シェリーに口づけ
ラジオから70年代か80年代のロマンチックな曲が掛かっている。何てタイトルだっけ、とアクセルに聞こうとしたけれど、それって多分、彼の鼻歌を遮ってまで確認すべき内容じゃない。
ふんふんと柔らかい音色を放つ合間に、彼もこの素敵な匂いを嗅いでいるらしかった。コーヒーテーブルとガーデンチェアじみた貧相な椅子が二脚で一杯になるキッチンだもの。換気扇をつけなければ、必然的にフライパンからもくもく噴き上がる湯気が籠もる。
このまま誰も起きてこなければ良いな。木製ビーズの簾越しに、居間を覗く。折り重なるようにして寝息を立てている男女は7、8人。何人かは半裸、全員がここへ押し掛けてきたら、絶対定員オーバーになるし、風紀が乱れる。
昨晩車に乗せてくれた女の子に誘われて訪れたこの部屋で、高校生は僕らだけだったと思う。入れ替わり立ち替わりしていたお客は皆判で押したように「パリ大学」と宣言していた。(番号は分からない)
勿論僕らだって、イートンとル・ロゼなんて馬鹿正直に答えはしなかった。僕はオックスフォード、アクセルはイェールって認識されているはず。嘘はついていない。来年にはちゃんと入学できる手はずがついている。僕らは真面目だ。しっかり勉強したし、どちらの親も自分の出身校へ寄付金を惜しむほど馬鹿で吝嗇じゃない。
度を超したどんちゃん騒ぎの後にも関わらず、アクセルは至って涼しい顔をしている。用心深い彼は、最初から最後までビールばかり飲んでいた。僕はよく分からない、エナジードリンクとイタリアのレモン・リキュールのパンチを味見し過ぎてしまったので、ちょっと頭が痛い。テーブルの上で両肘ついて、髪の毛を引っ掻き回している僕を見ながら、アクセルは笑った。僕の本当に大好きな、脇腹をこちょこちょと擽られているような顔で。実際、「労働の義務はトーストを焼くだけで勘弁してあげるよ」って呼びかける声は、ちょっと弾みすぎて、息が切れて聞こえるほどだった。
パリはグルメの街だって言うけれど、このアパルトマンの部屋の主はもっぱらリタリンとレッドブルと、アルコールだけで生活してるんじゃないかって位。見つけ出せたのは埃だらけの食器棚からツナの缶詰が1つ。冷蔵庫のスキャリオン(分葱)は先端が茶色く萎びていたし、トマトは熟れ過ぎて今にも破裂しそうだった。
僕は料理なんて、家でも通いの女中にして貰ってたから、よく分からない。でもアクセルは上手だった。この一週間近いヒッチハイクの間、2回ほど手料理を振る舞ってくれたけれど、いつも信じられないくらい美味しかった。だから今だって期待してしまう。アルコールが作る胃の重怠さなんか、簡単に吹き飛ぶくらい。
美味しい料理を作る人間は、調理の際の手際もいい。シンクの下で空のワインボトルに紛れていたオリーブオイルと、ツナ缶の油をフライパンに注ぎ、熱している間に、野菜をみじん切りにする。トマトは刃を入れたらパチンと弾けて汁まみれになっちゃうんじゃないかってハラハラしたけれど、ペティナイフであっという間に角切りにされていた。
温められたオイルの中で野菜が十分煮立てられたら、スプーンでツナを入れる。出来る限り身をばらけさせないようにゆっくりとかき混ぜながら、アクセルは「ねえブレント」と呼びかけた。何だかお母さんみたいな声だった。
「うん」
「君、酒癖が悪いって自覚した方がいいよ」
もしかして叱られたのかな、と自覚したのが遅かったのは、煤けた窓から差し込む朝日を背負っているせいで、アクセルの顔が影になっていたからだ。でも見えていたところで、きっと彼の表情って、全然怒っている風じゃなかったと思うよ。口調だって全然、真面目な感じじゃなかったし。
「昨日のこと覚えてる? あの変なパンチをがぶ飲みしてさ……びっくりしたよ、急に抱きついてくるんだから。ここが僕の国のディープ・サウスだったら、僕達2人とも今頃リンチされて縛り首だ」
「ええっと、抱きついただけだっけ」
アルギニン酸とカフェインとアルコールは、人を興奮させて、とてつもなく大胆にさせてくれる。お腹の中がカッとなって……部屋の隅っこで、数少ない英語を話せる女の子と喋っていたアクセルを見たときなんか、消化器が全部焼き尽くされてしまうかと思った。彼は女の子の母性本能を呼び覚ますのが上手い。一見無邪気そうに見える笑顔で簡単に懐へ入り込んで、あっという間にモノにしてしまう。普段僕がいない時も、ああやって引っかけてるのかと思ったら、僕は釣り上げられた魚みたいにジタバタするしかない。意地悪されたんだから、ちょっとくらい意地悪し返したって許されるんじゃないかな。
「君にキスしたよ、覚えてないの。頬にも、瞼にも、唇にも」
「ああ、してたね」
「それに多分だけど、シャツの中に手を入れて……そうだ、脇腹を擽った!」
蘇った記憶が心底嬉しくて、思わず声量が跳ね上がる。僕自身の脳にもじいんと少し響いた位だから、アクセルは余計頭を痛めたんだろう。スプーンごと手を突き出して「覚えてる!」と悲鳴を放った。居間からウーン、と怠惰な呻き声が聞こえてくる。
「覚えてるってば。僕が言いたいのは、人前であんなことしないでってこと。失礼だよ」
「うん、そうだね」
間違いなく僕は、調子に乗りすぎてしまった。これだからアルコールは怖い。昨日はパンチだけだから擽りっこで済んだけれど、あそこでマリファナなんか回ってきていたら、もっと過激なことをしでかしていたかも知れない。そんなことは駄目だ、アクセルの言う通り、彼に失礼だ。
でも逆に、アクセルからされるのなら構わないかなって、ちょっと思ってしまった。事実、彼はハッパを吸うと人前でも僕にべたべたくっついて、頬にキスをしてくれたりもする。
別に隠している訳じゃないし、偶にしか会えないんだから、もっと開放的になっても良いのかも、なんて。この夏休み、2人で旅行できてとても楽しかった。あっという間に終わってしまって、とても残念だ。今日の午後には、アクセルがお父さんと待ち合わせしているレストランへ行かなければならない。ヴァンドーム広場前のリッツまで来たら握手して(いや、頬にキス位はするかな)お別れ。次に会えるのはどれだけ頑張っても、9月のレイバーズ・デイだろう、それもよっぽど運が良ければの話だ。
僕はアクセルのことが大好き。毎日のようにビデオ通話をしていても、やっぱり直に顔を合わせるのとは大違いだった。会えないと寂しくて、寂しくて、彼の使ったカトラリーをずっと舐めて含んでいたいような気分になる。そうすれば、赤ん坊がおしゃぶりをしゃぶるのと同じで、少しは安心を感じることが出来るだろうか。
まるで僕の心を読んでいたかのように、アクセルは手にしていたスプーンを僕の口へ突っ込んだ。金属はまだ熱を保って、舌の粘膜と歯のエナメル質をずきずきさせる。その合間に稼働する味覚が良いものを探り当てたから帳消しにしてあげるけど。オリーブオイルのしつこくない油っ気に、ツナの濃いエキスが混ざり込んでコクがあるものの、ちょっと物足りない。
「そりゃ塩胡椒がまだだから」
自らの言葉へ促されたように振り回される胡椒瓶は目が詰まっているのか、力任せに上下される。やっぱり僕って、彼といないと駄目なんだと思う。情けないなあ、と頭を掻きたくなるのと同時に、何だかにんまりしてしまう。幸せだ、温かい食事を口へ運ぶときのように。
トースターから取り出したフランスパンにツナを掛けながら、アクセルはそっと囁いた。これ以上、魚の身がぐちゃぐちゃにならないよう気を使っているのか、とても静かに注意深く。
「ああいうことは、2人きりの時にね」
2人きりの食卓。ボナペティ、なんて気取って言うアクセルは、僕があんまり嬉しそうにしているのを見て、結局すぐに顔を伏せてしまった。そんな耳まで真っ赤にされたら、こっちまで照れてしまう。
こんがりしたパンをちぎってソースを染み込ませ、トマトとネギを拭い取りながら、何だか新婚家庭みたいだって思ってしまった。ちょっと馬鹿っぽい考えかな? でも、彼と結婚したら……それって絶対、いい感じになる。アクセルのことだから、「気が早いよ」って呆れそうだけど。
もしも結婚したら、彼が毎日料理を作ってくれる。お皿を片づけるのは僕がしよう。洗濯だって引き受ける。最近、寮のコインランドリーの使い方を覚えたから余裕だ。掃除は……ロボットに任せればいい。何ならハウスキーパーを雇おう……でもやっぱり、新婚の間は2人きりがいいかも知れない。
僕は戦争なんて真っ平ごめんだから父さんの跡を継ぐ気はないけれど、アクセルは実家の会社で働くんだろう。そうなると僕がアメリカへ移住することになる。
アメリカ料理ってピザとハンバーガーとフライドチキンってイメージだけれど、案外こういう健康的な献立だってあるみたいだし。アクセルが教えてくれたから、怖くない。
「おいしくなかった?」
フォークで突き崩すツナから視線を外した先で、アクセルの表情はびっくりするくらい心配そうな色に染まっていた。あんまり慌てたから、つまんでいたパンごと指をオイルの中へぐっと沈めてしまう。あったかくてぬるっとして、違うところへ突っ込んでしまったみたい……うわあ!
「そんなことない、凄く美味しい! ちょっと、考え事してたんだ」
「怖い顔してたよ」
「ううん」
君と一緒に大きくて毛足の長い犬を飼いながら暮らしたら、まるでホームドラマの中の生活みたいに幸せだろうな、なんて思っていたと言える訳がない。それって凄く馬鹿みたいだ。
「ちょっと……うん、思い出せなくて。さっき君がハミングしてた曲の名前」
言葉に窮して、仕方なく僕は無理矢理記憶の中から引き摺り出した言葉を、滑りの良くなった舌に乗せる。このツナはとても美味しい。全然パサパサしてなくて、ネギが臭みを消してくれるし、仕上げのトマトが作る酸味は食欲を亢進させた。白ワインでもあったら最高だろうに。
「ハミング?」
「そう。ラジオで掛かってたろう」
窓際に載せてあるラジオからは、今も聞いたことのない、シャンソンとでも言うんだろうか。この国のアイドルが歌う鼻にかかって甘ったるいメロディが、まだ残った眠気にべたりと掛けられ、拭き取れないままでいる。
アクセルは深く考えもせず「あー、何かそう言えば……」と呟きながら、油でべたべたになった指を舐めた。
「分かんない。メロディは覚えてたんだけど」
あんまり繰り返すから、僕も覚えてしまったくらい。トゥ、トゥ、プ、マ・シェリ、マ・シェリ。
マ・シェリって確か『愛する人』って意味だっけ。もっと真面目にフランス語の授業を受けておけば良かったってつくづく後悔する。いや、知らないままで良かったのかも。小鳥みたいな軽やかさで口ずさむアクセルの横顔を見ているだけでも、食べてしまいたくなる位の可愛さに、胸がドキドキしたんだ。この甘いラブソングの歌詞まで知ってしまったら、きっと僕、彼を抱きしめて、そのままどうにかなってしまったかも知れない。
今でも僕、よっぽど飢えて渇いてるみたいな顔をしてたみたい。何か飲もうよ、と言ってシンクの下をもう一度覗いたアクセルを追いかけて、中身が入っている瓶を探すのにはちょっと時間が掛かってしまった。僕は紅茶でもコカ・コーラでも良かったんだけれど、この家にはそんなものすらない!
ようやく見つけた(僕が見つけた!)ボトルはラベルがボロボロで、銘柄が読めなかった。アクセルは子供っぽく目を眇めて「ボデガ……スペイン語かな。ワインみたい」
「酸化してるかも知れないよ」「ワインなんて古い方が良いんだろ」
汚れたグラスに注いだら、幸い甘ったるい芳香が料理のもったりした匂いに混ざる。軽くグラスをぶつけて乾杯。ああ僕らって、まるでパリに暮らしてる大人みたいじゃない? しかも人生の中で一番良い季節を過ごしている大人。
一口含んだワインはカラメルみたいな、ナッツみたいな、お菓子じみた濃厚さが喉を焼く。さっきカリカリになったフランスパンの縁で切った、口の中の傷からじんわり沁みて、くらくら来そう。
アクセルにキスしたい。2人きりだからしても良いかな。でもがっつくのは何だか子供っぽくて恥ずかしい。
そんなことを考えながら、舌先で小さな傷を擦っていたら、先手を打たれた。反射的に掌を開けば、華奢な褐色の手が滑り込んでくる。早朝なのにもう忍び込んでいる蒸し暑さでじっとりしている僕の手と同じ位、彼も汗ばんでいた。見つめ合えば生まれるはにかみ笑い。もう我慢なんて出来ない。彼の椅子が、がたんと後ずさり、シンクにぶつかったのが合図だった。
大人ならキスくらいしたって構わないさ。なんて次に会った時父さんに言っても、きっと目くじらを立てられないに違いない。今時子供でもこれ位する。
でも年齢詐称して、お酒を飲んだことは黙っておかなきゃね?
終