第十話
その夜、私は家に帰ってから先生の家であった事を一つづつ思い返していた。
二人きりになったからと言って私の体に触れてくるでもなく、先生は単純に私といて楽しいという感じだった。
前日は先生とどうかなるコトを半ば期待していたのだから、今日の先生の私に対する接し方を幾分不満に思ってもいい筈なのに、自分でも驚くほどかえってそれがうれしかった。
以前交際った男の人の中に『俺は大人の付き合いをするからそのつもりで』 と言った人がいた。
きちんと予告をしたことで私を承知させ、納得させ、そんな彼自身を正当化したかったのだろうが、そんな形で“肉体関係ありの付き合い”を示唆することが、いかにも狡いやり方に思えて私は一気に引いてしまった。
以来、私は彼の手を見ただけで何か穢いものに感じられて生理的に受け付けられなくなった。
“現代のキリスト”早坂先生が描いたあの赤ん坊はまさしく神の子としてこの世に遣わされたイエスであり、触ればどろりとするようなあの夜の闇はこの世の象徴ともいえた。
暗闇の中に眩く光る星が、イエスの生まれた場所を示しているのは聖書と同じ表現だった。
ともすれば重い背景の色のために全体が暗くなりそうな作品に、星の瞬きと生命力に満ちた赤ん坊の存在がキャンバス全体を力強く希望に溢れたものにしていた。この絵を頭の中で描き出しながら、私は今日まで早坂先生という人を知らな過ぎたと思った。
先生は言ったのだ。
「オレのこと、よく知ったら君の気持ちが変わるかもしれない」
それは不安げに呟いたというより単に事実としてさらりと告白したように私には聞こえた。
むしろそんなことを考えながらも私にキリストの絵を通して自分を見せてくれた先生を正直で飾らない人だと思った。
冬休みに入るとすぐ、早坂先生が電話をかけてきた。
「津田さん、今度の日曜日、あいてるかな?」
日曜日に限らず冬休みは部活もなく、タエコおばさんの飲み屋のバイトの他に特になにもすることはない。 もちろん先生のお誘いであれば、仮に忙しかったとしても、他の予定をクリアしてスケジュールに詰め込むつもりだった。
「あいてますよ」 私は逸る気持ちを抑えつつ言った。
「よかった、君をいい所に連れて行ってあげたいんだ。 そんなに遠くじゃないから車で迎えに行くよ。じゃあ夕方六時にまた例の本屋さんで待ち合わせしようか」
先生は私の気持ちを確認するように言った。
「はい」
「今度は遅刻しないようにね」 先生が優しく付け加えた。
短い会話、というかデートの約束をとりつけ、私はまたまた天にも昇る心地だった。これで名実と共に先生と私は『交際っている』といえる。
そう考えて私の胸はなんともいえない甘酸っぱさに満たされた。
ところで早坂先生の言う 『いい所』とは一体どこだろう?
『そんなに遠くない所』
それが先生のマンションではないことは明白だった。 一度おじゃましたのだから、もう一度呼ばれるとしたら、先生はそう言うだろう。 何も勿体つけるほどのことではない。 一瞬、ラブホではないかとも思ったが、それなら先生のマンションを使えばいいことだ、何もそんな所へわざわざ人目に触れる危険を冒してまで行くことはない。
そう考えてから、私は自分が何て耳年寄りで先走ったことばかり想像するのかと呆れた。
とは言うものの、行き先が知れないということは、私の想像をいたずらに掻き立て、
私は空想の風船を幾つも思いっきり膨らませた。
ひとつが膨らみすぎて弾けてしまうと、もう一つを膨らませる。
こんな愉しい作業を繰り返しながら、私は早坂先生の澄んだ眼や、私の胸を熱く溶かしてしまいそうになるあの、パフュームの香りなんかを思い出していた。
さてその晩、私は父のウィスキーにも手をつけずに、念入りにお風呂に入り、髪の毛をカーラーで丁寧に巻いた。
こうして明日の朝、私は極めて乙女チックに装う予定だった。
行き先がわからないとなると、今ひとつ着る物を選ぶのに苦労するのだったが、そこは私の独断と偏見で『とにかく可愛く魅せる』ことを目標に、品のよい黒と白の格子柄のワンピースを着ていくことにした。
なにせ今回は『遅刻しない』ということが私の頭にこびりついている。
前日までに万端の準備をするのだ。
おとといは毛穴のお掃除パックもしたし、見えないとはいえ、無駄毛の処理も完璧にし、ついでに全身の肌に艶を与えるためにマッサージも欠かさなかった。
私は上客の前に立つ芸妓さながらに磨きたて、その自分を鏡に映しては『なかなか捨てたもんじゃないな』とか『いや、もう少しだけ顔が細かったらよかった』
などと勝手な批評をしてみた。
いよいよ待ちに待った日曜日が来た。
先生は約束どおり本屋さんで本を読みながら待っていた。
「おはようございます」 私が先生の傍によって小さな声で挨拶すると、先生はニッコリと笑みを浮かべた。
「おはよう、津田さん。 すっごい可愛いなあ、お人形みたいだね、その髪」
まるで初めて私を見るみたいな眼をした。
いや~、苦労して捲いた甲斐があったよ。 しかもカーラーを捲いたまま寝るのってラクじゃないんだよね。 けど先生の眼に美しく映るためであれば熱い砂風呂だろうが、悲鳴なしでは行えないというブラジリアン・ワックスだって平気なのだ。
いや、それはツルンツルンであることが『美』であると、彼が思えばの話なんだけど。
そこで私はハタと気づいた。
高校生の私を『好きだ』と言う先生はもしかしてロリの気があるのかな?
だったらやっぱりブラジリアン・ワックスは、やっておいた方がよかったのかもしれない。 ついでに髪の毛もただの巻き髪で満足せずに、ツインテールかなんかでとことんロリを演じた方がよかったのか。
待てよ、しかしロリっつーのは私よりもっと幼い女の子が対象の筈だ。だったらやっぱりこのままで、あるがままのナチュラル・ビューティでいいんだよね。
この場に及んで私は詰めが甘くなかったかと自問自答していた。
「どうしたの?津田さん」
ハンドルを握りながら先生が私をチラッと横目で見た。
「あ、いえ何でもないです」
私は先生に心の中を見透かされたような気がして頬が熱くなった。
「そう、ならいいんだけどさ。何か考えごとしてるみたいだったから」
そう、そうなんです。考えごと、してました。でも何を考えてたなんて、絶対に言えない。『先生ってロリ好き?』なんてね。いや、もしかして訊いてみたら、案外サラリと言うかもしれない。
『好きなのは、君だけだよ』とかなんとかさ。
そういえば最近っていうか、あの花壇での告白以来、先生から『好きだ』という言葉を聞いてない。こうやって誘ってくれるんだからわざわざ確認しなくたっていいとは思うけど、やっぱり逢うたびに聞いてみたいのが女心。
車を降り立つと、そこが教会である事は尖塔に立てられている十字架でわかった。
教会の建物が尖塔から漏れている青白い光に照らし出され、夕闇の中にぼぉっと浮かんでいる。そこだけが別世界のような雰囲気だった。
中に入り、アーチ型の入り口の真正面に聖壇があり、たくさんのキャンドルの灯が壁に掛けられた大きな十字架を照らしていた。
私達は聖堂の長いベンチのような木の椅子に並んで腰をかけ、私は誰にともなく呟いた。
「いい所って教会の事だったのね」自然に目が正面の十字架にいった。
「驚いた?」 先生が言った。
「ちょっとだけね、だってまさか先生が教会に連れて行ってくれるとは思っていなかったから」
『ちょっとだけ』というのは真っ赤な嘘で、実はすごく驚いていた。
保育園時代に牧師さんと接触があったとはいえ、その後、十何年もこうした宗教的な厳かな雰囲気には触れていなかった。
私は高い天井とそれを支える天に聳え立つようなアーチを描いた柱、それから窓という窓にはめ込まれた色鮮やかなステンドグラスを眺めながらつくづく美しいと思った。
多分、どんな悪人でもこの聖堂に足を踏み入れたなら、厳粛な気持ちになるのじゃないかしら……。
礼拝の時間が近づいたのか次々と座席が埋まっていき、澄んだオルガンの音色が聖堂に広がった。
後から来た人の中には早坂先生のお兄さんがいて、クリスマスとお正月を郷里で過ごすために仕事の赴任先から一時帰国しているという。
お兄さんは早坂先生よりかなり年上らしく、きちんとスーツを着て、長椅子に座ると、先生と私に軽く会釈した。
牧師さんの説教は“クリスマスは誰のためにあるのか”と題され、それが週報という紙に載っていた。
「罪を犯さずには生きていけないのが人間であり、そのために神はイエスをこの地上に遣わし、私たちの罪を十字架につけ、その罪を永遠に葬る為に人のかたちをとって生まれてきました」 と牧師は話された。
「聖書に書かれている罪というのは法律で裁かれるものに限らず、人の穢れた思い、すなわち妬み、強欲、憎しみ、情欲も、それに当たる。
神から視たら人の心は穢れに満ち、その心に罪を抱き、罪の奴隷になったままでは天国に入ることができないので、イエスの尊い血によってその罪を贖い、それを信じることによって人は天国へ行くという永遠のいのちを得る。 これがすなわち恵みである」そのような事を一つづつ牧師は話した。
「つまりこの恵みに与かること、これが神から人へのプレゼントであり、私達は信じてそのプレゼントを受けるだけでよい」というシンプル且つわかりやすい(ほんとかよ)説教だった。
いやあ、難しかった。そしてその退屈さの度合いは学校の古文、漢文の授業にも等しかった。
はっきり申しまして(ってなんでここで敬語になるんだ)私は途中で欠伸がでそうになり、それを先生にみられたらいけないと遠慮をし、堪える為に必死だったせいか涙まで出た。
礼拝が終わる頃、私達にそれぞれ小さな一本のろうそくが配られ、その間に牧師さんの祈りが捧げられた。
それは今まで私が経験した事のない、神聖で美しい光景だった。
説教は退屈であっても、このような目に見える『儀式』めいたものは何故かありがたく感じられるのが不思議だ。
そのキャンドル・サービスという儀式は、ほの暗い聖堂にあって人々が翳すろうそくの灯のみがポツリポツリと揺らめき、厳かに奏でられるオルガンの音にのせて、もったいぶるようにゆっくりと行なわれた。
『早くお祈りを終わりにしてくれ、ろうそくが融けて、手が熱いんだよ』
私は薄目を開け、そう思うのは自分だけだろうかと、隣りの列の長椅子でお祈りをしている信者さんの手元を見た。
驚いたことに彼らのろうそくは私のよりもずっと燃えかたが遅いのか、ろうそくの長さを十分に残している。
『まさか……。 そんなバカな!』
自分の手を今にも焼かんばかりのちびかけたろうそくと、その信者さんのまだ十分に長さを保っているろうそくを交互に見て私は突然、背中から冷や水を浴びせられたようにゾッとした。
『ああ、もしかしてこのろうそくの灯の熱さは、罪深い私が地獄の火にでも炙られるという、これはそのオーメンなのかもしれない』
私はさらに隣りに座っている先生を視た。
俯いてじっと目を閉じたその横顔は、まるでキリストの信徒そのものであるかのように清廉だった。 私はこんなにも清らかで穢れのない輝きに満ちた人を今までに知らないと思った。
先生の祈るその姿は透明感のある光に包まれていて私は息を呑んで見つめた。
その先生と見比べ私は自分の業の深さを思い知った。
その刹那、私の手に融けたろうそくが滴った。
ひぇ~っ! 助けてぇ!!
私は恐怖のあまり、顔が引きつり、出ない声を押し殺すようにして圧し沈めた。
きっとこれは罪のない清らかな早坂先生を少しでも情欲の世界に引きずり込もうと思ったことへの天罰に違いない。
そう考えると私はもう、居ても立ってもいられなくなった。
「先生……」 私は先生の顔をヒタと見つめた。
「ん?」先生が私の方を見ながら『フッ』と、持っているろうそくの灯を消した。
「あ……?」
「こっちの列から火をつけていったからね、短くなっちゃったね。ろうそく」
先生がろうそくの火を消した言い訳を私の耳元で囁いた。
『えっ? あぁ、そういうことだったんだ』
知らないうちに私は緊張していたので、私たちのろうそくが隣りの列のろうそくよりも先に火がつけられていたことなど念頭にいれていなかった。
『なんだ、ビックリしたなあ、もう』
オーメンでも天罰でもなかった。
続く