【第9話】尊敬か
「今日はお疲れ。どう? 初日だから大変だったでしょ」
部室に戻る途中、疲労困憊の晴明に成が話しかけてきた。ランニングシューズが、石で舗装された廊下を踏みつけるたびに、乾いた音が鳴る。
「慣れないことばかりで、疲れました。特にアイソレーション、難しかったです」
「まぁ、日常的な動きじゃないから、最初はできないのも無理ないよ。でも、繰り返していくうちに上手くなるはずだから。私も一年前はまったくの初心者だったしね」
「やっぱり去年も佐貫先輩に教わっていたんですか?」
「去年はそこにとま先輩もいたから。二人に教わってたかな」
渡り廊下から漏れる頼りない明かりが、成の横顔を照らす。口をつぐんでいて、どこかやるせなく、晴明には見えてしまった。
ふと、はじめて会った日の佐貫の言葉を思い出す。
熟考する前に、言葉が口をついていた。
「あの、去年はそこにもう一人いたんですよね?」
「うん、いたよ」
「佐貫先輩は、今は休部中だって言ってましたけど、その人って今何をしてるんですか」
聞いたのが間違いだった。
そう晴明が気づいたときには遅く、成はグッと顔を近づけていた。
間近で見る目は猫のようにつぶらだが、その奥には野性のような鋭さが見える。
「ねぇ」とたしなめるその声が、この日一番低くて、晴明は思わず立ち止まる。
「アイツのことは、私の前では話題に出さないでくれる? まだ、心の中では一〇〇%受け入れられてないの」
二人はしばらく立ちすくんでいた。成の口元が引きつっている。
沈黙を切り裂くバイクの音が聞こえると、成は足早に歩を進めた。晴明は黙ってついていくことしかできない。
汗で滲んだ体操着が、ひらひらと夜風になびいていた。
「一緒に帰ろっか」
言ってきたのは桜子の方からだった。カバンはパンパンに膨らんでいて、隙間から何冊もの本が見える。
重そうだったけれど、桜子は晴明からは遠い左肩にカバンをかけて、平然を装っていた。いくら演技に慣れているとはいえ、口角は全く上がっていなかった。
次々と車が走り去っていく道路の歩道を、二人は並んで歩く。
信号に足を止められる。車のフロントライトに照らされ、二人の足元にうっすらとした影ができた。
「ハルさ、今日どうだった? いきなり走ったみたいだけどきつくなかった?」
「そりゃあ走るのは久しぶりだから、きつかったよ。あと体幹トレーニングやパントマイムの練習もやった。アイソレーションって言って、体の各部位を分割して動かすんだ」
「パントマイムってあの壁をぺたぺたしたりするやつ? そんなことやったんだ」
「着ぐるみの中に入ると喋れなくなるからな。動きで伝えるパントマイムは表現力を磨くのにうってつけらしい」
「そんなもんかぁ」
桜子は生返事をしながら、歩行者信号の目盛りを見つめていた。ちょうど残り一つに減ったところだ。
少しだけ曲がった背筋に、自分の言葉が乗っていないことが、晴明には少しだけ悔しかった。
「それより、サク。お前はどうなんだよ。バッグがいっぱいなところを見るに、初日から相当叩きこまれたんじゃないのか」
信号が青に変わる。歩幅の小さい晴明に合わせて、桜子はゆったりと歩いてくれる。
明らかな桜子の作り笑い。わざとらしすぎて、晴明は吹き出しそうになった。
「うん。とま先輩、ああ見えて結構厳しくてさ。キャラクターの作り方とか、あらすじの立て方とか矢継ぎ早に色々教えられたよ。本当に授業受けてるみたい。キャラの出来ることと出来ないことをはっきりさせた方がいいとか、展開には序破急が必要だとか。その辺りのことをノートに取ってたら、三ページ分真っ黒に埋まっちゃった」
小さく笑いをこぼす桜子を、晴明は双眸ではっきりと捉える。二人はお互いの顔を見ながら歩いていた。
前からやってくる自転車に、軽くベルを鳴らされる。歩道の右側に避けると、桜子の右肩が晴明のおでこにかすかに触れた。
二人とも動じることはない。幼稚園からの日常茶飯事。少なくとも、晴明はそう思い込んでいる。
また元の距離に戻ってから、「でもね」と桜子が続けた。
「とま先輩、すっごく優しくて。これらの本も私のために買ってくれたみたいだし、ちゃんと例を挙げながら説明してくれるから分かりやすいの。それに絵も上手くて。何回か依頼を受けて、キャラクターのデザインも担当したみたい。でさ、私も絵結構描ける方じゃん? だから、その話をしたら『来月までにキャラクター一人考えてきて』って課題出されちゃった。ねぇ、どうすればいいと思う?」
ここまで困惑した桜子の目は久しぶりに見る。晴明は内心ほっとした。
「どうすればいいかって俺に聞くなよ。俺が絵下手なの知ってるだろ」
あえて素っ気なく答えてみる。意地悪な気もしたけれど、桜子が自分を頼ってくれている実感がして、嬉しかった。
「でも、来月ってことは泊先輩は、お前が本入部することを期待してるってことだろ。どうなんだよ? お前、このまま本入部すんのか」
そう聞くと、桜子は口を突き出す。「うーん」と右手を顎に当てて、考え込む仕草を見せている。
こうするときの桜子は、実は大して何も考えていない。それは一一年間の交友で、晴明が学んだことの一つだった。
「最初に誘われたときは、正直あまり気乗りしなかったんだけど、今はわりと半々って感じかな。演じられないのはまだ少し不満だけど、展開やキャラクターを考えるのってちょっと楽しいんだよね。今はまだその間で揺れ動いてるって感じ。ハルはどうなの? 続ける気あるの?」
「俺は基本的には本入部するつもりでいるよ。ランニングも徐々に感覚を取り戻していけるだろうし、何より自分を見られなくて済むっていうのは魅力的だからな。早く着ぐるみの中に入りたいとさえ思ってる」
「前向きだね」
交差点に差し掛かって、二人の目前には駅が見えた。ちょうど歩行者信号が、青から赤に変わるところだ。二人は駆け足で横断歩道を渡り切り、また改札へと向かって歩きだす。
桜子の息が少し弾んでいるのを晴明が指摘すると、「ハルもだよ」と返された。
「そういえばさ、サク。入学してから二週間ぐらいたった頃さ、話があるって俺のこと誘ったじゃん」
「あったね、そんなこと」
桜子が改札にSuicaを掲げながら答える。その口ぶりはまるで他人事だ。
「まぁ、南風原先輩の引き金だったわけなんだけど。お前、南風原先輩とはいつから知り合いなんだ?」
ホームへの階段を上がっていく二人。電車の発車音が頭上から降ってくる。もう間に合わないことを察してか、ゆったりとした足取りだ。
「中学の演劇部で一緒になったときからだから、それからかな」
「でもさ、演劇部の舞台何度か見に行ったけど、南風原先輩らしき人、俺見たことないんだけど」
「成先輩は大道具とか照明とか裏方全般をやってたからね。ハルが知らないのも無理ないよ」
階段を上がりきると、退勤時間と重なったのか、ホームはなかなかに混んでいた。二人は人の少ない中腹まで歩く。空いていたベンチに腰を下ろすと、桜子が聞こえる声で一つ息を吐いた。
反対側のホームでは、電車の到着を知らせるアナウンスが鳴っている。
「そっか。でもそれにしちゃお前、南風原先輩にはぺこぺこしきりじゃん。サクらしくない」
「あのね、ハル」
桜子は晴明にグッと顔を近づけた。顔は見慣れているが、その目力の強さだけはどうしても慣れない。
「演劇っていうのはね、ステージで演じる人が特別偉いんじゃないの。バックヤードで準備をしてくれる人がいなくちゃ成り立たないの。だからみんな立場は平等なんだよ」
「それに」と付け加える桜子の顔は、少し赤らんでいた。不思議な引力に、晴明は目を背けることができない。
「成先輩はとりわけ優秀だったから。部長ってタイプじゃなかったけど、与えられた仕事以上のものをいつも作ってた。一回、私が本番の日に不注意で照明を壊しちゃったことがあるんだけど、成先輩は怒らなくて、何事もなかったかのように劇を盛り上げてくれたの。本当は怒鳴りたいくらい腹立ってたはずなのにね。この人は凄いなってそのとき思ったんだ」
「それって、つまりは尊敬してるってことか?」
ホームを見て、桜子は口をつぐむ。人も増えてきて騒がしいホームの中で、二人の周りだけが静寂だ。
こちらのホームでも、電車の到着を知らせるアナウンスが鳴っている。
「そっか。尊敬か。この感情にあてはまる言葉が見当たらなかったんだけど、確かに言われてみればそうだね」
そう言うと、桜子はカバンに手をかけながらすくっと立ち上がった。見上げてみると、そこいらのサラリーマンよりも、晴明にはずっと大人びて見える。
満員というほどではないが、電車はほどほどに混んでいて、二人はドアの前に向かい合って立った。
足元から密やかな暖気が昇ってきて、二人の肌をくすぐる。
桜子はスマートフォンをいじるのでも、ましてや晴明を見下ろすでもなく、ぼんやりと車窓から見えるビル群を眺めていた。
そんな桜子の姿が、晴明の目にはどこかニヒルに映った。
「じゃあ、今日はこの前予告してた通り『ゴジラ』を観るよ」
そう言って、成は部室のパソコンにDVDをセットした。パッケージから見るに所有しているものらしく、全てのゴジラシリーズのソフトを持っていると、以前言っていたなと晴明は思い出す。
「そうだ、先に行っておくとこのゴジラは着ぐるみで、中には手塚勝巳さんとこれから何代にもわたってゴジラを演じることになる中島春雄さんが変わりばんこに入ってるから。そこも意識して見てみてね」
ロード時間が終わると、地鳴りのような足音と雄叫びが部室に響き渡る。壮観な音楽ははじめて部室を訪れていたときに流れていたものと同じだ。
晴明にはピンとこなかったが、隣の桜子は色めき立っていたし、成はリズムに合わせて肩を揺らしていた。
山に避難しようとする人々。だが、そこに巨大なトカゲのような生物の頭部が顔を出す。成が拍手をしているのを見ると、これがゴジラらしい。
モノクロでよく分からないが山の稜線を見るに、優に体長数一〇メートルはありそうだ。
逃げ惑う人々とは対照的に、未知の生物の襲来に晴明は、自分の喉が渇くのを感じていた。巨大なものに対する憧れが遺伝子に刻み込まれているのか、いつの間にか拳を握っていた。
水中から顔を出したゴジラは陸地に向かって一歩ずつ歩を進めていく。建築物をなぎ倒し、横転させた電車を口にくわえるゴジラを見て、成は笑いながら手を叩いている。重々しい音楽に全くそぐわないリアクションだ。
「ゴジラは公式では体長五〇メートルっていうっていう設定なんだけど、この電車が一両が大体二〇メートルなのね。そう考えるとこのシーンでは、ゴジラの大きさはかなり盛られてるの」
「そうなんですか」と反対側に座る桜子が相槌を打つから、成はさらに気分を良くする。
「この初代『ゴジラ』以外にも、平成『ゴジラ』では東海道新幹線が破壊されてるし、電車っていうのは『ゴジラ』シリーズではずっと被害を受けてきた。そんな電車が『シン・ゴジラ』では無人在来線爆弾となって、ゴジラに一矢報いるんだよ!? 私始めて見たとき思わずガッツポーズしちゃったもん」
ゴジラが海中から顔を出す。成は「きたきたきた」と両手を握っている。
「ここはね、着ぐるみに入りながら水に入ってるの」などと興奮気味に語り、「それって大丈夫だったんですか?」と桜子が聞くと、「中島さんは水に強かったらしいからね」と自分のことでもないのに、胸を張っていた。
それからも成による解説は、とどまるところを知らない。ゴジラの進撃を止める者がいないように。
「この霧状の息は放射火炎って言ってね、一〇万度もあるの」
「初代ゴジラってあまり全身を映すショットがないんだけど、これは一部分を映すことでその大きさを表現しようと、色んな制約がある中で、なんとか工夫した結果なんだって」
「今ゴジラが銀座和光の時計台倒したでしょ。ここ特技監督の円谷さんの演技指導が入ってるの。中に入った中島さんは三回同じシーンを撮り直したんだって」
成の口出しは途切れなく続いて、晴明は三人の他に誰もいなくて良かったと内心思ってしまう。
だが、桜子はその全てに興味深く耳を傾けていて、頬が緩んでいるのを見るに、嫌々やっているわけではなさそうだった。
ゴジラの破壊は止まらない。コンクリートの建物をぐしゃりと崩すと、いきなりキャップをかぶったアナウンサーが映る。そのセリフに晴明は聞き覚えがあった。一気にまくしたてるアナウンサーに、一週間前の佐貫の姿が重なる。
「これがあの寸劇の元ネタですか?」
「そう。後でもう一人アナウンサーが出てくるんだけど、この二シーンは初代ゴジラでも有名なシーンでね。結構人気あるんだ。空で言える人もいるくらい。だから、受けるかなと思ってとま先輩にかけあってみたんだけど、やっぱ見てないとピンと来ないよね」
「そりゃそうですよ。私いきなり指名されてめちゃくちゃ戸惑いましたもん」
二人があっけらかんと笑い合っている間にも、ゴジラはミストみたいな放射火炎を吐いて辺りを火の海に包み、しっぽで建物をなぎ倒している。深刻な音楽が流れる恐怖シーンであるのに、二人は全く意にも介さず、歩くペンギンを見るみたいに盛り上がっていた。
晴明は二人に惑わされずに画面を見つめる。教科書で見たことがある建物が登場した時、成が声を上げた。
「あっ、ちょっとここ注目してみて。国会議事堂のシーン。ここでゴジラの中に入っているのは手塚さんなの。動きが微妙に違うの分かる? こっちも三回目でようやくOKが出たんだって」
成が話している合間にも、映画は次のシーンに映る。MS短波無線機という聞き慣れない言葉に、成は大げさに反応してみせた。
「ほら、ここ! 二人目のアナウンサーの登場! しっかり聞いて!」
必死に実況するアナウンサー。これも先週の佐貫と一言一句変わらない。ゴジラはテレビ塔を掴んで、手の力だけで鉄骨を折り曲げる。アナウンサーたちの断末魔が勢い良く響く。成は満足げに頷いている。
「ね? 私たちがあの日、何をしようとしたか、これで分かったでしょ?」
「はい、よく分かりました。確かにこのシーンは印象的ですね。このゴジラもスーツアクターの方が入っているんですか?」
「ああ、これはギニョールって言ってね。上半身だけの人形を作って、そこに手袋みたいに手を入れて動きを表現するの。予算やスケジュールの都合で、こういったギニョール撮影も、初代ゴジラでは結構行われたんだって」
「へぇ、そうなんですか」と桜子が色よく答えるから、成のテンションはまだまだ上がっていく。
その後も戦闘機の名前や、俳優の裏話、潜水の構造まで、解説は多岐に渡り、晴明には映画を見ているのか、成の話を聞いているのか分からないほどだった。
物語の終幕。ゴジラは芹沢博士作成のオキシジェン・デストロイヤーによって、その命を絶たれる。
「あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」という山根教授のセリフに、成がコクリコクリと頷く。
鎮魂歌が流れ、海をバックに浮かぶ「終」の文字を見たとき、晴明は成のとめどない解説攻撃からようやく解放されたのだと、胸をなでおろした。
手が痛くなりそうな拍手をする成の目には、かすかに光るものさえ浮かんでいた。つられて晴明と桜子もおずおずと拍手をする。
部室はさながら、ごく小規模な映画祭と化していた。
(続く)