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真人は、小姓達を見送ってから下馬し、崖の淵に立って遠くを見渡した。
少しの間景色を眺めているような様子を見せていたが、やがて小路を見付けて崖下に繋がるその路を降り始める。下に降りると、急な傾斜を持つ崖下に回り込む。
真人は、急な斜面を背丈の二倍ほどの高さまで登った。そして、掴んでいた雑木を放し滑り落ちるように下った。最後のところでは、身を投げ出すかのように、体を回転させ伸ばして倒れ込んだ。
そのまま天を仰いで空を見る。秋の青い空に白い雲が浮かんでいる。じっと眺めていたらそのまま眠ってしまいそうな心地良い日和である。
転げたので着衣には土が着いており、肘にはすりきずも出来ている。真人は、そのままじっと動かず、これからのことを考えていた。
一時ほども経っただろうか。崖の上で小姓達の信長を呼ぶ声がし始めた。その声を聞くと、真人は目を閉じた。
「大変だ! 殿が崖下に倒れていらっしゃる」
崖下を覗き見た一人の小姓が叫んだ。ガヤガヤと騒ぎになり、小姓達は路を見付けて、競って崖下に向かって下って来る。
目を閉じて倒れている真人は、自分に向かって慌ただしく駆け寄る、複数の足音を聞いていた。
『殿ーっ』と言う、悲壮感を帯びた叫び声と共に手が胸に乗せられて、揺さぶられた。
「うっ」と、真人は声を出した。
「ご無事だ!。お気が付かれたぞ!」
と、一人が叫ぶと、
「良かった」
と言う、いくつかの声が聞こえる。
真人はパッチリと目を開いた。そして、体を起こし、「うっ」と小さく呻く。
「殿、お怪我は……?」
と胸に手を置いた小姓が聞いた。
「腕と背中が少し痛いが、それほどひどくはなさそうだ」
真人は左手で右の二の腕を擦りながら、そう言った。
「宜しゅう御座いました」
小姓は笑顔になって言った。真人は、無言のまま皆を見渡す。そして、
「お前達は誰だ? 何故、儂はここに居るのか?」
ときいた。小姓達は驚きの余りすぐに言葉がでず、お互いに顔を見合せた。
「殿! 我等が誰か、お分かりにならないのですか?」
一人がそう聞いた。真人はもう一度皆の顔を一人づつ見詰め、
「知っているような気はするが、分からん」
と答える。
「小姓の一郎太に御座います。お分かりになりませぬか」
一人が真人の顔を覗き込むようにして、必至で訴えた。
「そもそも、儂は誰じゃ?」
真人は、そう返した。
「織田弾正忠信秀様のご嫡男にして那古野城主、三郎信長様に御座います」
「……うん、そうか。そう言われればそのような記憶も無いことはない。だが、思い出せぬことも多い。恐らく、落ちて頭を打ったのであろうが、何故、我等はここに居る?」
真人はそう聞いた。
「はい。殿が野駆けに出ると仰せになって、我等が供をして参りました」
「供はお前達だけか?」
「御家老様が、年嵩の者も付けると仰せになられたのですが、殿が我等だけで良いと仰せになられたので……」
「全て儂のせいだと言っても、その方達も叱責を受けることになるのか?」
一郎太は暗い顔になった。
「はい。殿のお側に居なかった、我等の罪を問われましょう」
「その方らに咎は無い」
「しかし、お怪我が……」
「儂の命に従って側を離れたのじゃ。その方らの咎にはならぬ。命じた儂にも何か言って来るであろうが、これを期に、童扱いをやめさせるよう家老達には釘を刺して置こうと思う」
そう言うと、
「有り難き仕合わせなれど、それでは殿と御家老様方の関係がギクシャクされるのでは……」
「儂の考えは親父殿より大きいぞ。それを成し遂げる為には、家老といえど、無条件で儂の命に従わせねばならん。良い機会じゃ。その方らは案ずることは無い」
胡椒達は一斉に頭を下げた。
「だが、困ったことが一つ有る。だいぶ思い出しては来たのだが、思い出せぬことも有るのだ。これから先も、そのようなこと度々有る屋もしれぬ。そのような素振りが見えたら、他の者達に分からぬように教えよ。分かったか?」
信長である真人はそう命じた。
「畏まりました」
「他の者も良いな」
「はっ」
と皆一斉に返事した。