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※愛人、不倫、妊娠、不妊、死産等などの描写・表現があります。不快に思われる方はご遠慮ください。

※残酷な描写があります。ご注意ください。

        


「若奥様。曜子お嬢様がいらっしゃってるんですけど……」

 家政婦の夕子が自室の机で書き物をしている花恵にノックの後に声をかけてきたが、いつもと違って歯切れが悪い。

「え? 曜子ちゃんが? しばらくぶりね……でも、どうかしたの?」

 顔を上げ、夕子を振り返った花恵は小首を傾げた。

 義妹はここ最近身体の調子が悪く、御義母会がある日でも来なかったが、何かあったのだろうか。

「あの……すごく具合が悪そうで……お医者様をお呼びしようか伺ったんですけど、それはいいから若奥様に会いたいとリビングでお待ちしてます」

「まあ、なにかしら。すぐ行くわ。何か温かい飲み物でも用意してあげて。それと、もしかのためにすぐお医者様が来れるようにしておいて」

 夕子が、「かしこまりました」とうなずくと足早に出ていった。

 花恵はリビングに向かうと、ソファで縮こまっている義妹の隣に座った。

「曜子ちゃんまだ具合悪いの? 呼んでくれたらいつでも(そっち)に行くのに」

 彼女の背を擦りながら、花恵は(うつむ)く顔を覗き込んだ。

 頬のやつれがひどく、目の下のどす黒い隈が曜子を老けて見せる。大事な身体だというのに、重篤な病に罹っているのではないかと疑い、花恵は急いで夕子を呼んだ。

「夕子さん、お医者様に連絡して。それとお義母さんにも――」

「違うのっ、病気じゃないのっ、お義姉さんっ、わたし……怖いの」

 曜子が花恵の腕に(すが)る。

 子機を握りしめ慌ててリビングに飛び込んできた夕子をいったん制し、痛いくらい(つか)んでくる曜子の手に自分の手を重ねた。

「なにが怖いの? 出産? 大丈夫よ、わたしもお義母さんも――わたしで頼りなければ、夕子さんもいるわ」

 実娘の出産を三回も経験している夕子の顔を見て「ねっ」と相槌を催促する。

「そうですよ、お嬢様。何も心配いりませんよ」

 夕子は何度もうなずいて曜子のそばに膝をついた。

「違うの、違うのよ。そうじゃないの……」

 鬼気迫る曜子の落ち窪んだ目によくない何かを感じた花恵は「ちょっと二人にしてくれる?」と夕子に言うと、彼女はうなずいて下がった。

 リビングのドアが完全に閉じたのを見て、義妹に再び向き合う。

「ねえ曜子ちゃん、何があったの?」

「ボールが、赤いボールが……」

 呆けたように呟く言葉を聞いた花恵の心臓は冷たいものを押し付けられたような衝撃を受けた。

 赤いボール? 

 曜子を見送る際に、目の端に映るものを思い出す。

 この符号はいったい――

「ボ、ボールがどうしたの?」

「家の……中にあるの……捨てても捨てても戻ってくるの……」

「捨てても戻ってくるって……由姫ちゃんの形見じゃないの? きっと浩一さんが偲んで――」

「違うっ! あの子のおもちゃは全部捨てたのっ! ぬいぐるみもお人形も絵本もあの(、、)赤いボールもっ、全部っ」

 曜子は顔を上げ、瞼を失くしたのかというくらい瞬きのない真ん丸な目で花恵を見た。

「曜子ちゃん……」

「はじめは外に転がってたの。誰かの忘れ物だと思ってた……それがいつの間にか家の中に――」

 ぞっとするような暗い声で曜子が話し始めた。

「おもちゃは全部捨てたって言ってるのに、あの子のものだと思った浩一さんが持ち込んだんだって、わたしも思ってた。

 でもね、お義姉さん。彼、そんなの知らないって――だからママかもって思って訊いたけど、ママも知らないって。

 外に出しても、ゴミに出しても、遠くまで捨てに行っても、次の日には必ず家の中に戻ってきてるの……」

 赤いボールという符号を気にしつつも、マタニティーブルーによる不安が見せているものだと、花恵は思った。

 だから、そんな情緒不安定な曜子に浩一が対処できず、きっと揉めたのだ。

「ねえ、浩一さんと喧嘩でもした? 曜子ちゃんは出産が心配なのね、でも大丈夫。わたしがそばについて――」

「違うって!」

 花恵の腕を掴む手に力が加わる。

「お義姉さん……わたし……由姫ちゃんを……殺したの」

 見開いたままの曜子の目から大粒の涙が零れ落ちた。

「あなた、何言って……」

 彼女の手に重ねた自分の手が震えてくるのがわかる。

「あの日……浩一さんが由姫ちゃんを連れて元の家に帰った日、わたしも後をついていったの……」

「そんな大事な身体でよく……」

 眉を顰める花恵の呟きに気づくことなく、曜子は抑揚のない声で話し続けた。

「家の外から様子を窺っていたら楽しそうな父娘の笑い声が聞こえて来たの。わたしが(ここ)にいるってこと浩一さんは知らない、知らないんだけど、一人外に立っている自分がひどくみじめで――」

 曜子が花恵の腕から手を離し、自分の身体を抱きしめた。涙が次から次へと溢れ出している。

 花恵は何も言えずにただ聞き続けた。

「わたし、次の日も行ったの。丁度赤いボールを持った由姫ちゃんと浩一さんが家から出て来て……そっと後をつけたの……近くの自然公園で仲良くボール遊びなんかして……遊歩道の樹の陰からわたしがどんな思いで見ているかなんて考えてもないんだろうなって。あの二人の間にわたしの、ううん、わたしとお腹の子供が入る余地なんてないんだろうなって……

 でもね、わたし思ったの……あの子さえいなければいいんじゃない? って……でないと、この子が不憫だもの」

 曜子は涙に濡れた顔で微笑みを浮かべ、愛おしそうにお腹を撫でた。

「……しばらくしたらね、疲れたのか浩一さんがベンチに座ったの。由姫ちゃんはそのそばで一人ボールで遊んでた……そしたら、自分の足で蹴ってしまったボールが勢いよく転がりだしたの……先はちょうど下り道になってて……あの子はいったん浩一さんを振り返ったけど、彼は居眠りをしていて……由姫ちゃんは声をかけないでボールを追いかけたの。ボールはころころころころ転がって、近くの池のそばで止まった……あの子、足が遅くて……わたしのほうが早くボールに追いついて……あの子が来る前にボールを池に蹴り込んでやったの」

 ふふふふと曜子の声とは思えない笑い声が彼女の口から漏れ出た。

「池に浮かんでいるボールを見つけた由姫ちゃんは落ちてた木の枝を使ってボールを取ろうと池の(へり)にしゃがんだの……きっと神様はわたしの、ううん、この子の味方をしてくれてるんだって思った。

 だって、池の周囲にも遊歩道にも誰もいなかったんだもの。

 だからわたしは急いで樹の陰から飛び出して、あの子の背中を蹴ったの……ボールを蹴るみたいに……」

「曜子ちゃん、だめよ。もうそれ以上、言わないで」

 花恵の全身の血が足元へと下がっていく。

「あの子頭から池に(はま)ったもんだから、声も出せなかった。ばしゃばしゃ溺れて、やっと水面に頭が出た時は死にそうな顔で、うつろな目をしてた。なのに、池の縁に立ってるわたしに気づいたら目がぎらって光ったわ。自分が誰に何をされたのか、分かったのね。今でもあの目が忘れられない……」

 両手で顔を伏せ、曜子は声を上げて泣いた。

「もう何も言わないで。曜子ちゃん、あれは事故なのよ。

 あなた、今マタニティーブルーなの。由姫ちゃんを守れなかった罪悪感が重なって、変な妄想に取り憑かれてるだけなの。でも、あなたも赤ちゃんも神様に守られているのでしょう? だから、あれは事故(、、、、、)。事故、なの」

 はっきりとした口調で、曜子に言い聞かせる。

「お義姉さん……」

「次にボールが家の中にあったら、わたしが処理するわ。だから捨てないで、わたしを呼んで。すぐ行くから、ねっ」

 落ち着きを取り戻したのか、曜子の赤く染まり険しかった目元が柔らかくなっていた。

「今日は泊まっていくといいわ。浩一さんにはわたしが連絡するから」

 花恵を見つめ、義妹はこくりとうなずいた。




「本当に帰って大丈夫? 無理しないで、やっぱりここにいなさい。浩一さんにも許可をもらってるんだから――」

 泊まりを決定していたが、曜子は帰ると言って玄関に立った。浩一を一人にするのが嫌なのだという。

「大丈夫よ。お義姉さんのおかげでだいぶ気持ちが楽になったから」

 まだ顔色は悪いものの、来た時より笑顔が増えた。

「それに浩一さんに夕食を作ってあげたいし」

「ほんと曜子ちゃん、浩一さんのことを愛しているのね。彼も同じよ。あなたのことすごく想ってる。

 だってさっき連絡した時、あなたのことすごく心配してたもの。お義姉さんよろしく頼みますっ! なんて、電話の向こうで頭下げてるのが見えたわ。

 ……うちとは大違い」

「お義姉さん……」

「あらごめんなさい。聞こえちゃった? マイナスな言葉なんて今の曜子ちゃんに聞かせるべきじゃないのに。ごめん、気にしないでね」

「お義姉さん……わたしのほうこそごめんなさい……お義姉さんはこんなに親身に考えてくれてるのに、わたしはママに頼ま――」

「いいのよ、曜子ちゃん。もう他の事考えないで、赤ちゃんが産まれてくることだけ考えなさい。それだけ(、、、、)を考えるの。わたしが言ったこと忘れないでっ」

『あれは事故』

 もう済んでしまったことなのだから、その言葉をしっかり自分に言い聞かせ、心の安定を保って欲しいと花恵は思った。

 もうすぐ自分は片倉家の人間ではなくなってしまうけれども、嫁だった者としてこの家の名誉は守りたい。

「若奥様、お嬢様をお家までお送りしましょうか」

 ぱたぱたと夕子が奥から出て来た。

「あ、わたしが送るから大丈夫よ。お仕事続けてて」

 夕子を制する花恵の肩に曜子が軽く触れる。

「お義姉さんも夕子さんもありがとう。一人で大丈夫だから」

 そう言って曜子は玄関を出ていく。

 門の前まで見送った花恵は笑顔で何度も手を振る曜子に応えながら、いつものように目の端に赤いものが映らないか注意していたが、きょうは何もなかった。


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