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※愛人、不倫、妊娠、不妊、死産等などの表現があります。不快に思われる方はご遠慮ください。
「お義姉さんも大変ね」
居間のソファでくつろぎながら、義妹の曜子がおもたせのケーキを頬張った。
彼女の実家だから、来るなとも言えず、毎日来ては時間を潰されるのに辟易していたが、彼女は花恵の味方だった。
「そうね……」
夕子の準備してくれたティーカップに花恵自身が入れた紅茶を注ぎながら溜息をつく。
「あんな不誠実な男、別れれば?」
自分の兄なのに、と苦笑が漏れる。
「でもわたしは別れたくないの」
「財産のため?」
嫌なニュアンスを感じ取り、顔を上げた。
「ウソ、ウソ。ごめんなさい」
曜子が笑って誤魔化す。
だが、花恵はピンときた。
きっと義妹は多永子に離婚の説得を頼まれたのだ。
「わたしは今でも圭司さんを愛してるのよ」
曜子の前にカップを置くと向かいの席に着く。
「こぉんなに愛されているのに、お兄ちゃん、何で不倫するのかなあ」
「夫婦の愛よりまず子供なんでしょ。でも新婚当初はそれほどじゃなかったのよ。すぐできると思っていたからかもしれないけど……きっとお義母さんの影響なんだと思うわ。息子をあげるから代わりに早く孫を頂戴ね、なんて婚約中におっしゃってたもの。冗談だと思ってたけど……」
「ママも、お兄ちゃんも子供大好きだからね……お義姉さんがお嫁に来たらすぐお孫ちゃんの顔が見れると思ってたんじゃない?」
そう言って曜子は紅茶を口に含む。
「でも、わたしにだって可能性がないわけではないのよ。お医者様に無理だって言われたわけじゃないもの……圭司さんもお義母さんも何をそんなに焦っているのやら」
ケーキをほじくりながら花恵は深い溜息をついた。
「ほんとね……ね、お義姉さん、このケーキほんとおいしいわよ。あのお店正解だったわ」
満足そうに笑う曜子の腹部に花恵は目を落とす。
「わたしにベビーができるまで、曜子ちゃんのベビーをかわいがって待っててくれればよかったのに」
義妹の腹は幸福で満ちていた。
「あ、そう言えば、この間街でお兄ちゃんたち見たよ」
「たち?」
「お兄ちゃんと美土里さん。あの人のお腹まだ膨らんでなかったわ……三ヶ月だもんね。わたしより二ケ月ちょっと遅いのか……今はあんまり動き回らないほうがいいと思うんだけど」
「そう……」
止まない頭痛が痛みを増しても、余裕を見せて微笑んだ。
「お兄ちゃん、あの胸にやられちゃったのね。バカみたいに大きいのよ。真面目過ぎるお兄ちゃんだったから、迫られていちころだったんじゃない?
だからお義姉さん、あんなお兄ちゃんのことなんか忘れて慰謝料ふんだくって別れれば?」
ほら来た。本題はこれだ。
「それはそうと曜子ちゃんはどうなの? 浩一さんは大丈夫?」
少しレモンの効き過ぎた紅茶を飲み、花恵は微笑みを絶やさないまま話をはぐらかした。
曜子が音を立ててカップを置き、身を乗り出す。
「うん。昨日なんかわたしのお腹を擦って、楽しみに待ってるよって話しかけたのよ」
「そう、安心したわ。浩一さん、だいぶ元気になったのね。曜子ちゃんのおかげね」
花恵がそう言うと、曜子は満面の笑みを浮かべた。
一年前、妻に先立たれた子持ち男を友人に紹介された義妹は彼に惚れ込み、でき婚した。
多永子は溺愛する娘の恋愛に当初から納得していなかった。母親として曜子の結婚はすべてにおいて完璧でなければならず、圭司の愛人問題も重なって荒れに荒れた。
子連れ男との交際を大大大反対し、曜子が結婚したいと願っても、相手側が再婚なのがどうしても許せなかったらしい。
そのせいで、あれだけよかった母娘仲がぎくしゃくし、その間は多永子の花恵への嫌味が薄まったので、気の毒に思いながらもストレスの軽減になっていた。
だが、曜子が妊娠という既成事実を作った途端、形勢が逆転した。
子連れ、再婚、でき婚という義母にとっての負のキーワードが、すべてきれいさっぱり頭から消え去ってしまったらしい。
急いで挙式させ、まだ時期尚早なのにいそいそとベビー誕生の準備を整え、今か今かと待ち構えている。
そこへ圭司の愛人の妊娠。再開された花恵への嫌味は熾烈さを増していた。
どいつもこいつも、簡単に妊娠しやがって――
心の中で悪態をつき、
「……曜子ちゃんもよく頑張ったわね」
花恵はしみじみとした表情を浮かべた。
「ありがとう、お義姉さん」
すっかり義姉のペースに乗せられ、曜子は泣き笑いしながらケーキを食べる。
離婚話をはぐらかせてよかったと、花恵は胸を撫で下ろした。
その後しばらく世間話をして、曜子が帰宅する時間になった。
「曜子ちゃん、これ御裾分け。夕食の足しにと思って、夕子さんに余分に拵えてもらったの」
花恵が煮物の入ったタッパーを渡すと、
「わあ、嬉しい。夕子さんのおかずおいしいのよね」
曜子が喜ぶ。
「せっかく曜子ちゃん来たのに、結局お義母さん、時間まで帰って来れなかったわね」
何も気づいていないふりで残念そうに言うと、曜子は「いいの、いいの」と顔の前で手を振った。「えっとぉ、お義姉さんと、お話し……したかっただけだから」
本来の目的を思い出したのか、歯切れ悪くそう言うと、お腹をそっと押さえてソファから立ち上がる。
花恵はタッパーを入れた風呂敷包みを腕に抱え、曜子を門まで見送った。
ロートアイアンの重厚な西洋門は槍先のような忍び返しまで付いた大層な大門だが、人だけの時は脇の常用扉で出入りする。
エントランスに出た曜子に包みを渡すと、
「気を付けて帰ってね。近いからって油断しちゃだめよ。一人の身体じゃないんだから」
嫉妬や羨望をおくびにも出さず、妊婦を気遣った言葉で手を振る。
「わかってるわ。ありがとうお義姉さん。じゃまたね」
曜子がひらひらと手を振り返し、邸宅の並ぶ道を左に歩いていった。
曜子たちの新居はここから徒歩で十数分離れた普通の住宅街にあり、多永子が宛がったものだ。
多永子は娘をこの界隈に住まわせたかったようだが、一般会社員の浩一が恐縮、遠慮し、曜子がその気持ちを尊重して母の我儘を退けた。
曜子の後ろ姿を見届け、常用扉の奥に戻ろうと振り返りかけた時、道の真ん中を右から左へ赤いものが転がっていった――ように見えた。
「ボール?」
鮮やかな赤は一瞬ゴムボールに見えた。幼児が両手で抱えられる大きさのものだ。
ご近所の子供が遊んでいるのかしら?
そう思ったが、ここら辺りで小さな子供が遊んでいる姿を見かけたことはない。
花恵は道まで出て、左右を確認する。
だが、遠ざかっていく曜子の背が見えるだけで、右にも左にも遊んでいる子供はおらず、しかも今見えたはずの赤いボール――に見えたもの――もなかった。
「見間違いかしら」
お向かいの瀟洒なフェンスの間から零れ咲く赤い薔薇が偶然そう見えたのかも。
花恵はそう納得し、中へと戻った。