早坂先生が慌ててステレオのボリュームを下げ、呆れ顔で私をみた。
「ごめんなさい…」私は思いっきり小さくなって謝った。
先生はプッと吹き出し、私も可笑しくなって笑った。
私はバイトをフケたことも早坂先生が“教師”であることも忘れてしまいそうだった。
車の窓から過ぎ去っていく無数の街の灯りを眺めながら、私はこれから行ったことのない海に行くような気がした。
潮の匂いが次第に濃くなった。
「歩こうか…」車のエンジンを止めると先生が言った。
月の光に明るく照らされた海岸に降りるて空を見上げると、満天の星が煌いていた。
私達は履いていた靴を無造作に砂浜に脱ぎ捨て、波打ち際を並んで歩いた。
「寒くない?」先生が言った。
「うん、少し」九月の夜の海岸は風が冷たかった。
引いては寄せてくる潮騒だけが聞こえる。
星空の下で私と先生の距離が縮まっていき、私の心臓は早鐘のように鳴った。
先生はそっと私の手をとりその広い胸に引き寄せた。
嗚呼、私は今まさに愛する人の抱擁を受けようとしているのです。 先生は逞しい両腕を私のちいさな背中に回し、息が詰まりそうな程強く抱きしめた。
「愛してる。気が違いそうなんだ。だからもう、酔っ払いのお酌なんかやめろよ。
オレだけの葵でいてくれ!」 先生が込み上げる感情に押されるように言った。
「先生…!」
いつもの涼やかな瞳とはまったく別の熱を帯びたような眼差しに私は気が遠くなりそうだった。
先生はそのままゆっくりと砂浜に私を倒し、堰を切ったように激しく口づけをした。
「愛してる葵、君のすべてが欲しい」先生の手が私のセーターの裾に掛かった。「ダメ、先生、いけない……」
……というのは私の頭の中での想像に過ぎず、先生は私の密かな期待をビリビリと見事に破いてくれました。
「寒い? じゃあ 走ろうか」 先生がいたずらっぽい眼をして言った。
「ここから向こうのライフガードのハシゴみたいのがあるだろ、あそこまで競争、いい?」
「OK, 先生 手加減なしよ。 ヨーイ、ドン!」私も元気に言った。
砂に足を取られて上手く走れないのが可笑しくて私達は笑いながら駈けた。
スタートをかけた私は ヘッド・スタートのメリットはあったけど、大の男の先生に勝てるわけありません。
300mも走ったかなぁ、先生はゴールのハシゴ近くになると 砂浜の上をゴロゴロ転がって息を切らしながら笑った。
私達は砂浜の湿った砂でレリーフを作った(やっぱり芸術家さんです)
ハートの形のレリーフを私が拵えると、先生がそれに『Aoi』と指で描いた。
「君の作品だから、ちゃんとサインしなくちゃね」
先生は優しい眼を向けて微笑んだ。
体が冷えてくると私たちは、追いかけっこをして無邪気な子供のように遊んだ。
先生といるのがあまりにも楽しくて胸ときめいて 私は時間を忘れた。
もし先生が「そろそろ 帰らなくちゃ」と言い出さなかったら、私は朝まで海辺で過ごしたかった。
「また、誘ってもいい?」
帰りの車の中で先生が訊いた。
「うん、でもバイトの途中でいきなりはダメですよ」
「ゴメン、わかってる」
私は自分の先生に対する気持ちをまだ告げていない。 もしかしたら先生は知っているのだろうか。
私の気持ちを既に知っていて、誘ったのだろうか。
二人で海に行った後も、早坂先生は学校ではいつもと同じだった。
けれども一週間が過ぎ、先生は私に個人的には何も言わなかった。
私は先生から何か言ってこないか、また誘ってはこないかと期待していたからこの“沈黙”に不安になった。
二週間経っても先生からは何のお誘いもなく 私から言い出すこともできず悶々とした日々が過ぎていった。
リサ子には海へ行った一件を包み隠さず話してあったから 先生から何も言ってこない苛立ちと不安、そして勝手に期待してしまったバカさ加減を嘆き、ぶちまけた。
「先生も考えてるのかもしれないよ、葵ちゃんとはちがう立場ってもんがあるしさ、もう少し待ってさ」とリサ子は慰めてくれた。
けれども私はそれを“待つ”には幼すぎた。学校で先生に逢う度に辛くなり何も言い出せない自分がもどかしく、また「好きだ」と言っておきながら何事もなかったように振舞う先生に不信すら覚えた。
もしかしてあの先生の「好き」はただ師弟としての感情で、それを大幅に勘違いした私ってすごいおバカさん?
私はやっとこの結論に辿りつくと自分がとても情けなく恥ずかしくなり、部活を辞めてしまおうかとさえ思った。こんなトンチンカンな子はタエコおばさんの飲み屋で酔っ払いのおじさんとカラオケでも唸ってるのがよほどふさわしいのだ。
先生への想いがよほど深かったのか、傷心の私は放課後、授業が終わるとまっすぐに家に帰った。
けれど家に帰ったところで先生を忘れるわけはなく、スケッチブックを開いては先生が直したり お手本を書いた鉛筆やチャコールのあとを指でなぞってみたり部活の皆で撮ったスナップ・ショットの中に先生をさがした。
片思いと言うのはかくも切なく哀しいものなのでしょうか。
私はベッドに置いてあるピンク色のレースに縁取られたかなり少女趣味なピローに顔をうずめて泣いた。
次第に私は自分自身を報われぬ恋に悩む美しき乙女、かなわぬ恋に身をやつして死んだオフェリアのように美化し、そのイメージに陶酔し “私はなんと美しく人を愛したの!”と感極まった。
“きっと私の愛をうけるにふさわしい人はこの世にはいないのかもしれない…”
“そのような人はギリシア神話かなんかにでてくる白皙の美青年であって、そんじょそこらの偏差値の低い学校のセンセなんかではないのでは。
私はなんという血迷った想いに囚われていたのかしら。
これはきっと悪魔のしわざに違いない。
マズイ!これはマズイ! さぁ、神父さんを呼んで悪魔祓いをして頂きましよう!
エコエコザメラク エコエコアザラク、スベタコロンパールームヨウコソオイデナサイマシ、キャインコパンパンパン……。
さて それから3,4日は経ち、悪魔祓いをしてもらった私は(ウソです、そんな事はしていません)授業が終わると急いで家に帰ろうと教室をあとにした。
「葵ちゃん 部活は? 今日もサボるの?」 廊下まで麻里が私を追ってきた。
「うん……」 お節介なやつじゃ、放っておいてくれよ。
私は早坂先生に遇わないようにさっさと校舎を出てしまいたかった。
「どうしたの? この頃ずっと出てないじゃん、何かあったの?」
「別に、大したことじゃないよ。心配しないで……」
「んならいいんだけどさ、じゃ、部活行くよ。 遅れると本條先生に起られちゃうから」 そう言うと麻里は廊下を駆けていった。
その後姿を見ながら私は何の屈折した想いもなく、早坂先生の顔を見れる麻里が羨ましいと思った。
私は重い足どりで昇降口まで行き、靴を履き替えようとした時だった。
「どうしたの? 津田さん、 ダメじゃないか部活サボって」
振り返ると早坂先生だった。 先生がこっちに向かって歩いてくる。
なんて懐かしいお姿!! 葵は逢いとうございました。 嗚呼、私は夢を見ているのでしょうか。先生どうぞ夢なら醒めないで、醒めぬうちに、さぁ私をその腕に抱いて下さいな。
じゃないだろーが。
「あっ、先生」 一番逢いたくて逢いたくない先生がそこにいる。
「心配しちゃったよ、 鈴木さん(麻里)が学校には来てるっていうのにさ」
「ごめんなさい……」 私は俯いた。
「どうしたの?」
「なんでもありません」
私は先生から眼をそらした。
「なんでもないって顔じゃないぞ」
当たり前です。全然なんでもなくありません、うるうる……。
「先生には関係のないことです」 それでも私は強がった。
「関係なくないよ、オレ 一応顧問だから」
いいえ、先生は非常勤ですもの。 そんな義務はないでしょう。
「それだけですか?」
「……ちがう」先生は廊下を見回して近くに誰もいないのを確かめると短く言った。
「じゃあ 何故?」
「言ったじゃないか、海に行ったとき。 憶えてないの?」先生が探るように私の目を見た。
「それは……」
「場所変えて話そうか」私に真っ直ぐに背をむけると、早坂先生は昇降口の階段を下りていった。