第三話
そうです。
先生は“商店街のラーメン屋さん”というきわめて庶民的な喰い物屋に私を連れてきたわけ。
そうか、私という人間は先生にとってラーメン屋に象徴されるような俗っぽく、卑近で安価、
つまり全然スペシャルじゃない存在なのね…。
この店の看板のサブタイトルにあるように“うまい、安い、スピーディ”
きっと私はこういうノリで誤魔化され先生の安直なおもちゃとしていいように遊ばれてしまうだろうか。
『バカにすんじゃねぇ!』
この瞬間、「巨人の星」の星一徹のスピリットが私の脳にトランスしたのだろうか…。
私は脇のテーブルでジャンボ餃子をパクついてるニッカボッカを穿き、捻り鉢巻をしたヤンキーあがりの兄ちゃんの目の前の皿、ドンブリもろとも 両手でひっくり返した。
「キャー!」 「テメー いきなり何しやがんだよ! このアマ!」
ヤンキーの兄ちゃんが私の胸倉をつかみ 店内が騒然となった。
というのは真っ赤なフィクションです。
しかし…である。
私はラーメン屋さんというコトに又別の意味で拘った(しつけーな)
何故ならラーメンという物は食べるときにあの“ずずぅーっ”というえげつない音がするではないの。花も恥らう乙女が憧れの男性を前にそんなコトできるの?
百年の恋もいっぺんに醒めてしまうんではないの?
あのセンシュアルな早坂先生のお口がズルズルと麺を啜るところなんか見たくない。
ラーメンのお汁がところ構わずお口から飛び散るところなんか見たくない。
どうすればいいの?
先生にお顔隠してラーメン食べてもらえばそれで済むってもんじゃないの。
白いエプロンを着けたお姉さんが水の入ったコップと“お品書き”を盆に載せて持って来た。
ここでせめて“メニュー”とお洒落な横文字で言えないのは辛いが そこは惚れた者の弱みと言うべきか先生と一緒なら学校の美術室であろうと画材屋だろうとはたまたラーメン屋だろうとそんな事はどーでもいいコトだった。
註※ これを読んだラーメン屋さんの中でお気を悪くされた方がいらっしゃいましたらどうか誤解なさらないで下さいネ。 作者はラーメンは大好きです。バッシングしているつもりは毛頭ございません
大切なのは今こうして大好きな人と一緒にいるということだった。 私と先生、そして二人が
囲むこのテーブルがまさしく愛の空間であった。
先生はドンブリから立ち上る湯気に目を細めながら
「この暑いのにラーメンっていうのはマズカッタかな、いやあ、汗かいちゃった」
(ラーメン屋さん またまた申し上げありません)
「いいですよ、先生 ここ冷房ガンガン効いてるし」
私はコップの水をガブリと飲んで氷を齧りながら
「先生のあの絵、準備室にあったやつ」
「うん?」
「あの絵のタイトル なんていうんですか?」
「追憶」
「ツイオク?」
「うん、追いかけるの“追”に…」先生が漢字の説明を始めた。
「わかりますよ」
偏差値低い高校だからって舐めんなよ。私は憮然として言った。
「“追憶”って過去のコトを思い出すことでしょう? じゃ先生はあの作品の中に自分の思い出や過去の出来事を描いているんですか」
「オレ個人のっていうより 人類全体のって感じかな」
先生は大きな餃子を一口で飲み込んでから
「あの絵にひつじが描いてあるの…憶えてるかな?」
「あぁ、はい。 やっぱりひつじだったんですね」
「やぎかと思った?」
「どっちかなぁ~って」
笑ってごまかすと
「アブストラクトだからいいんだよ。気にしなくて」
と言って先生はにっこりした。優しい笑顔。割り箸を持つ先生の骨っぽい白い手に私の視線が移った。短い爪先が清潔だった。
この手で触れられてみたい…
「津田さんの絵は? 進んでるの?」
先生が澄んだ瞳を向けた。
「あ、はい、はかどってますよ 面白いくらいに」
「オレがいない方が制作意欲湧くのかなあ 困ったな」
先生はちょっと眉をしかめた。こんな表情がちょっとカワイイ。
「そんなコトないですよぉ ヘンなこと言わないで下さい」私はムキになった。
先生がいなくなったら困る。 どうしていいかわかんなくなる。
鈍いんだ この人… っていうより サイン出してないよね 私。
だけど なんて言えばいいの?
“好きです”なんて絶対言えないし、 それ以前にそんなコト知られたくない…
知られたら もう普通に会ったり 話したりできなくなりそうで…。
「こないだ描いていたツリーハウスのは仕上がったの? あれ面白い構図だよね 男の子と女の子がツリーハウスに登ろうとしてて…」
早坂先生は私の絵を覚えててくれてる。私の胸がドキンと弾んだ。
「今 それの四作目です」
「えっ 何でそんなに描くの? 最初に描いたやつ 気に入らなかったの?」
「あれはね、シリーズ物で全部で7つあるんですよ」
「凄いね 7つ?」
7という数字はキリスト教で完全を意味するの。
「そう、あの男の子と女の子はアダムとイブの象徴でツリーハウスはエデンの園だから
もちろん7作目では二人は神様に背いた罪としてツリーハウスから追い出されてしまうのよ」
私は目を伏せた。
何か自分がとても意地悪な意図をもってこの作品に取り組んでるような気がした。
ラーメン屋さんを出ると外は雨が激しく地面を叩いていて さっきまでのカンカン照りがうそのようだった。
ラーメン屋のおばさんが私達にビニールの傘を貸してくれた。
それも1本だけ。 商店街のアーケードを出たら先生と私は相合傘で歩ける。
こんなにも都合よく雨が降ってくれるなんて 私には幸運の女神様がついてるのだ。ボッチェルリの「ヴィーナス誕生」の裸のヴィーナスが私の肩に手をかけている、ってあれは“美の女神”だよね。 いや“幸運”も兼業してる筈だ。
ありがたいこと!
傘の要らない商店街のアーケードを出ると早坂先生は「じゃ、濡れないようにネ」といって傘を開いて私に手渡した。
「先生は?」
「オレはパチンコ屋の駐車場に車停めてあるから」
早坂先生がジーンズのポケットに両手をつっ込んで言った。
「な~んだ、先生と一緒に傘させるなって思ったのに」表面冗談を装い上目遣いで甘えたように言ってみた。いくら私でもこのくらいなら飲み屋で修行してりゃ朝飯前だった。
先生がちょっと驚いたように私の目を見た…。
『本気で言っているの?』その目が言っているようだったのは私の思い違いではなかったと思う。
一瞬、先生の視線と私の視線が絡み合った。
私は戸惑って目をそらした。
「じゃ、さようなら ごちそうさまでした」
雨の雫に覆われたビニール傘をさし、そのの下で軽く頭を下げると私は駅にむかって歩き出した。
ヴィーナスのバカちん相合傘はどうなったんだよ!
胸の中で悪態をついた。
尤も先生とたまたま街中で遭遇しお昼まで一緒に食べてこれ以上望むのは贅沢というより度が過ぎるのか。だって先生はパチンコを放り出して私を追ってきてくれたのよ。
そうだ。
なんでそこに焦点をあてて物を考えないの。
もしかしたら先生だって私の事、憎からず思ってるんじゃないの?
嗚呼 そうであって欲しい。
そしてあわよくば “ちょっと気になる存在”として先生の心の隅に棲まわせてもらいたい。
もっと言うなら先生の心を掻き乱し、狂おしいほどに悩ませてみたい。
さらに言わせてもらえば寝苦しい夏の夜、寝返りを打つのももどかしくHな一人遊びのおかずにしてもらいたい……。
何を言ってるの!不謹慎な!
先生は私の中で限りなく清い存在であり、あくまでも聖職者として世俗の穢れに染まらずに崇高な芸術の高みに向かって歩む者として祭壇に捧げねばならないのだ。
早坂先生は生贄か。
いえ そういう意味ではなく、とにかく『一緒にドライブしてファミレスでご飯食べて、その後何にもすることないからラブホテルにしけ込んだ』みたいなレベルであってはいかんのです。(ゴメン麻里)
先生と私はゴッホの描く向日葵畑でアンダルシアの陽を浴び、無邪気に それも鼻垂らし小僧的な無邪気さではなく“ロード・オブ・ザ・リングス”に出てくる小人達のようなアイルランドのセルティックな響きにのせて踊るような穢れのなさ、あ、あれはシャイアーという架空の村だったか……。
全部が地理的に滅茶苦茶!
とにかくここで重要なのは同じ小人であっても白雪姫に出てくる7人の小人であってはならんのです。ドゥーピーやグランピーに登場されては“ハイホー♪ ハイホー”の世界になってしまうじゃないか、でしょ?
あれっ、そういう話だっけ?
ちがう何が言いたかったかって言うと“無邪気さ”というコンセプトについてでしょ?
するとここにかなりの無理があるように見える。
そもそも男性というのは“やるか、やらないか”の物差しでしか対象(女性)を見ないのではないの?(飲み屋のバイトは確実に私の男性観を蝕んでいた)
生物学的に考えても月に一度しか生殖のチャンスが与えられていない可哀相な女性に比べて、いつでも何処でもOKな男性にとってはBGMがセルティックだとか戯れる場所がシャイアーだとか、そんなコトはどうだっていいんだよね。
要は“やれれば”いいんじゃん?
ユダヤ教とキリスト教の神様であり、全知全能のお方がお創りになった男性とは何故にそのような情け無い精神構造を持ってるの?
“神は人をご自身のかたちに似せられてお創りになった”と聖書にあるでしょ?
つまりは神様の模造品、似て非なるもの。
神様は人類最初の人、アダムを創られてから
“ちょっと不味いなコレ、そうだ、もっといいものを創ろう!”
と思って人類最初の女性、イブを創られた。
うそです。聖書にそんな事 書いてません!
“この書(聖書)の預言の言葉を聞くすべての人々に対して、わたしは警告する。もしこれ(聖書)に書き加えるものがあれば、神はその人に、この書に書かれている災害を加えられる”
-黙示録 22章18節
黙示録、こわい!
ごめんなさい、神様っ。
日曜学校に通う小学生程度の聖書知識しか持っていなかった私は神様がそのように男性を創った意図など理解できず、またそれ以上掘り下げて考えるという事もせず遂に深遠な神の御心など知らぬまま これ以上堕ちられないという所まで恋に陥ちていった。
それから数日の間 私はラーメン屋の出来事を頭の中で幾度も反芻しながら とめどもなく甘い想いに浸った。早坂先生のシャツの襟の隙間から覘く成熟した男を感じさせる胸のヘアーなどを思い出しながら、ともすれば陶酔し、眩暈を感じ、貧血を起こして吐き気を催すほどだった。
嘔吐しそうな程気分が悪くなっても私は先生のイマージュを追い続ける事を止めなかった。