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「浩一さんまだ帰ってなくてよかったぁ」
荻布曜子は慌てて夕飯の支度に取りかかる。
義姉が持たせてくれた夕子の一品があるので、気持ちに余裕がある。帰宅時間に間に合わなくても、浩一が咎めることは一切ない。なので焦る必要なないのだが、仕事から帰ってきた夫への労いのうちだと考え、頑張ろうと思えた
曜子の希望で設えられた造作キッチンはさすがに使い勝手は良かったが、お嬢様育ちの曜子は元々家事が得意ではない。
だが、浩一と交際を始めてから料理教室に通ったり、花恵に教わったりして、少しずつ腕を上げてきた。
義姉は料理が得意で、夕子と一緒に台所に立つが、母は料理をまったくしない人で、手本にはならなかった。
まだまだ手際が良いとは言えないが、最近では浩一が帰ってくるまでに、一汁三菜をきちんと作れるようにはなっている。
主菜の肉に下味をつけ、付け合わせの野菜を切りながら、きょうは失敗したと溜息を吐いた。
昨日花恵に離婚を促すよう協力して、と母が家に押しかけて来たのだ。きょう御義母会に出ている間に話をつけて欲しいと。
それなのに、きょうも自分の話ばかりを聴いてもらい、労われて帰って来たが、それでほっとしたのも事実だ。何も悪くない義姉がなぜ家を出なくてはならないのか。
あの軽薄そうな尻の軽い女が後釜に入る、と我が事として置き換えると怒りが込み上がってくる。
もし恋愛も結婚もしていない頃の曜子なら、子供ができないならそれもアリでしょと、ファッション雑誌片手にソファに寝転がりながら呑気に傍観していたかもしれない。
だが、愛する男性が出来て結婚した今、もし浩一に別の女性が出来たら、その女に優しく微笑んでいたら――
わたしならきっと……
お義姉さん、なぜあそこまで冷静に愛を貫けるんだろう。
「はあ……」
感嘆の溜息を吐く。
曜子にとって花恵は、大らかで優しい、尊敬すべき女性であった。
浩一と結婚するまで実家住まいだった小姑に嫌な顔一つせず、尚且つ甘やかす多永子と同じように花恵も我儘を聞いてくれていた。
そんな彼女は実の兄以上に結びつきがあったように思う。
お兄ちゃんのほうが悪いのに、赤ちゃんができないだけで離婚しろなんて、やっぱりわたしからは言えないわ。ママもどうかしてる。あれだけお義姉さんに尽くしてもらってるのに――
これが曜子の本音だった。
だが、慰謝料をたんまりふんだくって離婚すればいいと思うのも本音だ。
あんな裏切り男なんて捨てて、新しい人生を歩めばいいのよ。お義姉さんはまだ若くて美人なんだから。
フライパンを準備していると母親から携帯に電話がかかって来た。
「もしもし――う~ん、うまく勧められなかったわ。だって、お兄ちゃんに浮気されて、さらに離婚だなんて――そんな慌てなくても美土里さんの出産、まだまだ先じゃない――そんなこと言うけど、同居の話なんてまだ出てないんでしょ? ママ、美土里さんとやっていけるの? わたしはママとあの人は無理だと思うなぁ――あはは、そうでしょ――う~ん、なんでだろね、お兄ちゃんはお義姉さんみたいな女性がタイプなのに。不思議――そう。魔が差すってこんなふうなのね――え~それはだめだと思うよ。子供だけ引き取るなんて――確かにお義姉さんなら、お兄ちゃんの子供ってだけで大切に育ててくれるとは思うけども――う~ん、赤ちゃんのうちはね……でもやっぱり自分の子じゃないのは……あっごめんママ、わたし夕飯の支度まだできてないの――うん、また明日ね。じゃ」
曜子は急いで電話を切ると、黙々と料理の続きを開始した。
この新居は嫁ぐ娘にと多永子が購入したものだ。
曜子としては浩一が家族と住んでいた家に嫁すつもりであった。
だが、母はそれを許さなかった。
母の娘への『夢、希望』は結婚式も新婚旅行も豪華絢爛でなければならなかった。そして新居も。
それなのに浩一も曜子も地味で質素な挙式を選んだ。しかも新婚旅行は連れ子のために無期延期となった。
子連れ男の再婚のせいで、夢が叶えられなかった母は、それならと結婚祝いとして豪邸を贈ろうとしてきた。
浩一は恐縮、遠慮したが、多永子は一歩も引き下がらず、結果お互い妥協し、一般的な家屋ならと承諾することになった。
曜子はうまく収まったとはいえ、夫のプライドを考えると、母親の『暴挙』を申し訳なく思ったが、実家の近くに住めるのは正直有難いと思った。
それに元妻の面影が染みついた荻布家は正直あまり気持ちの良いものではなかった。特に夜を思うと――
曜子は浩一の連れ子、由姫のことも思い出す。
浩一と付き合い始めた頃はお姉ちゃんと慕われ、一緒に遊んでいたのに、結婚が決まった途端、敵意を剥き出してきて――
やっとママに結婚を許してもらえたのに、今度は由姫ちゃんに邪魔されるなんて――ほんと、実家が近くてよかった。ママにもお義姉さんにもたくさん愚痴を聞いてもらえたし。
そのかわり、ママの言い分もお義姉さんの悩みも聞いて上げないと。どっちの味方もして上げないといけないからちょっと辛いけど……でも、いいの。だってわたし今すごく幸せだもの。
「あ~、早く赤ちゃんに会いたい。わたしが浩一さんを、今度こそ幸せにしてあげるのよ」
うふふと笑いながら、出来上がった総菜をダイニングテーブルに並べていた視野の端、廊下の辺りで何かが動いたように見え、曜子は顔を上げた。
やだ、ゴキブリ? じゃないよね? だって赤っぽかったもの――じゃ何か他の虫? それもないよね? この家、ちゃんと防虫対策されてるって、ママが言ってたもの――
そう思いながら、そっとキッチンの入り口に移動し、間接照明に照らされる廊下を覗いた。思った通り何もない。
「目の錯覚、よね……」
ほっと胸を撫で下ろした曜子の耳に、ピンポーンとチャイムの音が響き「きゃっ」と驚く。
掛け時計を見ると丁度浩一が帰宅する時間になっていた。
曜子は満面の笑みを浮かべ、
「お帰りなさーい」
両手で大きくなりかけたお腹を優しく押さえ、小走りで玄関に向かった。