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7. 乳母と

2021/8/27投稿①

 初めての邂逅以来、小さな淑女たちは毎日のようにミヒャエルの部屋を訪れた。

 おやつ時の、母が部屋にいる時間帯にやってくる少女たちの笑い声は、魔力操作で煮詰まったミヒャエルの体をほどよく解してくれた。

 母と、3人の子ども達で過ごす時間は賑やかで、それと同時に穏やかだった。

「遅くなってしまったけれども、そろそろミヒャエルの乳母が来るわ」

「まあ!それは良かったわ」

 母の言葉に、ブリジットがぱっと笑う。

 通常、乳母というものは子どもが生まれてすぐの頃から付けられるものだが、ミヒャエルにはまだおらず、貴族男子にしては珍しく実母の乳と羊の乳で育っていた。

「乳母…?ウィンはね、今日、髪を結んでもらったの!」

「まぁ、素敵。私もお願いしてみようかしら」

 姉妹はニコニコと微笑み合っている。

 乳母は母乳を提供するだけでなく、ある程度育った後も子どもの遊び相手や教育係として重宝されている。乳母は貴族の子女に、講師をつける前の最低限のマナーを教え込む存在となるため、それなりの家柄と人柄が求められることになる。

 この辺りはミヒャエルの前世のヨーロッパ史における乳母のあり方よりも日本史におけるあり方が近いようだ。そのような乳母の使い方をするのは、それほど長く教養のある女性を雇用できるような、潤沢な資産がある家庭に限られる。しかしミヒャエルの生まれた家庭は3人の子どもそれぞれに乳母を用意するだけの財産があるようだ。

「ミヒャエルの乳母はどのような方でらっしゃるの?」

「…私の妹のような人よ」

 母は娘の疑問に精巧な笑みで答えた。


 *****


 ミヒャエルに乳母があてがわれたのはそれから5日ほど経ってからのことだった。

 母と共にミヒャエルを訪れたその女性は「あら、あらあらあらあらまあまあまあまあ」と感嘆なのか感心なのかわからない言葉を発しながら、ミヒャエルを腕に抱いた。

「愛らしいお子ですこと。カレン様の実の…私、なんという幸運でしょうか」

 母、カレンは女性のその様子を見て満足そうにしている。

「この子を頼むのなら、絶対にあなただと思ったわ、マルガ。産後すぐのあなたには悪いのだけれど、どうかこの子をよろしくね」

「そんなもったいないお言葉ですわ」

 何かを堪えるように目を伏せるマルガの耳に、カレンは形の整った唇を寄せた。

「私の子を貴女の子の兄弟のように育てて。私も貴女の子をこの子の兄弟のように思うわ」

 乳母とその雇い主にしては奇妙な言葉に、ミヒャエルは母の顔を仰ぎ見た。何か、単なる友人同士以上の何かが、頭上で顔を寄せ合う2人から感じ取れた。

 自分の子どもの兄弟のように思うとはつまり、実子のように思うということだ。乳母が、自分が世話をする子を実子のように思うことがあるのは、ミヒャエルも知っていたが、乳母を雇った女主人が、乳母の子を実子のように思うというのは、奇妙なことだ。

 2人の女が、互いを見つめながら、少しずつ顔を寄せていく。もう少しで、2人の淡く色づいた唇が触れ合うかというところで、母がふと口元を緩めた。

「よろしくね、マルガ」

「…仰せのままに、カレン様」

「そろそろ娘たちが来る頃だわ」

 先ほどまでの、ミヒャエルがこの場にいてはいけないような雰囲気は消え去り、2人の女性はテキパキとミヒャエルの乳兄弟となるらしいマルガの息子のベッドをどのあたりに置くか、育児の手伝いをする使用人をどのように扱うかなど、実に乳母と勤め先の女主人らしいやりとりをした。

 ようやく話が一段落ついたところで、遠くから微かにパタパタと足音が聞こえてきた。足音は部屋の前でピタリと止まると、控えめなノックがした。

「失礼します」

 普段と違い、室内にマルガがいることに気がついたらしいブリジットが、いつもよりも丁寧な所作で入ってくる。その後ろから入ってきたウィナフレッドは見知らぬマルガに驚いたらしく、メイドの長いスカートにしがみついた。

「2人とも、先日話したでしょう。こちらがミヒャエルの乳母になるマルガレーテ・デューラー婦人よ。私の学園時代の友人でもあるわ」

 どうやら先ほどアブナイ雰囲気を醸し出していた2人は昔からの友だちらしい。

「まあ、お母様のご学友でらした方とお会いできるなんて、とても嬉しく存じますわ。ブリジットと申します」

「ウィナフレッドと申します」

 背筋のピンと伸びたお辞儀(ニックス)をしたブリジットを見て、ウィナフレットも少しぐらついたがドレスの裾を摘んで頭を下げた。

「素敵なお嬢様方ですこと。マルガレーテ・デューラーと申します」

 礼儀作法を全く知らないミヒャエルの目にも美しく映るお辞儀(ニックス)をしたマルガレーテは上品に笑った。

 マルガレーテがミヒャエルを腕に抱いて、女性たちはソファに移動した。

 ミヒャエルにとっては驚くべきことなのだが、この家は生まれたての子どもに一流ホテルのスイートルームよりも広い部屋をあてがっている。したがって、大人2人と、子ども2人に乳飲み子1人が座ってもスペースが余るようなソファが置かれているし、少しものを置くためのものにしてはあまりにも立派な背の低い卓まで設置されている。

「ねぇ、マルガレーテ様、私お母様の学園時代のお話を伺いたいですわ」

 ブリジットが目を輝かせながらマルガレーテに願う。

 本来ならば乳母は使用人のため主人の娘であるブリジットが敬語を使う必要はない。しかし、母のカレンが学園時代からの親しい友人と紹介している点、そして数ヶ月前に生まれゆくゆくは家督を継ぐだろうと思われるミヒャエルの専属であるという点から、変則的に敬語を使用していた。

 このような判断は、長子として教育を受けてきたといえど、7歳の子どもにそうそうできることではない。

 そして、この判断をカレンは気に入ったらしい。ブリジットに小さく頷き、マルガレーテに悪戯っぽい眼差しを向けた。

「カレン様は学業がとても優秀な方でした。同じクラスで目立たない学生だった私のことも気にかけてくださる、お優しい方でしたわ」

「懐かしいわ。貴女は算術と器楽が得意で、試験前にはよく付き合ってもらったわね」

「そういう貴女は語学とダンスがお得意で、試験前に助けていただきました」

「まぁ、そうだったかしら?助けた覚えはないけれど、試験の後に食べたケーキが美味しかったのは、よく覚えているわ」

 かなり改まった調子で話していたマルガレーテの言葉が、学生時代の話になるとだんだんと砕けた調子になってきた。

 学園ではカレンもマルガレーテもお互いにもっと親しく話していたのだろう。

「学園の試験とは、やはり難しいものですの?学園に行くのはまだ先ですけれど、心配で」

「ブリジット様は熱心な方ですのね。もう家庭教師はつけてらっしゃるのでしょう?」

「えぇ、それはもう。5歳の頃からお勉強を」

 ブリジットがふふんと胸を張る。7歳の子供が少し大人ぶっていて微笑ましい。

「先生のおっしゃることをよく聞いてきちんとお勉強していれば大丈夫ですよ。今はどのようなことを?」

「今は建国期の古典を」

 建国期というのが何年前なのか、ミヒャエルにはさっぱりわからなかったが、当時の文学が「古典」と呼ばれる程度には昔のことらしい。

「学園ではたしか『ゲルン叙事詩』を最初にしたわね。どの方も家で一度は触れたことがあるから、試験の平均点が高かったわ」

「懐かしいですわね、カレン様。そのあとは『アダルベル公伝』を…」

 古典というのもそれなりにあるらしい。家庭教師に一通り習い、その後学園でも学び直すというスタイルのようだ。

「ウィンも、ウィンもこてん(・・・)したい」

 姉たちがお勉強の話をしているのを聞いてうらやましくなったらしい。ウィナフレッドが唇を尖らせた。

「ウィンには少し早くないかしら。私も5歳の誕生日から始めたのよ」

「いや、ウィンもしたい」

 頑なに言うウィナフレッドにブリジットもカレンも困った表情を見せる。

「ねぇウィン」

「いや」

「ウィン、古典というのはね」

「いや」

 ウィナフレッドはイヤイヤモードに突入してしまったらしく、姉の声に耳を傾けずに嫌々と繰り返す。

「ウィン、あのね」

「いや」

「ウィンはまだ字が読めないじゃない」

「いや、読んだ」

「読めてなかったわ。この前なんて」

「いや、いや!」

 癇癪が爆発しそうなウィナフレッドと、イヤばかり言われ続けてヒートアップしてきたブリジットの声が、だんだんと大きくなってくる。

「ウィンったら嘘をつくのね」

「いや」

「嘘つきにはお勉強なんて早いわ」

「いや、おべんきょうなの!!」

「まぁ」

 収集が付かなくなりそうな姉妹のやりとりに穏やかな声が割って入った。

「ウィナフレッド様は古典からしたいのね。私の最初はダンスだったわ」

 ミヒャエルを抱いたマルガレーテが微笑んだ。

「ブリジット様は?」

「あ、私は植物についてが最初でしたわ。お花が好きなので本を読んで先生のお宅の庭園を拝見して…」

 ゆっくりとうなずいたマルガレーテが穏やかな笑顔をウィナフレッドに向ける。

「最初のお勉強ですから、好きなものから始めるのがきっといいわ。ね、カレン様もそう思われるでしょ?」

「それがいいわ」

「ウィナフレッド様は何が好きかしら」

「ウィンは、ウィンはね、お絵かきがすき」

 数日後、ウィナフレッドは絵のレッスンを受けることになった。



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