第十二話
『蒼パレ』もいよいよ後半に突入でございます。
読者の皆々様には本当に感謝です。
また気合を入れて書かせて頂きます。
よろしくお願いします。
外は雪が降っていて私の髪にも肩にも雪片がついてる。
玄関でそれを払い落としていると、
「寒かっただろう」
先生が私の手をそっと握り自分の温かな手に包んでくれた。
「先生の手、温かい」
今まで早坂先生がそんな風に私の手を握ったことなんてなかったから、もうそれだけ言うのが精一杯だった。
先生は私の手をそのまま自分の胸に押し当て、しばらく黙って私を見つめた。
先生の心臓の鼓動が私の手に伝わり、それが私の胸にも伝染するように感じた。
この人がこんなに近くにいる。
胸が速い。
私は先生の体温と胸の鼓動から気をそらせるために、先生の顔を見ると、そこで熱を帯びたような眼差しに出会って、逃げ場がなくなった。
「好き、愛してるよ」
先生は言い、私をきつく抱きしめた。
先生の温かさ、胸の鼓動、幽かなパフュームとテレピン油の匂い。
私はそれが確かに夢なんかではなく現実だと感じた。
あまり感情を露に出した事のない先生が、この時、熱となにか私のわからない衝動に駆られているような気がした。
先生の口から“愛してる”と言われたのもこれが初めてだった。
その胸の中で眼を閉じると、私は先生と本当に二人だけの世界に埋もれ、何もかもがその外へ追いやられた。
それは単に好きとか一緒に居たいというだけでなく、この人の髪の一本からつま先まですべてを愛しむような初めて抱いた感情だった。
外気の冷気で冷え切った体を先生はそうして暫く抱いてくれた。
思いがけない抱擁の後、私は持ってきた先生へのプレゼント、バレンタインに相応しい、真っ赤なリボンをかけたハート型の箱に入ったチョコレートの詰め合わせを 渡した。
「これ、オレにくれるの?」
先生が言って私の目を覘いた。
「そう、バレンタインデーでしょ?」
こんなことを訊く先生がなんだか可笑しくて私は微笑んだ。
「わぁ、ありがとう」
先生は子供みたいに眼を輝かせた。
そのお菓子の箱は 大学ノートよりひと回りは大きかっただろうか、先生が箱を開けると様々な形のビターチョコレートやミルクチョコレートが上品にならんぢた。
「全部先生が食べていいのよ」
その無邪気な表情を眺めながら私はちょっとすまして言った。
「義理チョコじゃないのもらうのなんて初めて」
先生は嬉しそうにその一つを口に入れた。
「それ本当?」
私は先生が初めて本命チョコをもらったということが信じられない。
以前、先生は『片思い』くらいはしたことあるって言ってたけど。
とにかく私は先生の『ファースト・タイム』になったことに言いようのない満足を感じた。 何故なら、それは私のファースト・バレンタインだったから。
先生と私はチョコレートの箱を囲んで居間のソファに座った。
缶コーラを飲みながら学校の話、部活の話をしていた。
「このあいだね、オレ、教頭先生に呼ばれたんだ」
いつもと変わりない訥々とした口調だったけど、教頭先生というのがひっかかった。 もしかして私たちのことがバレたのかと思い、私は先生に向かってはっと顔を上げた。
「先生、もしかして……」
「違うよ、そんなんじゃないよ」
先生は遮るように言ってから続けた。
「オレ、来年から本採用になるよ」
「えっ、本当?」
「うん」
「すごいね、そしたら担任のクラスとかも持つの?」
うちの学校は毎年クラス替えがあるから、先生が本採用になって担任になったら、
どうしようかと思う。
そんなことになったら私は先生の顔を朝から見ることになって、冷静に振舞えなくなる。 う~ん、それは困るよ。
部活くらいで知った顔の部員達と先生と一緒に居るのとはちょっとワケが違う。
「うんん、クラスは持たないけど授業のコマ数は増えるよ」
「ほんとう? じゃ、三年生の美術の授業も先生が教えるの?」
その程度なら構わない。 美術の授業は週に二コマしかない。
「多分三年生は本條先生が受け持つよ、オレは一年生の授業かな」
なんだあ、じゃあんまり今と変わらないっつーか同じか。
しかも三年生は一学期いっぱいで部活は引退である、当然の如く学校で先生に会う機会は減ってしまう。
「でも研究所のバイトはしなくてよくなるよ」
チョコレートを摘みながら先生が言った。
私はそれが何を意味しているのか一瞬分からなかった。
「春休みとか夏休みはホントにお休みだし、夕方も学校が退けたらフリーだから学校で逢えなくても、こうやってもっと逢えるかも。 ああ、でも津田さん受験だよね」
先生がそこで喋るのをやめた。
『受験』というのは高校三年生にとってまるで戦争にでも行くような、非情で逃れることのできないという語感がある。
『美術』みたいな入試に関係ないような学科を教えていても、高校の教師である先生にとってやはり他人事ではないのだ。
うちの高校のように偏差値の低い(と、はっきりレベルを貼ってしまう)ところでは、取りあえず、どんな大学にでも生徒が合格すれば『御の字』で、哀しいかな、普通の高校生が滑り止めに受けるような大学でも、それが四年制大学であったりしたら、そこに受かるだけでも名誉なことなのだ。
もちろんお勉強の大嫌いな私はそんな気はサラサラない。
つまり、大学受験などという難関に敢て挑む気もなければ、この先、四年間もお勉強にどっぷり浸かる事など考えられなかった。
「私は大学には行かないの」
いつの間にか先生にプレゼントしたチョコレートに手をつけながら言った。
箱に詰められた小さなチョコレートの群れはあまりにも甘い誘惑であった。
そう『甘い誘惑』……。
これこそが万人の心を溶かし、揺るがせて、善悪の見きわめ、前後の見境なく男女が禁区に踏み入ってしまい、泥沼に堕ちこみ、抜き差しならぬ状態へと引き入れてしまう罠だ。
不倫、上司と直属の部下、牧師と信者、男&男、女&女、スパイと潜入先、芸能人とそのマネージャー、果ては親近相姦、獣姦……
なんとおぞましいことよ!
しかし、これは普遍の真理と言っても過言ではない。事実、この世にどれほど多くの人間がこのような深みにハマって苦しみ、もがき、喘いでいることか!
読者の皆様、周りをご覧になって、あなたの周りに一体何人の人が、そのような苦境に立たされて今も悶絶しているか……。
あれっ?そういう話だっけ?
違ったよね。
話を元にもどそう。
「えっ、津田さん大学には行かないの?」
先生が驚いたように言った。
部活の顧問だけやっているから私の成績までは知らない。
先生が知っているのは私に「絵の才能」が少なからずでもあるということだけ。
と、言っても地域の展覧会で賞をもらう程度のことだ。ここで初めて先生は私のオツムの程度を改めて知らされたのかも。
「私ね、B服飾デザイン学院に行こうと思ってるの。うちの母もそこへ行ったし、いい学校だって聞いてるから」
B服飾デザインは、その道では知らない人はいない。ファッション業界の登竜門、それ関係の学校では大御所だった。有名なデザイナーをごまんと輩出している。
「へぇ、津田さんはデザイナーになりたいの?」
「うん、まだよくわからないけど、そっち方面の勉強がしたいなって」
ここで堂々と『世界に名を馳せるファッション・デザイナーになりたい』と豪語できないところが私のヘタレである所以で、何のことはない、私は『お針仕事』というのが無類の苦手だった。 今考えると無謀な選択としか言いようがないこのB学院への進学なのだけど、この頃はまだそこまで無謀だとは思っていなかったから、おめでたい。
何しろ家庭科の授業で調理実習よりも、レース編みだとか縫い物、そんなのに苦労させられたのを全く無視してたのだから。
嗚呼、あのB服装学院でこってりしぼられた想い出は、卒業後も夢に出てきて眼を醒ますと額に汗をかくほどだった。
進路の選択をまちがったと思ったのは後の祭りであった。
いや、しかしあの時、『有名デザイナーになりたい』と、豪語しなかっただけでも私は赤っ恥かかなくて済んだんだ。情けね。
って、それはいいんだけどさ。
続く