1:さらば残念イケメンの婚約者
春の風が、私の亜麻色の髪を揺らす。
見通しの良い公園は、私が通う学園のすぐ近くだった。その公園の四阿で、私は過去何度も目にしてきた光景を、またしても見せつけられていた。
「何度も言うが、俺がお前を愛することはない。俺が誰を愛そうと、文句を言うな。嫌ならこの婚約を破棄しても良いんだぞ」
目の前に座る婚約者は、傍らにピンクブロンドの髪の美しい女性を抱き寄せながら、半笑いで口を開いた。
その瞬間、私はまるで地面が揺れたかのような大きな衝撃を受ける。
彼の言葉に、ではない。何故なら、彼が口にしたように、その言葉は何度も何度も耳にしてきたからだ。
脳の中心から体全体に広がるように受けた衝撃は、一瞬だけ立ちくらみのように私の重心を揺らがせる。
けれど、そのすぐ後にしっかりと大地を踏みしめ、婚約者の目を捉えた。
「な、なんだよ。いつもみたいに、辛気くさい顔で、小さな声で俯いて『かしこまりました、ハティス様。何も見ておりません。婚約を継続させてください』って言えよ。あぁ、ついでに『私のようなみすぼらしい娘が婚約者でいられるだけでも、幸せです』とでも付け加えて貰おうかな」
「やぁだぁ、ハティス様ったらぁ。ルイジアーナ伯爵家の忌み子のレダ様を、これ以上惨めにさせるなんてぇ。ふふふ。かぁわいそう」
婚約者のハティス・オルグナイトも、その隣にいる女性も、私のことをあざ笑う。そうね。今までの私なら、体を縮こまらせて、彼に言われたとおりにしていたでしょう。我ながら、本当に腹立たしい。
わざわざ学園の休日に、家に手紙を届けて呼び出しておいて、不貞を見せつけるとはどういう性癖なのかしらね。休日は家で使用人の仕事をやらされていることが多いから、外出が難しいというのに。この男は私が困るのを知っていながら、毎回毎回休日に呼び出すのだ。
「あぁ、うるさいわねぇ。婚約者がいるくせに堂々と何度も不貞を働く男と、その相手。しかも二人とも、我が家よりも下の家格だって言うのに偉そうに」
この国は絶対王政の元、貴族がいて、その下に平民がいる。貴族は公侯伯子男準男爵の順で家格が設定されていて、これは基本的に権力の強さと比例しているのだ。
つまり、伯爵家の娘である私の方が、子爵家の嫡男とはいえまだ当主になっていないのであれば、ハティスよりも立場は上。それに──
「そちらのお嬢さんは確か、コールレッド男爵家の次女だったわね。お望み通り、婚約は破棄しましょう。お二人にはしっかりと慰謝料を頂きますからね」
──男爵家の次女の彼女なんて言わずもがなだ。
「な?! 婚約を破棄するなら、お前が慰謝料を払うんだろうが! いや、それよりもレダ。お前いつもと全然違うじゃないか」
私の言葉に、ハティスは顔を真っ赤にして文句を言う。あらあら、唯一の取り柄である顔面が、酷い表情になっているわよ。
そもそも、最初の言葉遣いが間違っているのだ。婚約を破棄する前に、解消や白紙という選択肢が当然ある。破棄となれば、どちらかが有責になるのだから、そうなれば目の前で不貞を見せつけたハティスが有責になるのは当然だろう。
「そうですね。私もいい加減気付いたんですよ。婚約者に馬鹿にされて、不貞をする度に何度も呼び出されては、好きでもない男に一方的な暴言を吐かれるのも、家族に理不尽に虐げられるのも、甘んじて受けている必要はない、って」
「な……な……」
さっきから、な、しか言ってないわね、この男。
まぁでも、そうもなるか。今までの私、レダ・ルイジアーナは、薄幸が服着て歩いているような女だったものね。正直、ついさっきのあの衝撃がなければ、今も薄幸の大安売りのような状態だったろう。
家族に常に罵詈雑言と共に虐げられ、休日は家の中の労働をさせられ、婚約者には堂々と不貞をされ。よくもこんな状況で、耐え忍んできたものだわ。
何がどうして、そんな理由はわからない。
ただ、先ほど突然に私は自分の前世を思い出したのだ。
そうしてあの一瞬で、前世の私と今の私が混ざり合い、前世の性格に塗り変わった。幸いなことに、混ざり合っただけなので、記憶やらなにやら全ては、今生のレダのものがある。
前世の私の名前はよく覚えていない。けれどどう生きてきたかはよく覚えているのだ。
──氷河期世代の就職難で、派遣からのようやく正社員就職かと思えばブラック企業。そこで共に戦ってきた相手と結婚し、妊娠。産休のない会社を退職し、夫も転職に成功したかと思えば私が育児とパートタイムに奔走しながら家事をしている間に、浮気をしやがった。
もちろんきっちり証拠を揃えて慰謝料ぶんどって離婚したけどね。
そこからどうにか中小企業に再就職して、子どもを育てながら再婚したところで、歩きスマホしていたサラリーマンにぶつかって、階段から落ちて死んだ……んだと思う。
そこで記憶が途切れているのだ。
せっかく温かい家庭を築いていこうという時に……! 許すまじ歩きスマホ。
おっと、ちょっと考えにふけってしまった。
そんなわけで、不貞というものに対して私は絶対に許すつもりはない。前世のようにしっかりと、償っていただく必要がある。前世の日本と違い、この世界では婚約はもうほぼ婚姻のようなものだ。婚約中の不貞も、婚姻中の不貞と同等に考えられる。
「ハティス様の不貞は、社交界では有名ですからね。婚約破棄も、慰謝料請求も問題なくできるでしょう。そちらのコールレッド男爵家のお嬢さん。あなた先日の夜会で、新しくハティス様の恋人になったと吹聴されていましたよね。これなら問題なくコールレッド男爵家にも慰謝料請求が可能ですわ」
私の言葉に、彼女は顔を真っ青にして今にも倒れそうだ。でも仕方がないわよね。売約済みのものに手を出したなら、相応の罰が下るものなのだから。
まぁ、オルグナイト子爵家はお金持ちの新興貴族だ。慰謝料くらいたいしたことはないだろう。むしろ、痛手となるのは、歴史ある我がルイジアーナ伯爵家との繋がりがなくなることだと思う。
「それでは、私はこのあと手続きをする必要がございますので失礼いたしますわ」
「レダ! お前の父親と兄が、黙って婚約破棄をするとでも思っているのか! 我が家の金が欲しくないのか!」
華麗に礼をして踵を返すと、後ろから遠吠えが聞こえた。
ばかばかしいが、立ち止まって教えてやることにする。
「私との婚約が成立した際に頂いた結納金。あなたとの婚約、婚姻で我が家が得られるお金は、それだけの約束でした。ですので、今回の婚約破棄による慰謝料請求は、我が家にとってはむしろ歓迎すべきものですわね。それに、オルグナイト子爵家ほど裕福ではありませんが、我が家は別にお金に困っているわけではありませんのよ」
そう。我が父と兄は、私をさっさと家から出せればそれで良かったのだ。
だからこそ、そんな条件で私を嫁に出すことにしていた。それをこの男は、金目当てに売られたと勘違いしたのだ。単に、さっさと家から出したいが、実家より格上に嫁がせたくない家族と、新興貴族が箔を付けるために旧家と繋がりを持ちたかったオルグナイト子爵家の利害が一致しただけのこと。
今までの私であれば、家族の邪魔にならないために、だとか、これ以上惨めにならないために、とか言って耐えて嫁ごうとしていただろう。
あんな男の家に嫁いで、惨めにならないわけないのに、何を耐えていたのだ。
さぁ、今から家に帰って、家族を詰めて改心させないといけないわね。
今までのレダと違って、氷河期を生き抜いてきた私は、自分を殺して我慢するなんてこと、もう二度と絶対にしないわよ。