第六話
翌日から私達部員は本條先生のお言葉に刺激されたせいもあって、
「喝を入れよう!」ということになり 今までより真剣にポスターに取り組んだ。
デザインは皆の考えた物から少しずついい所を採用し、文化祭のタイトルが「松竹祭」と、とんでもなく日本酒を思わせるような名前で、こんなのがまぁよく生徒会通ったなというくらい偏差値低い学校丸出しなので、あまり気取ったのは不釣合いなんじゃないかという結論に達した。
さて シルクスクリーンと言うこの印刷方法はかなり原始的で、今のように印刷技術が発達している時代から見れば笑っちゃうような、高度の技術はほとんどといって要らないものでした。
にも拘らずカッターナイフで切り絵などしたこともない不器用な私達には結構 苦労が多かった。
ある日、スクリーンに貼り付ける和紙をカッターナイフで切っていた私はついでに親指から掌も切ってしまうという失態を犯した。
「痛~ぁ…」私は鋭い痛みに堪えかねてその場に屈みこんだ。
「葵ちゃん 大丈夫?」麻里が真っ先に駆けつけて私の手を見た。
「早坂せんせ~い、津田さんが手ェ切っちゃった!」
「大丈夫?どれ見せて」早坂先生が私の傍に来た。
せっかく切り抜いた和紙に血がつかないよう、作業台から離れるとポタポタと赤い血が床に垂れた。
先生は私を保健室へ行くように促した。
「気をつけなきゃダメじゃないか。 津田さんって案外そそっかしいとこあるなぁ」
階段を降り2階の保健室へ向かう途中、早坂先生が言った。
「友達にもよく言われます痛みを堪えて言った。
「校則破って堂々と、店の名入りのエプロン着てスーパー行ったりね」
おかしそうにチラッと私の顔を見た。
「もう言わないで下さいよ」
「それからラーメン屋に画材 置き忘れたでしょ?」
あれは先生にお昼をごちそうになって舞い上がってたからかな。
私の制服を見て憶えていたラーメン屋のおばさんが学校に連絡してくれたんだよね。
「あれっ、扉の鍵閉まってるよ。 ちょっと事務室行って鍵もらってくるから」
先生が下の事務室に駈けていくと私は一人保健室の前に残された。
鍵がかかってるということは誰もいないってことじゃんね。
普段は運動部の誰かが部活の最中に怪我をしたりするので保健室は開いていた。
それが今日に限って!
つまりなにかい? 保健の先生も留守ってこと?
おぉお~っ、これぞ神様の与えたもうたチャンスじゃないの?
私は手の痛みも忘れるほど狂喜した。
拍手して喜びたいところだったけど血ノリのついた手では気持ち悪いので我慢した。
先生が事務室からもどり保健室の鍵を開けている間、私の胸はもうこれ以上早く鼓動しないだろうと思うほど高鳴った。
バックン バックン バックン バクバクバクバク……。
切り傷の出血と相まり、貧血と高血圧が一気に攻め寄せ、私は失神しそうだった
しかしここで失神してはならないのである そんなことしたらこれから起こるであろう先生と二人っきりの時間がふいになってしまうじゃないの。
だめよ、しっかりするのよ! 葵、これは神様が下さったチャンスなのよ。
ここでぶっ倒れてどうする! もったいないぞ。 気を確かに持つのじゃ!
と思いながらも私の意識は次第に朦朧となり、頭が空っぽになっていくような感覚が押し寄せ(それはこの時だけに限らないかも)
あぁ…もうダメだ。遂に全身の感覚が麻痺し、私はまさしくその場に……。
へたり込んだだけで済んだ。
「大丈夫か?しっかりしろ」
早坂先生は慌てて私のか細い肩を抱き(ウフッ)無理やり保健室のベッドまで歩かせた。
その時の私の肩に置かれた先生の確かな手の感触も 先生の体から立ち昇る微かな香りも私は一生忘れないと思った。
この後どんなハイ・センスなデザイナーがプロデュースしたパフュームもこれ程までに私を恍惚とさせてはくれないだろう。
先生は私を保健室のベッドに腰をおろさせ、血に染まった私の左手を手に取った。
「結構深い傷だね、痛い?」
私の顔をのぞき込んだ。
私はコクンと肯き先生の目を見た。
「洗わなくちゃね、立てる?」そう言いながらまた私の肩を支え保健室の窓際にある洗面台まで連れてった。
蛇口の水は思ったより沁みて、流された血が細い筋となりながら渦を巻いて白いシンクの中心に飲み込まれていくのを私は見つめながら
「今この人はこんなにも私の近くにいる」
それだけで私は幸せだった。 先生は優しくてこんなに一生懸命私を気遣ってくれるのなら指の一本もげたってどっていうことはないと思った。(ウソ ウソ!)
保健室の白く塗られた壁と カーテンの隙間から射す夏の陽の光以外 何の色彩もないこの空間で赤い血の色は僅かでも美しく鮮やかだった。
「この間のお祭りでお会いした宮崎さんってきれいな人ですね」早坂先生が馴れない手つきで私の手に包帯を巻く間、さり気なく言ってみた。
「そうかな、うん まぁ 綺麗なほうかもしれないけど… 」
しれないけど…なんなの? すきなの? きらいなの?
「先生 好きなんですか?」 ズバリ訊いてみた。
「嫌いじゃないよ」
先生は包帯を巻き戻し、もうちょっとキレイに捲けないかなと苦労してる。
「じゃあ 好きなんだ」
やや突っぱなした様に言うと 先生が包帯を持つ手を止め 何かを訴えようとするように私の目をまっすぐに見た。
「………。」
早坂先生がふっと溜め息をもらした。
「どうしてこうなっちゃうんだろう 津田さん。 オレさ、いい教師になりたかったけど君を見てると自信なくなっちゃって、ヘンなんだよな」
何?何が言いたいの、先生。
私、先生の自信失わせるようなこと言った?
「そんなことないですよ、先生はいい先生ですよ。今だってこうやって私の傷の手当てしてくれてるじゃないですか。包帯の巻き方、上手いですよ。 保健の先生だってこんなに上手くは捲けませんよ」
美術教師に包帯の巻き方褒めてどーすんだ!という気持ちはあったけど、二十三歳という先生の年齢はもしかして私が考える程大人ではなく、アイディンティティーの確立がまだ不安定で自信喪失、自己不信なんかに悩むのね。などと思い 先生が一層いとおしく感じられて大胆にも先生の顔を見つめてしまった。
「そういう意味じゃなくてさ、なんて言っていいのかな」先生の顔が少し曇った。
先生は包帯を巻き終わるとそれ以上は何も言わず立ち上がった。
「さ、行くぞ」保健室のドアの方に歩いていった。
私はこれでまた麻里に借りができたと思いながらも“持つべきものはよき友じゃ”と心の中で微笑んだ。
宮崎さんは早坂先生の彼女じゃないとわかって私は喜んだ。
女にとって他の女性の影を意識しながら暮らすほど嫌なものはない。
私には二号サンになる人の気持ちも、あるいは妻をもっている男性の愛人(やっぱり二号サンか、いや二号サンというのは経済的援助という恩恵を受けているのだからまだいい、愛人ならヤッテ終わりではないの)になる人の心理がわからなかった。
一般の社会通念、道徳からすれば先生と生徒の恋愛はやはりマズイのかもしれないが(はっきり言ってマズイ)結婚という法の基にくっついてる男女の関係に割り込んで他人様の家庭を破壊しかねない不倫などよりは背徳性から言ったらかなり低いのではないの?
否。むしろ独身の先生、生徒に“学校”という環境をあたかも聖域でもないのに聖域扱いにして恋愛関係を否定する方がよほど不条理なのではないの? と自分勝手に解釈して私は少しも悪びれなかった。
もちろん片思いであり、ひっそりと私の心の世界で浸っているだけの恋だったから罪悪感などある筈もない。
私は保健室で早坂先生に捲いてもらった包帯を私は家宝として大切に保管した。
遠い将来 孫ができた時 “この包帯はのう、昔ばあちゃんが好きだった人に巻いてもらったんじゃよ”と話す自分の姿を想像して“あー、やっぱり年とりたくない”と思った。と思っても哀しいかな人は歳を取ってしまうのです
夏休みが終わろうとする頃 私はに17歳(セブンティーンだぞ!)になった
二学期になると私は学校の授業、部活、 バイトと3足のわらじを履き忙しい日々を送っていた。
バイトと言っても学校が始まってからは タエコおばさんが気を利かして金曜日と土曜日だけにしてくれていた。
ある土曜日の晩 バイトのパシリでスーパーへ行くと、また早坂先生に逢った。
「先生、今晩は。お買い物?」
もう先生に見つかってヤバイという気持ちはなかったから気軽に声を掛けた。
「うん、津田さんはバイト?学校と部活もあるし大変だろ?」
「でも週2だからラクですよ。 それに結構面白いし」
「ふぅ~ん、 お店の仕事好きなんだ、酔っ払うお客さんもいるから大変かなと思ってたけど」
先生、心配してくれてたの?
「タエコおばさんがいるから平気、それに私こう見えても結構客あしらい上手いんです。でもね、先生、こんなバイトしてると悪い子だって思う人はいるの」
ちょっとシュンとしたふりをして言ってみたが 実際のところ辞めようと思うほど私はナイーブではなかった。 だってこのバイト、おいしいもん。
「オレはそんな風には思わないけど…」先生が少し厳しい表情をして言った。
「ね、これからちょっとオレに付き合わない?」 何かを決心したように先生が言った。
はぁ? あの、私 今 バイト中なんだよ、先生。
でも、でも……。
先生とこれから何処かへ行くの? ねぇ、そうだよね? オレに付き合えってそういう事でしょ?
でも、お店どーすんの? 考えろ、葵! あんたパシリでここ来てんのよ!
このままバックレたらちょっとまずいんじゃない? って思いっきりマズイよ。
「いいけど、タエコおばさんに言わなきゃ」
何を言い出すの、葵。 あんた頭おかしくなった?
「電話すればいいよ」
先生は財布の中からテレカを出して私に差し出した。
「車 こっちに停めてあるからさ」先生はレジでビールとカップ麺のお金を払うと
スーパーマーケットの出口に向かって歩き出した。
私はお店のエプロンを外しながら小走りで先生の後を追った。
「先生、何処行くんですか?」
早坂先生はそれには答えず
「お店、大丈夫だった?」
「はい……」 電話には賄いのおばさんが出て、急に気分が悪くなったから家に帰るとウソをついた。(神様ごめんなさ~い)
後でバレたらヤバイなとは思ったけど、それはそれ。
大好きな先生に誘われて断るほど 私はワーカホリックじゃありません。
先生の車の車内には爽やかな、ランドリー・リネンの香りが満ちていて、エンジンがかかるとVanHalenのドラムが鳴り出した。
先生がアクセルを踏み、白いセダンは駐車場を後にして夜の闇に包まれていった。
私はこれから自分の行ったことない知らない所へ行くのだと思った。