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猫の家の崩壊

作者: 朽木 祐

 墓参りから帰ってきて部屋の扉を空けたら、黒光りするバックルと高いヒールを備えた女物のブーツがたたきに並んでいた。僕は靴を脱ぎ捨てて駆け上がる。鞄をキッチンのワゴンテーブルの上に放り、リビングのドアを開けると、床中に本が散らばっている中に、夕べ片づけたばかりの、季節はずれなサマーベッドが再び広げられている。果たして、一ヶ月前に同棲生活を捨てて出ていった元恋人の美砂が物憂げに身を横たえ、優雅に煙草をくゆらせていた。

 一目見た印象は、一言では言えない。

 むかし実家に常連のような顔をして猫が何匹か出入りしていて、おおむね猫好きだった家族は余った煮干しを空いていた植木鉢の受け皿に載せて食べさせていたのだけれど、一匹、なかなか懐かない奴がいた。煮干しを持って出て行くと、人の顔を見るなりとっとと庭の茂みに滑り込んで隣家に逃げて行くのだった。他の猫たちと比べてその猫が一番毛並みが美しく、真っ黒な毛並みに赤い首輪、どういう家でその猫が飼われているのか想像をたくましくしたけれど、やがてその猫は姿を見せなくなり、飼い主と一緒に引っ越したか、あるいは縄張りを変えたかのどちらかだと思っていた。

 で、今の美砂は、その懐かなかった黒猫が図々しく縁側から上がって畳の上で寝そべっていた、といった感じ。

 どこか不機嫌そうに寛いでいる彼女は、午睡のさなかの肉食獣の優雅さで煙草をくっ、と吸い、足を組み替え、おなかの上に伏せていた本をぽんと投げ捨てた。床は本が散らばって足の踏み場がないほどになっている。そしてまた、でたらめに本が選ばれ、床からつまみ上げられ、カバーが外れそうになってねずみのしっぽのようにぶらぶらと揺れた。

「いま帰ってきたのか?」

「にゃあ」

 人間の言葉をしゃべりたくならしい。というか、僕に対して人間の言葉を喋るのがイヤなのかもしれない。とにかくいろいろなことがイヤそうに寝ころんでいるのだ。僕以外の人間がみても不機嫌そうには見えないかもしれないが、もし猫並みにしっぽがあったら、大振りにぶんぶん左右に揺らしていることだろう。こういうときにうかつに機嫌をとるのはよくない。人語を拒絶する相手に何を以て話せばよいのか。僕は仕方なく、猫の言葉で喋ろうとした。

「にゃあ」

「にゃあ? 人間の言葉で話したら?」

 ふざけるなと言いたい。だが、逆らっても仕方ないので、やめた。

 美砂は煙草を携帯灰皿に放り込んで、軽やかにサマーベッドから本のないところにすべりおり、あぐらを掻いてうん、と唸りながら伸びをして、僕に手を指しのばした。

「久しぶり」

「にゃあ」

 おそるおそる手を取って立たせると、両手を僕の背中に回して抱きしめてくる。煙草のにおいがする。

「煙草、自分で買うようになったんだな」

「違う。そこのクローゼットに買い置きされてたやつを勝手に吸ってるだけ」

「野良猫。ニコチン中毒の野良猫。たばこを吸いに寄ったのか?」

「にゃう。違う。古巣に帰ってきた。

 鍵、やっぱり変えてなかったのね」

「本当に戻ってきてくれたのか? 怒ってるんじゃないのか?」

「後で詳しくはなすから。ご飯食べにいこう。にゃあ」

「にゃあ?」

「にゃあお」


 美砂はおなかを空かしていた。

 よく食べる。そしてよく飲む。

 再会を祝して軽く一杯のつもりで近所の寿司屋に行ったのだけれど、三十分立たないうちに、すでに中ジョッキ三杯が空になり、枝豆、唐揚げ、たこわさ、うざく、卵焼きのほとんどが黒猫少女の栄養となって消えた。僕が勘定を持つつもりでいるのを見切ったら、同時に機嫌もよくなったみたいだ。

「なにも食べてなかったのか?」

「そうだよ、昨日から、所持金ゼロ、まともに食べてないの、(ゴクゴク)おなかぺこぺこ」

「所持金ゼロ?」

「貧血起こしそうだった(ムシャムシャ)」

 何がどうなって所持金ゼロになったのかわからないが、ひどくかわいそうになってきて、僕は刺身の盛り合わせ追加した。

「でね、急に帰っれきら理由なんらけど(げほ)」

「舌が回ってないぞ、それにむせてる」

「所持金はお金おろしてないだけなんだけど、面白い話を聞かせたくって。ぽーなのよ、ぽー」

「ぽーってなんだ」

「えどがあらんぽー」

「江戸川乱歩?」

「そっちじゃなくて本家のほう」

「……E・A・ポーか」

「そうそう、だからポーって言ってるじゃん。妹を生きたまま埋葬する話、読んだことある?」

「ない、かな、子供の頃、『黒猫』の子供向けのを読んだ記憶しかない、あ、でも、詩を英語の授業でやった。大江健三郎とナボコフが好きな先生だった。アナベル・リー、海辺の公国」

「その子供向け、もしかして、怖い挿絵が入ってたりしなかった?」

「壁の中からにゃあ、死せる妻の頭上に乗っかって招き猫、夢に見た」

「招き猫みたいなかわいいもんじゃなかったけど、怖かったよね、あの絵」

「おなじ絵なのかな」

「そゆことにしとこ」

「俺、小説読んで怖いって思ったことないんだよね」

「怖さはわからなくても美しさはわかる、でしょ? ポーは最高クラスののB級ホラーなわけじゃない、だから、華麗で統一された文飾とイメージを楽しめばそれでいいんじゃない?」

「美しさのない小説は、つまらない、ってことかね」

 追加した刺身が来た。

「鮭もらっていい? それでさ、何でポーなのか、ってこと何だけど」

 マグロの色が悪かった。鮭をあげて僕はそっちを取った。

「マグロもらう。で、何でポーなのさ?」

「この一ヶ月の間、あたしは実家に帰りもせずどうしていたかというと」

「だから、何でポーなんだよ」

「関係あるのよ、とにかく、一ヶ月の間、友達の家を渡り歩いていたわけで。にゃあ。なのですが、一回だけ、男の家に」

「がるるるにゃー」

「ふーっ。でもね、なにもなかったのよ、その男の彼女と一緒に泊まっただけだから。ねえ、猫語でしゃべるのやめない?」

 僕はちょっと考えた。人間の言葉で今の複雑な気持ちを全部掬いとるのは難しいと思うと答えた。

「にゃあ、とか言ってて猫は全部話が通じてるとも思えないけど」

「猫は目線とか毛逆立てたりとか、あと、とにかくそこにいてなんとなく時間を共有したりして通じてるんだろ。あと、毛繕いしあったりするのかも」

 とつぜん、僕は、猫の鳴き声が聞こえることに気がついた。ビートのこぜわしいBGMの下、隣の席の若い男二人組のげらげら笑う声の向こうにかそけく響いてどこにいるかを聞き分けたと思えた瞬間に、カウンターの客に出す皿の品名を繰り返し呼びかけあう店員たちの演技がましい声に場所を見失い、一瞬前にいたと思えたそのカウンターの奥の厨房のやや見分けづらい暗がりにはもう小さなけものの影らしいものもなくて、最初から猫などいなかったのかあるいは掛け去ってしまったのか、わからなかった。

「猫、いたよな?」

「ふあ? 猫? にゃあにゃあ言ってるうちにおかしくなったんじゃない?」

「ほんとににゃあにゃあ言ってるのが聞こえた気がしたんだ」

「最近はやってるの、そういうの?」

「世間的には流行ってはないだろ。なに、もしかしてお前、この一ヶ月の間に猫の声の空耳が聞こえる現象に頻繁に遭遇したとでも?」

「まさか。

 で、その、一回だけ泊まった男が一晩中していた話なんだけどね」

 美砂はこちらの目をとらえて話題に誘い、煙草に火をつけた。


 彼の家の庭には猫の墓と言われていた石があったそうだ。

 本当のことは誰も知らない。誰も言わない。けれど、猫の墓、として彼は聞かされてきた。誰から最初にそう聞かされたのかは覚えていない。とにかくそうだと信じていた。彼が生まれる前からここに済んでいた父なら知っているはずだった。

 いちど、それについて聞いてみたことがあるのだが、父はなぜかその質問には答えを与えなかった。ほかに聞いてみたのは、父をのぞいてはただ一人の家族である叔母だった。病気がちで遠くの病院に入ったきりの母の代わりに彼の世話をしてくれている叔母は、聞かれると戸惑ったような顔をして、あれは本当に猫の墓よ、と言っただけだった。父に改めて聞くと、父さんは知らない、いったい誰がそんなことを言ったんだい、という。猫の墓なんでしょう、お墓の形をしている、ほら、と、畳の部屋から庭を指した。そんなことはない、と父はかたくなに、本から顔を上げない。そんなことあるよ、ほら、ここから見えるよ。僕の目には見えてるんだ。あれは誰が建てたの? だが、父は昂然と立ち上がり、部屋を出ていった。少年の目は、父が庭の、少年が指さしたところに捨て去るような一瞥をくれて出ていったのをとらえた。

 母が死んだあと、涌くとは思っていなかった悲しみが癒えてくる頃に、彼は母にその質問を一度もぶつけなかったことに気がついた。だが、見舞いすらほとんど行くことができなかったので、無理はなかった。父が少年を連れていくことがほとんどなかったからで、彼が一人でそこに行くことは禁じられていたし、病院までたどり着く方法を憶えてもいなかった。わずかに数度つれられて行っただけで、父の運転する車での退屈な往復の記憶しかない。彼は自分の意志のみでそこにいこうと思ったことがなかったし、それを不思議にも思わなかった。

 やがて父は家の外に泊まることが増えるようになった。そして、叔母が一人で泣いているのではないかと思えることも、それと同じようにしてみられるようになった。一週間続けて帰ってこなかった父が金曜日の夕方に顔を出し、何かを書斎からとりだした。そして叔母と激しくもめたあと、彼の顔を一目見ただけでまたどこかに行ってしまった。

 そのころから、毎晩ではないが、猫の鳴き声が庭で夜繁くすると彼には思えるようになった。叔母にその話をすると、そうかしら、そんなことはあるのかしら、と、焦点のずれた答え方をする。なぜか彼は、叔母が泣いていたのではないかと何の理由もなく思った。


 公園のブランコに座って前後にゆらゆらとする感覚を腰骨の底の方で感じていると、酔いがいっそう回ってくるかと思うけれどそうでもなく、ビール一杯しか飲まなかった体にちょうどいいくらいになりつつある。美砂はブランコを囲むペイントの禿げた金属の手すりに腰掛けてブラックのジーンズにぴったり包んだ足をするりとのばす。

 あばただらけの黄色い円が空に明るい。ややうつむき加減にしている美砂の表情は眼鏡の奥に隠れてしまっている。猫は明るいところで寝るときに目を前足で隠すと言うけれど。公園の隅にある自治会で使っているようなプレハブ小屋のそばに本物の猫たちが集まってきていてこちらをみんなでじっとみている。にゃあ、と、本気で似せて猫の鳴きまねをしてみる。連中は最初からこちらを人間だと正確に認識していたのでまじめ腐って無視した。バカにされたような気になる。対等に猫と話をするのは難しいのだ。犬の方がまだずっと簡単だ。犬は人の気持ちを斟酌しようとするから。

「猫がじっとみている」

「集会所をとられたと思ってるんじゃない?」

「そうかも。退いてあげたほうがいいなかな。猫って、集会所を取られたときってどうするのか知ってる?」

「集団で襲う」

 いやな冗談だと思った。

「そこ、冷えないか?」

「ブランコの上、暖かい?」

「寒いけど、ゆらゆらしてきもちいい」

「ふうん」

 美砂はさっき自販機で僕に買わせた煙草の封を切り、手慣れた仕草でとんと底をたたいて一本取りだし、立ち上がる。二、三歩の移動の間に月光が黒く垂らした長髪の艶を燃え立たせる。ブランコに腰を下ろすと、手で覆った空間の中で唇にくわえたものに点火し、マッチの軸を投げ捨てる。つかの間、オレンジ色に照らし出された白い頬が残像のように僕の視覚に残った。

「どう思う?」

「どうって?」

「あたしの話。父親の家庭を顧みない冷淡な振る舞いを意に介さず、母親の異常に疑いを示さない男の子、そして独身のままの姉の家庭に入り込んでいる叔母」

「ゴシックロマン風の何かを期待できそうだな」

「そうね、そして、一番おかしいのは、愛情の欠如を誰も気にとめない、ってことかしら」

「本当にその男が話したことなのか?」

「にゃあ」

 ドキリとして美砂の顔を見た。にゃあ、といったのは猫たちのほうだった。だが、美砂は猫が鳴くのを計算したかのように、月光に濡れた瞳でこちらの視線をとらえた。

「続き、聞くでしょ?」


 年月が過ぎていく中で、彼は母と父と叔母の関係を想像し、推理するようになっていったが、特定はむろん、理解にもにも至らなかった。生活そのものは穏やかに保たれていた。叔母は外に出て全く働くこともなく彼を養っていた。父親は月に一度か二度やってきて、生活のもとでをよこし続けていたのだ。父は金を叔母に手渡すところを彼に見せ、金額を告げて言うのだ。

「これでこれからしばらく暮らしなさい」と。

 叔母は無言のうちのそれを受け取り、またそして静かな生活が続く。二人だけの暮らしは表面上は穏やかで、おそらく穏やかすぎるほどだった。ことにその変化のなさは、叔母が昔のまま変わらなかったことのよるのかもしれない。毎日顔を合わせていると変化というか老いが目立っては受け取れないだけなのかもしなかったが、そうではなかった。彼が生まれる前、家が建った直後の頃にとったという写真と見比べてもほとんど遜色ないほど、叔母は若々しかった。変化がないと言うのは時間に抗してそうであるであるだけではなくて、日常からしてそうだ。表情らしき物がほとんどない。彼が何かを言っても、会話そのものは何の滞りもなくないけれど、ユーモアのひらめきもなく、彼に対する気がかりや心配もごく形ばかりの物しかなかった。

 少年の体が成人のものになり始める頃に、暮らしに奇妙な緊張がはらまれ始めた。夜、扉が少し開いていて、向こうに叔母の気配があるのを彼は何度か感じた。寝たふりを続けて気配が消えた後、吐き気と高揚を同時に感じて、いきり立つものを吐き出さなければ眠れなかった。

 やがて少年に恋人ができた。携帯電話を使う時間は増え、叔母と話す時間は反比例して少なくなり、どうやって二人だけになれるかばかり考える。都合よく、珍しく叔母が旅行に行くと言い、事実家を空けた。彼は恋人を家に連れ込んで泊まらせた。気まずい沈黙の後、抵抗と促しの交錯するもみ合いを演じながらまとっていた物を引きはがし、押し上げ、奪い取りして、少女の秘密に押し入り、未熟で性急な動きを遂げた。虚脱感に襲われつつ、声を押し殺して泣く少女の背中をなでているさなか、奇妙な既視感に襲われて、自室の扉の方をみると、そこに、いないはずの叔母の気配があるのだった。彼は半裸の滑稽ななりでベッドを飛び出した。

 

「気持ち悪いな、それ」

「どう分析する?」

「マザコン男の妄想しそうな話だ」

「それは間違いないね。マザコンだと思う」

「でも、そいつは彼女がいるんだろう?」

「まあ、いるんだけどねえ、どういうわけか、つきあって一年以上になってるのに、何もないんだって」

 戸外の冷えを逃れて戻ってきた僕たちは、キッチンのワゴンテーブルを挟んで冷蔵庫から出してきたスライスチーズをつまみにちびちびとカップ酒を呷っている。

「何もって」

「エッチしてないんだって」

 僕は少し考えた。いや、自分たちを基準にしてはいけない。

「いまどきそれくらいめずらしくないだろ」

「でも、つきあって半年でしたじゃない、それからはもう会うたびくらいだったじゃない、あたしたち」

「そうだけど、ひとそれぞれのところじゃないか?」

「まあ、そうはそうなんだけど、ねえ」

 美砂は考え込んでいる。

「してないのがおかしいっていう風なのか?」

「おかしいって言うより、まるでその気がない感じなの、その男。学生のくせに生意気に3DKなんか借りてんだけど、寝る部屋がさ、ふつう、あたしが別の部屋で、恋人同士が同じ部屋、ってなっても別に不思議でも何でもないじゃない? でも、男一人で寝室に寝て、女二人がリビングに布団出して、って風なのね。まあそれくらいならよくあるけどさ、でも、毎晩別の部屋で寝ているっていうのよ、これが夫婦だったら離婚寸前じゃない? でもそうじゃなくて、むしろ仲睦まじいわけね、昼間は」

 美砂はカップを持って立ち上がり、キッチンから部屋に入っていく。こないだまで家賃折半とはいえ自分も学生のくせにこの3DKに我が物顔で住んでいたことは棚に上げているのがおかしいとおもって、一方で、元のさやに収まるつもりなのか、とも思う。あのサマーベッド、もしかして、季節を問わず出す羽目になるな。ただ読書する美砂が横になるために。

 美砂は手ぶらで戻ってきた。

「ポーはないのね?」

「酒は?」

「置いてきた」

 取って戻ってきた。今度は本も持っている。

「尾崎翠が文庫で出てたの?」

「最近見つけた」

「なつかしい……」

 しばらく美砂はぱらぱらとそれをめくった。

「そうそう、コケが恋愛するのよ」

「その猫の話、本当なのかな?」

「それはわからない。それはあたしだって、手の混んだ作り話だと思うよ? でも、その男は本当のことだって言うのよ、不気味でしょ。最後まで聞いたならなおそうよ」

 美砂は『第七感界彷徨』を閉じて、テーブルの汚れているところから遠ざけて置いた。


 彼は実家を出て大学に通うことになった。父は――父と名乗る男、と思うようになっていたが――いつの間にか四年間遠くの大学に通うに足るだけの資金を置いていっただけで何も言わなかった。叔母もまた同様に何も言わず、その金を振り込んだ彼名義の口座をの通帳を渡しただけだった。見送りはなかった。駅までの移動の間、それとは意識していなかったが目に焼き付いていた記憶の風景を、都会にきてからの経験と照らしあわせてみると、生まれてこの方離れたことがなかった故郷がどういう土地だったのか、理解できた。まず、彼の家があった丘。常緑樹の林に囲まれ、日光は黒ずんだ葉ずれの間を抜けてしか射さない。曇天の重い雲は櫛をかけたような林の風景を明るくすることはなく、路傍に家もまばらな道をくるまで降り続け、麓を抜けても、空も土地も薄暗さに支配されていた。やがて道は駅を中心に広がる町に近づくが、空の暗さが軒先の黒ずんだ八百屋や、そこだけ客のは入っているパチンコ屋などに覆い被さっているのだ。天候が違えばまた別の印象もあるのかもしれないが、そこを初めて離れることになって故郷と初めて認識されたその光景が故郷なのだった。埃が雨垂れの跡にそって貼り付いたままの書店の前に車が通りかかったときに、彼は車を停めさせた。新幹線の時間を気にしながら、すべての書棚を一通りみて回った。最近では使うことはあまりなくなっていたとはいえ、そこは生まれて初めて本を買った記憶のある書店であり、今でもまず書店と言うと思い浮かぶのはそこなのだ。文庫の棚の前で、色あせた岩波のポーの短編集を見つけた。故郷の形見のような気持ちが涌いて、彼はそれを買い、帳台に立っていた顔見知りであった店主に東京に行くことになったことを告げて店を出た。

 都会で困ることと言えば、病気になったときに誰も家事を手伝ってくれないことと道に迷いやすいくらいで、金銭が不足することはなかったし、学業については勤勉な性格をもってかじりついた。誘惑は何度か感じたが、同じその性格故か、あるいは父の轍を踏みたくないが為か、放埒で品のない振る舞いからは遠ざかり続けた。

 勤勉以外にこれと言って取柄のない友人たちはあまりいなかった。初めて実感するようになった孤独を逃れるように猫を飼い始めた。生まれて初めて飼う生き物だけに、餌をねだり、撫でる手を求めてすり寄る仕草はかわいらしかった。しかし、懐けば懐くほど、郷里の家の庭の墓石のことが脳裏によみがえり、虫の這うような不快な違和感が体のうちから沸き上がり、猫に対する暴力への欲求が噴き出しそうになるのだ。衝動と戦ったあげく、内心の戦いに敗れる寸前に前に、猫をほしがっていた友人の一人に譲った。家を替わった猫は最初は落ち着かないでいたが、まもなく愛情深い新しい飼い主に慣れた。彼はその友人の家を訪れて猫の顔を見る度に非常な安堵に包まれた。

 故郷を離れて一年ほど立った頃、突然父から連絡があった。上京するので会いたい、という。奇妙に思った。家にいたことすらほとんどない父が何故に今更会いたいなどと。仕事に忙しいということの内実をほとんど想像しつくしている今では疎ましくすらあった。これまでこれまで外で一緒に食事をしたことなどほとんどない。彼の部屋に来るなり、傍目には親子の会話に聞こえるが、空々しい響きしかない挨拶を交わし、近くにどこか落ち着いて話せるところはないかという。

 二人は近くのあまりはやっていない洋食店に行った。ワインと料理を注文し、グラスが満たされ乾杯が住んだところで父が突然切り出した。

 再婚することにしたんだ。

 どうして、と彼は聞き返した。

 あの家を売って、東京に越してきたいんだ。仕事の面でもそっちの方がいいし、おまえも、家族が近くにいた方がいい便利だろう。

 吐き気を感じながら彼は、叔母のことが気になった。

 父は彼と目を合わせずに、独り言のような平板さでいった。

 叔母さんは母さんの実家に帰るんだ。これまでもずっとそうするように勧めてきたんだけれど。おまえがこっちに出てきてからだよ。叔母さんは猫でも飼って、その世話でもしていればいいんだ。


「猫、ね――」

「猫よ」

「にゃあ……」

 美砂は立ちあがってうん、と伸びをする。白いシャツの背中に黒髪が流れ落ちる。

「いま、何時? ……歯磨いて寝る?」

 髪とシャツの下に隠れている、肩胛骨の間の、背骨が軽くうきあがっているあたりに久しぶりに触れてみたかったが、あいにく、今夜はそういう流れではない。美砂は話したがっているから。猫が撫で方を間違うと逃げていくのと同じで、触れ方を間違うとたぶん、僕をほったらかして逃げてしまうだろう。

 さっきから美砂が話しているのはできすぎた話で、その男が話したのだとしたら、明らかに実はなのではない。小説的なあざとさが目立ちすぎるから。だが、そもそも、美砂が創作した物を今ここで話しているのだとしたら、いったい何のためにこんな手の込んだ話をしてるのか、わからない。

 しかも、奇妙なことに、記憶をかすめてくるチリチリとした焦燥感がある。

「明日は休みでしょ?」

「ああ」

「じゃ、話の続きなんだけどね」

「なあ、その話、もしかしてさ、」

「あっちで横になって話す?」

「ああ、――」


 家が手放される前に彼は一度帰っておくことにした。叔母が寂しく彼の実家を去ることに、些少ながらの同情も感じていたし、それに、愛着らしいものがいかに希薄であっても、彼が永い永いこと育った家に対する愛借の念も、ないではなかった。

 一年ぶりに彼を迎えた叔母は、意外なほどにこやかというか、晴れがましさすら漂わせていた。おめでとう、といい、かつて彼の寝室をのぞいたときの厭わしい面影すら感じさせなかった。彼にはあれ以来、恋人はなかった。

 父が役所への手続きの関係があるというので、彼に遅れて戻ってきていた。外に泊まるのかと思うと、家で寝るのだという。三人で宅を囲んで夕食を取ることになった。

 父は上機嫌でいう。この家はもともと、彼の母の父、彼の母方の祖父が持っていた別荘だったという。初めて父と母が二人で旅行したときもこの家を使い、そして結ばれたのもその夜、この家でのこと。母さんはこの家で帰ってこれなかったけれど、ずっと心はここに、お前が生まれて育ったここあったんじゃないかと思うよ。そうだろうか、と彼は思う。母の心なんて、ずっとどこにあるかわからないままだった。むしろ叔母の方がずっと母に近かった。叔母が彼のことで知らないことなど何もないのではないだろうか。

 父は彼の内心など知らないまま杯を重ね上機嫌で話し続ける。母さんは美しい人だった。死んでしまったときは本当に悲しかった。だから、だからというといいわけに聞こえてしまうけど、母さんが死んでからこの家に寄りつくことが怖かった。代わりに、母さんが父さん以上に愛していてお前と、叔母さんにここを守ってもらっていたんだ。けれど、もういいだろうと思う。私には、やっと、母さんと同じか、それ以上に愛せるすばらしい女性が見つかったんだ。あのひとだったら母さんだって許してくれるに違いない。その決断ができたからこそ、こうして話せるわけだ。仕事であちこち飛び回っていて忙しい人で、お前にも叔母さんにもまだ会わせてないが、近いうちに東京で会わせられるだろうから、叔母さんもそのときには上京してくれるとうれしい。

 彼にはその女のことは、どうでもよかった。母に対する関心のなさ同様に、義理の母になる女に豪ほどの関心もなかった。父が選ぶ女に対する関心が涌かない、ということでもあるし、それ以上に、保護者面をしたいが為だけに(彼にはそう映っていて、そしてそれはおそらく真実からそう遠いことではなかった)がいまさら、冷淡な過去を水に流さんばかりに言い訳がましくふるまいながらの父親面には、かつての叔母の夜の気味悪い振る舞い同様に吐き気がした。彼はできるだけこれからはこの二人に会いたくないと思った。こんな者たちが肉親だということが悲しくて、憎たらしくて仕方がなかった。

 夜が更けた。彼は昔使っていた部屋で寝た。天井。本棚。机。ベッドの体になじむ凹み。変わっていない。ドアの外の気配を姿勢を変えずに伺ってみる。何の気配も感じない。ふと、庭のことが気になった。猫の墓。あれはまだあるのだろうか。ほんのわずか飲んだだけの酒が意識を重くしている。手も足も眠りの中に重力に引きずられてベッドに沈み込んでいく。

 鳩尾を中心に体が落ちくぼんでいる。目が覚めた瞬間に感じたことはそれだった。心臓が漏斗の底に詰まっていて、全体重がそこにのし掛かっている。目が覚めた理由はどこから流れてくる熱気と者の焼ける臭いだった。意識がはっきりしてくるにつれて、これが夢でなければ家のどこかが火事になっている、という判断が浮かび上がってくる。体がベッドにめり込んで重いが、上体をかろうじて起きあがらせる。いまや火事の気配は熱気との臭いだけでなく、何かが火に弾ぜる音で明らかだ。逃げなければならない。だが、どこから出火しているのか。一階の炊事場だろうか。鉛のような足を動かしてどうにか扉までたどり着き、開けてみる。廊下の天井を煙の尾が這い回っている。下に降りることはできない。煙は一階につながる階段から登ってきている。壁を伝ってまた寝室に戻り、扉を閉めて煙の侵入を多少でも遅らせらせる。窓を開け放つとさっきから徐々に大きくなってきている木の弾ぜる音が明らかに大きく聞こえた。飛び降りるのは怖かったが、決心する間にも扉の隙間からあふれ出す煙は濃くなってくる。ベッドを踏んで片足が窓枠を乗り越え、あっと言う間もなく視界が広がり、足首に激しい痛みがあり、体全体が庭の芝生にべたりとぶつかって、そして、煙と夜空の星が遙かに高く広がっていた。彼は叔母の姿を視界の端にとらえた。不思議と傷一つない様子で近づいて来た彼女は、彼に覆い被さるようにひざまづいた。重力に引きずられてすべてが暗くなっていくのに彼は必死に抵抗し、からからに乾いた口で尋ねた。

 父さんは?

 死んだわ。

 どうしてわかるの?

 真っ先にお父さんが焼け死んだのよ。

 どうして知ってるの?

 決まっているでしょう。あたしがあの人に火をつけたんだから。知らないとは言わせない。

 なにを?

 あなたの本当の母は死んでなんかいない。この私があなたを生んだのよ。姉さんがおかしくなったのは、あの人が私にあなたを産ませたせい。あなたがあの人を狂わせたのよ。すべて、あなたのせい……あなたのせいなのよ。

 僕のせい? 父さんのせい……そしてあんたのせいじゃないのか。

 どちらでも同じことよ。同じこと。

 叔母が夜空の視界を遮った。ひどく美しい輪郭であるそれが彼の口をふさぎ呼吸を奪う。抵抗の意志が奪われ意識が燃え尽きるまでの一瞬は、地獄に墜ちるという言葉の意味を知るには充分な時間だった。

 夜が明けた。家の焼け残った柱や、梁や、壁などが、生きたまま火葬された不幸な死者の手のように、天に向かって突き上がっていた。庭の木も枝を失い幹も黒くひび割れすでに生命を失った抜け殻が形を保っているだけだった。

 猫の墓は燃え盛った炎の煤すらかぶっていなかった。曙光に誘われて意識のよみがえった彼のそばにはすでにだれもおらず、昔から苔もつかない美しい大理石の小さなその石碑だけが、なにも変わらない姿で佇んでいた。


 時計は午前二時を回っていた。美砂は話し終えた後、季節はずれのサマーベッドの上で服を着替えないまま浅く穏やかにすうすうと寝息をたてている。僕は彼女が使っていた部屋から毛布を出してかけてやり、床の本を少し片付け、自分の部屋から布団を一式を運んでその横に敷いた。

 美砂がでていってしまったのは僕がこの間書いた小説のせいだった。推敲しようと思ってひととおりプリントアウトしたものを、出来が悪かったので捨てるつもりでいたら(一番ひどいのは題名だった)読まれてしまったのだ。小説の中で僕は不実な男で、美砂はひどく淫乱で、確かにそんな風にかかれていては誰しも不愉快ではある。「小説と虚構の違い」や、「私小説家がどのように事実を翻案して書くか」とか、「事実を越えた真実を書くことが私小説」等々もっともらしく説いたところで簡単に釈伏されるような素人筋ではない彼女は、不機嫌に何日も黙り込み、ある朝家出してしまった。携帯電話に謝りのメールを送ったら、一ヶ月ほど友達の家を転々としてそっちには戻らないからそう思え、大学が始まる前には戻るとのことで、あとはいくらなにを送信しても返信してくれなくなかった。

 唐突に帰ってきた今、美砂は僕の横で無防備に眠っている。

 僕の想像していた、彼女の帰還はこんな風ではなかった。彼女はこの何の教訓もない通俗小説的なサスペンスを語るために戻ってきたのだろうか。

 戻ってきてくれてありがとう、と言ってやるべきなのか、迷っている。そっと髪に触れる。黒い髪は記憶と違ってやや記憶と比べて、やや艶を失っている。

 その髪と、着たままの黒いシャツに囲まれて、か細い首筋が僕の手の届くところにある。折れてしまいそうに繊細な筋肉の束であるそれに、殺人的な力で襲いかかる手の姿が思い浮かぶ。食い込む爪、空気を求めて中に突き出される舌、充血する眼球。僕は美砂を殺したいとも思ったことなど一度もない。だが、ここにいるのは復讐の為によみがえった分身だという妄想は、払いのけるのが難しかった。

 ふと、明日、実家に電話をしてみたくなった。僕はなにを話すだろう。あの、いつか姿の見えなくなった黒猫を、もしかしたら僕は殺したのかもしれない。庭には墓石などなかった。いなくなった猫のことなど誰も覚えていないかもしれないと思う。それでも聞いてみたい。僕は猫を殺しましたか、お母さん、とか、僕は庭に猫を埋めたことがありますか、とか。頭がおかしくなったと思われるかもしれない。僕は一人でクスクスと笑った。

 お母さん、知らないかもしれませんが、僕は猫を殺したことがあるみたいですよ。あるいは、もっと大変な生き物や人を殺したかもしれません。だって、そうでない、なんて言えますか。夜の公園でおしゃべりしてするだけで猫の集会所が台無しになるように、生きているだけで必然的に誰かの場所を奪っているだろうし、それに、自分のやりたいように生きているだけで他人の人生の機会をぶちこわしにしていることだってあるのかもいしれませんよ。

 僕は寸手で今にも電話をかけるところだった。そうしなかったのは、美砂が半端に開いた瞼の下からこちらをじっとみていることに気がついたからだ。

 僕は妄想している間ずっと続いていたクスクス笑いをやっと止め、そして言った。

「君は僕を殺しに来たんだな」

「そうよ」

 彼女はさっと僕の首に手をかけ、思い切り引き寄せ、そして唇を吸った。気が遠くなるほど深く、永く。

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