11. 神殿にて
ゴトゴトと車輪が回る音とともに上がってくる振動で内臓を掻き回されながら、ミヒャエルは再び馬車に乗っていた。もう一生分の馬車に乗ったと思った領地から王都までの旅の翌日である。
体は絶不調であったが、それでも心は浮き足立っていた。今向かっている「神殿」と呼ばれる場所へ行けば、自分がどんな魔法を使えるのかがわかると聞いたからだ。
ライナーは長旅を経てすっかり馬車嫌いになったようで、屋敷の前に止まった馬車を見ただけでふにゃふにゃと泣き始めてしまったが、ミヒャエルの方は行き先が神殿だと両親が話しているのを聞いてにんまりと笑った。
母と、普段はあまり一緒に過ごすことがない父と同じ馬車に乗って移動している。ライナーとマルガレーテは、後続の馬車に乗っている。前後に何台か並んでいる馬車には護衛の騎士たちが乗っていた。領地から王都までの馬車では、カレン、マルガレーテ、ミヒャエル、ライナーの4人で同じ馬車だったが、今回は父と馬車が一緒になった代わりに、マルガレーテとライナーとは別で移動することになった。
血は繋がっているが滅多に顔を見ない父親よりも、毎日一緒にいるマルガレーテにすっかりなついているミヒャエルとしては、なんだか面白くない心持ちだったが、神殿へ行くのが子どもの一大イベントかもしれないと考えると、父親がついて来るのも仕方のないことかもしれないと思った。
少しばかり父親に対して辛辣なミヒャエルである。
ミヒャエルは神殿とマルガレーテたちに思いを馳せることを一旦止め、自分の正面に座っている父親をスッと見た。使用人からは「旦那様」、母からは「あなた」、姉たちからは「お父様」と呼ばれる男の名はハインリヒというらしいと、ミヒャエルは最近になるまで知らなかった。ミヒャエルはこの人物が己の父親で、財力がある貴族であるということしか知らなかった。
ハインリヒは、藍染の液のような深い深い紺色の髪で、切れ長の目に収まっている瞳は、翠玉を思わせる煌めきだった。表面にムラがある馬車の窓ガラスから差し込むチラチラとした光を受けながら背筋を伸ばして座っているのはとても様になっている。ミヒャエルの前世であれば、映画や舞台で人気の俳優になっていただろう。
ミヒャエルは、魔力の発露に伴う発熱の後になってようやくはっきりと見ることができた父親の顔に覚えた既視感と違和感が、数ヶ月経った今でも何故か拭い去れなかった。
軽快に進んでいた馬車が緩やかに速度を落とした。ミヒャエルが懸命に伸び上がって窓の外を見ると、家の周りとは街並みが変わっていた。街の中なのに自然が豊かで、木々や草花が生い茂っていた。ミヒャエルがよく見慣れている草木は領地や王都の家の庭園だったが、そちらが街の中に作られた自然だというような印象を与えるのに対し、今馬車の外に見えている景色は、森の中に街が作られたような印象だった。
建物の様式は異なるが、日本の里山とどこか似ている。
眩しく編まれた木漏れ日の中を少し進むと、突然、大きな影が馬車を覆った。何か大きな建物の影だった。
外が暗くなり、馬車のガラスに歪んで映る自分の姿を見て、そういえば自分の容姿を見るのは初めてだったとミヒャエルは思った。部屋に鏡はあったが身長が足らず姿を見ることは叶わなかったし、領地から王都へ移動する馬車ではほとんど体調を崩していて、窓ガラスに映る姿を見ることもなかった。
髪が薄いなというのがミヒャエルの自分の容姿に対する第一印象だった。弟分のライナーはもっと毛深いが、ミヒャエルはうすら禿げている。前世は身の回りに乳幼児がいなかったから、唯一の比較対象はライナーだ。数ヶ月誕生日が違うライナーと比べて髪が薄いというのは、なんだかソワソワした。
ふっくらとした、よく食事をとっている子どもらしい頬と、なんだか惚けたように半開きの唇が、いかにも赤ちゃんという顔立ちだった。
髪の毛の毛量は少ないが、暗い色味だったので、おそらくは父と同じ濃紺なのだろうとミヒャエルは当たりをつけた。そして目は黄色っぽい色をしている。窓ガラスに映った色は分かりにくくて、ミヒャエルには黄色なのかオレンジなのか判別がつかなかった。
ギ、キィと音をたてて馬車が止まった。ようやく目的地に着いた。
そこは尖塔がいくつもついた大きな建物だった。石造りのそれは、神殿というよりも堅牢な要塞のようだった。
馬車の扉が外から開かれて、ハインリヒが最初に降りていった。馬車の外から手を伸ばしたハインリヒがミヒャエルを抱えると、最後はカレンにエスコートの手を差し伸べた。ドレスの裾をひらりと動かして降りるカレンは、正しく貴族の婦人という様子だった。家の中で見せる優しげな表情は影を潜め、凛とした美しい横顔でハインリヒの手をとっていた。
少し離れたところでは、マルガレーテが従者役の騎士にエスコートを受けていた。
神殿の門は見上げるほどの高さで、金属でできているようだった。黒光のそれは神殿という言葉から浮かぶ清らかな印象とは離れていた。その扉がひどい音を響かせながら開く。そこから出てきたのは、銀に輝く長髪の人物だった。
「ようこそ、お待ちしておりました」
「クレメンス」
ハインリヒが笑顔を浮かべる。どうやら知った仲らしいということがミヒャエルにもわかった。
「マルガレーテも、長くライナーのことを任せきりにしてしまい申し訳なかったね」
「いえ、そんな。皆様にとてもよくしていただいておりますから、ハインリヒ様とカレン様に何かお礼をしなくてはと思っております」
マルガレーテとクレメントも親しげだ。
「まさか、お礼をしたいのは私たちの方だ、マルガレーテ殿。新婚で子どものいる夫婦を引き離したというのに、こんなによく働いてもらって。クレメンスだって今日のことを引き受けてほしいと私が願ったものだから」
どうやらずっと姿を見せなかったライナーの父親が、このクレメンスという人物らしい。一体どんな事情で、マルガレーテが幼いライナーを連れて夫と離れて暮らしているのか気になるミヒャエルだったが、他所の家庭の事情に首を突っ込むものでもないと、あまり深く考えないことにした。
「夫婦共々、もったいないお言葉ですがひとまず中へ。ここでは冷えますから」
クレメンスの案内でゾロゾロと中へ入っていく。父の腕に抱かれたまま、ランプの灯された廊下を進んでいく。
辿り着いたのは薄暗い部屋だった。教会のように長椅子が並んでいて、奥の壁はいくつもの溝が掘られて、壁画になっていた。長椅子と奥の壁の間には発光している透明の玉が台座に置かれている。部屋の灯りはそれだけだった。
厳かな雰囲気の中、皆が長椅子に座る。
「さて、守護の伺いをたてますが、順番はお決まりですか?」
「ライナーから」
マルガレーテと少し目を合わせてからカレンが言った。
一家ずつやると思っていたミヒャエルは、一向に退室する気配のない両親に首をかしげたが、カレンは気にする様子もなく、ライナーを抱いて光っている玉へ近づく。魔法の属性というのは個人情報だと思っていたが、もしかしたら前世の血液型程度の情報なのかもしれないと認識を改めた。
「それでは、ライナー・デューラーの守護を伺いましょう」
クレメンスがライナーの手を取る。そのまま、発光する玉にライナーの手を押し当てた。
一呼吸の間があった後、玉の光が一段と強くなり、台座に刻まれたいくつもの溝に、水のように白い光が流れていった。
台座の溝は壁画を構成する溝と繋がっている。光は最初からそこを通ることが決まっていたかのように進み、壁面に光の絵画を描き出した。
壁面の左端に描かれた太陽の図案と、壁面の下方を埋め尽くすように描かれた大きな口と角を持つ竜のような生き物、それに鋭い爪と長い尾の鳥が、白い光によって浮かび上がって見えた。
「これは、珍しい」
神秘的とも言える光景に、最初に声を上げたのはクレメンスだった。
「太陽と塒巻蛇に天呑鳳ですから、光と水と風属性の適性がありますね」
「3属性…やはり、あなたによく似た子です」
「水の魔法が得意な、あなたとよく似た子になると思いますよ、マルガレーテ」
2人はほっとした様子で数秒の間壁画を見つめていた。
光る壁を眺めていたライナーが思い出したように玉から手を離すと、溝を走っていた光はシュルシュルと来た道を再び帰っていった。
暗くなった部屋で、クレメンスがくるりとミヒャエルたちを振り返った。クレメンスの薄い唇から覗く米粒のような歯が、光を受けて白く光る。
「では、ミヒャエル・ヴェスパーの守護を伺いましょう」
知っている名だと、ミヒャエルは直感的に思った。
今世の記憶ではない、前世の記憶に思い当たる名前があった。そんなまさかという思いに反して、自分の思いつきが間違っていないという確信めいたものがあった。
『ミヒャエル・ヴェスパー』
それは前世で友人から借りたゲームの主人公のデフォルト名とまったく同じ名前だった。
そのゲームは所謂、剣と魔法の世界が舞台の恋愛シミュレーションゲームだった。
しかも、乙女ゲームではなくBLゲームという、男性同士の恋愛を扱ったゲームである。
体が弱く、幼少期を領地からほとんど出ずに過ごしていた公爵家の嫡男である主人公は、16歳となる年に、貴族が通う魔法学院へ入学する。そこで、王子や幼馴染などとラブストーリーを繰り広げるという内容だった。
前世のミヒャエルは友人から本を勧められることはよくあったが、ゲームを勧められたのは初めてだったため戸惑った。
そのゲームの主人公と同じ名前である。名前が同じだけならよくあることだが、ゲームの主人公も濃紺の髪を持ち、攻略対象者からひまわりのようだと形容される黄色の目を持っていた。そして今世のミヒャエルの父は濃紺の髪を持っていて、先ほど馬車の中で確認した目は黄色かオレンジか、そのような色合いだった。
ミヒャエルが偶然だと判断するには、ミヒャエル自身とゲームの中の「ミヒャエル・ヴェスパー」との共通点が多すぎた。
浮遊感でミヒャエルが我に返ると、自分を抱えた父が立ち上がって玉に向かって歩き出したところだった。
遠くで煌々と光るそれを見て、ミヒャエルはまだ一点、自分とゲームの彼とで明らかになっていない共通点があることに気がついた。自分がゲームの登場人物になってしまったかもしれないなどという世迷い言は、それが明らかになってから真剣に考えれば良いと、自分に言い聞かせた。
幸いにも、それはほんの数秒後に明らかになることである。
ミヒャエルの前世の記憶によれば、ゲームの主人公は世にも珍しい全ての属性の魔法を使える人物だった。だからこそ、さまざまな攻略対象者が、彼に興味を持って近づいてきたのだった。
先ほどのライナーは3属性で、どうやらそれは珍しいことのようだった。そうだとすれば、この世界で魔法の属性がいくつあるかなんて知識はないが、全ての属性の魔法を持つことが恐ろしく珍しいことで、自分がそんな珍しい人間のはずはないだろうと、ミヒャエルは自分に言い聞かせた。
ミヒャエルを抱いた父の足が止まる。ミヒャエルの目の前にある玉は、直視するのが辛くなるほどの光を放っていた。
カレンがミヒャエルの手をとり、そのまま玉にぺたりとつけた。
ミヒャエルの手が玉の温もりを感じたのとほとんど同時に、部屋にいる全員が目を背けなければならないほど光が強まった。
父が自分を抱く腕に力を込めたことを感じながら、ミヒャエルは自分の左手から伝わる温もりの心地よさに、先ほどまで感じていた憂いが消え去っていくのを感じていた。
数秒か、数十秒か、そうしているうちに目を刺すほどだった光はしゅるしゅると萎んでいった。白いばかりだった光は月虹のように淡く7色の輝きを放っていた。
「これは」
光が収まり、漸く目を開けることが叶ったハインリヒの口からため息のように言葉が漏れた。
光は、壁面にある溝の全てに流れ込んでいた。
「全属性だ。しかし、これは」
ライナーが玉に手を触れた時、壁を走った光は白色だった。それが今は、色とりどりの宝石を撒き散らしたように多彩な壁画がそこにあった。
塒巻蛇は鱗の1枚まで淡い水平線のような青から、深い瑠璃までのグラデーションになって煌めいていた。地属性を象徴する霊峰は、麓が繁茂し山頂には一年中消えることのない雪が残されている。天呑鳳は透けるような美しさでそこに描かれ、溶岩湖は呼吸するように赤褐色と黄金色を行ったり来たりしていた。
壁画の左右では、白と金の光が太陽の図案と月の図案を織り成している。
「なんと、美しい。これが、王国に残された祝福」
クレメンスから感嘆の声が漏れる。子どもの魔力属性を伺う際の立会人となって数年になる彼も、このような景色は見たことがなかった。前任者からも、このような稀有な事は伝えられていなかった。
壁画の光を受けて、ミヒャエルの瞳が黄金に輝く。
稀代の芸術家が神の啓示を受けて描き上げたようなそれが、雄弁にミヒャエルを見下ろしていた。