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【第8話】どの怪獣が好き?



 机の上に雑多に散らばった書類。ホワイトボードには、テストや模試の予定がびっしりと書き込まれ、キーボードを叩く音が輪唱のように響く。


 職員室は、何度訪れても慣れないなと晴明は思う。まるで魔窟のようだ。


 高校生になってから職員室を訪れるのははじめてだった。隣に立つ桜子もぐるりとあたりを見回している。手には一枚のプリント。


 二人が入り口の側で待っていると、不意に引き戸が開けられた。


 入ってきた男は教科書と小テストの束を持っている。自分の机に向かおうとする途中に二人を見つけると、眼鏡の奥の目に困惑の色を浮かべていた。


 彼の名は植田研哉(うえだけんや)。晴明たち一年C組の担任だ。


 晴明から見れば、植田は淡々と仕事をこなしているだけだが、学生たちからは“ウエケン先生”の愛称で、一方的に親しまれている。


 植田は二人を目にしたものの、声をかけることなくホワイトボード近くの自分の席へと向かう。ゆっくりと椅子に腰を下ろすと、二人が持つプリントに目をやった。


「似鳥と文月か。どうした?」


 植田は鳥の鳴くような高めの声をしている。ほどほどの身長と童顔もあり、はじめて見たときに、晴明は教育実習生なのではないかと思ったほどだ。きっとその距離の近さが生徒たちに人気なのだろう。

 

 桜子が切り出す。こういうときに先鋒を担うのが、桜子の役割だ。


「入部届を書きました。ハンコをお願いします」


 桜子に続いて、晴明も入部届を差し出す。植田はいったんは受け取ったものの、文面を見ると露骨に渋い顔をした。


 小さくため息がつかれる。


「アクター部かぁ」


「先生、ご存じなんですか?」


「そりゃ知ってるも何もなぁ」


 頭を掻く植田は、完全に面倒くさがっていた。確かに演劇部はあってもアクター部は珍しいといえる。部活動に消極的な教師なのだろうか。部活動の指導には手当てがつかないと聞いたことがあるから、しょうがないのかもしれないが。


「アクター部はウチの部活の中でも一二を争うくらい課外活動が多いって有名だぞ。しかも、身体を動かす部活だし、勉強の時間が取れなくなる。それで成績が落ちたら、お前らだって嫌だろ」


「私は大丈夫です。要領良いんで」


「そりゃ文月は小テストの成績も一番だし、俺もそこまで心配はしてないけど、問題は似鳥だよ。お前、小テスト、平均以下だろ。この状況で部活なんて入ったら補習の連続だぞ。それでも良いのか」


 言葉は矢になって、晴明の心をぐさりと刺した。完全に事実を言い当てられていたからだ。


 先週の小テストは惨憺たる結果だったし、今日も手ごたえはない。返却は明日とはいえ、このままでは冬樹に、優しいようで残酷な言葉を浴びせられるのは、目に見えている。


 だが、それら全てを追い払うように、晴明はかぶりを振る。そして、拳を握りながら言った。


「ちゃんと部活も勉強も両立してみせます。中間テストでは平均以上の点数を取りますから、僕をアクター部に入れさせてください」


 深々と頭を下げる。幸い職員室に他の生徒はいなかった。


「分かったよ。教師である俺に止める権限はないしな。その代わり二人とも勉強もしっかりやれよ」


 入部を許可されたことで、晴明の心は躍るようだった。


 これで透明になれる。注目を浴びずに済む。


 そう考えると、自然と「ありがとうございます」という言葉がついて出た。


 しかし、植田は特に反応を返すこともなく、淡々と押印した。少しぶっきらぼうに入部届を二人に返す。


 受け取った入部届は、行ったこともない遊園地のチケットのように、晴明には感じられた。


 もう一度、今度は桜子とともに頭を下げる。植田は困ったように眼鏡を動かしていた。


「あとは佐貫先輩か、とま先輩にこれを届けに行くだけだね」


 入り口に向かいながら無邪気に笑う桜子に、晴明も小さく頷く。退出する前に、二人は入り口の前でもう一度挨拶をした。


 晴明が周囲を見渡すと、バックから弁当を出している植田の姿が見えた。


 肘を机に乗せて、大きくため息をついていた。





 

 イベントがあった日の帰り際、部室には学校指定の運動着に着替えてから来るように、晴明は佐貫に言われていた。適当な場所で着替えを済ませ、部室に向かった晴明に飛んできたのは「これから校庭を走るぞ」という言葉だった。


 泊と桜子以外はジャージを着て、それぞれのランニングシューズを履いている。自分がスニーカーであることに一抹の恥ずかしさを晴明は覚えた。


「アクター部って文化部じゃないんですか?」


 その質問には成がにっこりと笑って答える。


「アクター部は運動部だよ? 一日にツーステだったり、五回のグリをこなすには体力つけなきゃ」


 さも当然のように語る成の横で、渡でさえも首を縦に振っている。よく考えてみれば当然のことなのに、思い至らなかった自分を、晴明は再び恥じる。


 四人は部室を後にする。晴明がふと振り向くと、泊が小さく手を振ってくれていた。


 校庭の隅で一通りの準備運動をする。空は相変わらずカラッと晴れていて、走る前に全員が、上着を脱いで半袖になった。


「じゃあ、まずこの校庭を八周するから。最初の一周はウォーミングアップがてら流して走るけど、二周目からはペース上げてくからな。それを五分の休憩を挟んで二セットだ」


「この校庭って一周どれくらいなんでしょうか」


「大体六〇〇メートルちょいあるから八周で大体五キロだな。不安か?」


「まぁ、しばらく動いてないですし……」


「ついていけなくても大丈夫だ。ゴールするまで待ってやるから」


 大丈夫と言われても、晴明にしてみれば、不安しかない。今も体が動いてくれることを祈るばかりだ。


 校庭の時計の針が五時を指したのと同時に四人は走り出す。練習をする他運動部の邪魔にならないように、走るのはなるべくフェンスの際だ。一番前を佐貫と成が並走して走り、その後ろを晴明と渡が追いかける。


 これからペースを上げるというのに、成がしきりに佐貫に話しかけていた。あのキャラクターが可愛いだの、このキャラクターが最近注目を浴びているだの、他愛もない話。大げさなジェスチャーすら交えている。


 渡が無表情で見ていて、おそらくいつもの光景なのだと晴明は解釈した。


 二周目からペースは上がると佐貫は言っていたが、それはジョギングの範疇に収まらない速度だった。


 土を踏む音が軽快に響き、無言になった三人は一周を二分半で回ろうとしていた。晴明も四周目まではくらいついていたのだが、最後の一周になると三人に置いていかれてしまう。


 本当に誰も振り向いてくれず、孤独が拍車をかけ、晴明の息はますます上がっていった。


 結局三人がゴールしてから三〇秒後に、晴明は最初のランニングを終えた。膝に手をつきながら、「五分後に二本目なー」という佐貫の宣告を聞く。


 よたよたとした足取りで蛇口に向かい、思いっきり水を飲んで、そのまま近くにあるベンチに腰掛けようとした。


「ダメだよ、座っちゃ。体が休んじゃうから」


 声の主は成だった。タオルで汗を拭っている。五キロメートルを二〇分足らずで駆け抜けたというのに、さほど息を切らしていない。


 小柄な体のどこにそんなスタミナを秘めているのか、晴明は不思議に感じた。


「自信なさげにしてたわりには、意外と速かったじゃん。びっくりしたよ。もしかして昔何かスポーツやってた?」


「スポーツではないんですけど、一年くらい前は毎朝起きて走ってました」


 「ふーん」と自分から話を振ったのに、成は興味なさげな反応を示していた。


 遠くを見る横顔に、晴明は成が求めているのは、YES/NOという単純な答えでないことを知る。


「ところでさ、似鳥ってどの怪獣が好き?」


「カイジュウ? って何ですか?」


「もしかして怪獣知らないの?」


 成が手を大きく広げて、驚いた仕草をしてみせる。


 まるで信じられないといった様子だが、知らないものは知らないとしか晴明には言いようがない。


「怪獣っていうのは、怪しい獣。恐竜は知ってるよね。その太古の昔に栄えた恐竜をモデルにして、創作されたのがゴジラを始めとした怪獣。新宿のTOHOシネマズには行ったことはある? ゴジラの上半身が目印なんだけど」


「すいません……映画はそんなに観ないので……」


「まぁこの前の寸劇に対するリアクションの薄さからしてそうだとは思ってたよ。今度部室のパソコンで『ゴジラ』見せたげる。フミも見たことないって言ってたから一緒にね」


 他人の趣味を一方的に押しつけられるのは、晴明にとって心証が良くはなかったが、じっとこちらを見つめてくる成を見ていると、バッサリ断ることもできなかった。


 どう場を収めようか、言葉を探していると、佐貫の「そろそろ二周目始めるぞー」という声に助けられる。


 成が底抜けに明るい声を発した。荒いままの呼吸では、ため息をつくことさえ、晴明にはできなかった。






 走り終わって、四人は西校舎の裏側に移動した。吹奏楽部だろうか、ホルンのぎこちない音が聞こえる。


 佐貫の指導のもと、うつぶせの状態から肘を曲げて体を浮かすなどの、体幹トレーニングを数種類行った。これも晴明にとっては久しぶりに行うトレーニングだ。


 筋肉が縮こまるような痛みをかすかに覚えながらも、メニューは進んでいく。きつそうな表情を浮かべる渡を、成があっけらかんと励ましていた。


「じゃあ、ここからは二手に分かれての練習な。俺はマトを見るから、南風原は似鳥を見てくれ」


 小さいが悲鳴にも似た声が上がる。成が佐貫に近寄っていく。


 軽く平常心を失いかけている成を見て、自分と二人きりになるのが気に食わないのかと、晴明は内心傷ついた。


「佐貫先輩が見てくれるんじゃないですか!?」


「そりゃ三人だったらそうだけど、これからの練習は一対一の方がやりやすいだろ。大丈夫。お前なら教えられるし、教えるのも勉強になるから」


 渋々ながら頷く成の後ろ姿が見えた。だが、肩に手を置かれると、思いきりテンションが回復し、調子のいい声で「頑張ります!」なんて言っている。


 佐貫からプリントの入ったクリアファイルを受け取り、振り向いて晴明の前に顔を見せたとき、その表情からは困惑が消えていた。


 佐貫たちとは一定の距離を取る成と晴明。クリアファイルを非常階段に立てかけてから、成は正面を向き直って晴明に告げる。


「じゃあ、これから練習を再開するわけだけど、その前に一つ質問。似鳥はさ、普通に演じることと、着ぐるみの中に入って演じることの、最大の違いって何だと思う?」


 何が正解かは分からなかったから、晴明はおそるおそる答えた。


「喋ることができないことですか……?」


「そう。一部の特殊な着ぐるみを除いて、着ぐるみに入る私たちスーツアクターは喋ることは許されないし、できても筆談が精一杯。表情も変わらないし、動きだけで感情を表現しないといけないの。そのために必要な技術があるんだけれど、何だと思う?」


 成が微妙に距離を詰めてくるので、晴明は思わず視線を逸らした。


 横では、佐貫と渡が大きく体をよじらせたり、腰をぐるりと動かしたりしている。まるで無軌道な動きに、晴明は意味を感じ取ることができない。


 だから、「分かりません」と正直に答えることにした。


「似鳥はさ、がーまるちょばって知ってる?」


 首を横に振る。幻滅されると思ったが、成の視線はまっすぐ晴明を向いたままだ。


「がーまるちょばっていうのはね、世界的なパントマイムのパフォーマーなの。喋れないスーツアクターが感情を表現するためにはパントマイムの技術が必要なのね。だから、これからするのはパントマイムの練習。じゃあまず、いろいろ言う前にやってみようか。今、似鳥の目の前に壁があると思って、その壁を触ってみて」


 そんなこと急に言われても、だ。


 どうすればいいのか似鳥は戸惑いに戸惑い、固まったまま動けなくなる。


 見かねた成は似鳥の右手を取って、開かせてから空中に置いた。手を離されると、右手に余計な力が入った。


「そう、そのままキープして、左手も同じように触ってみて」


 言われるがまま、晴明は左手も挙げてみる。


「じゃあ、手を思ったように動かして、壁を表現してみて」


 そう成に言われても、晴明にはその壁が見えていない。とりあえず、両手をあちらこちらに動かしてみるが、それこそ雲を掴んでいるようで、自信も実感もない。間抜けな操り人形のようだとすら感じる。


 しばらくして、成がやめるように言ったので、晴明はだらんと両手を下ろした。


「だいたい分かった。経験がないのにいきなりやれって言われても難しいよね。じゃあさ、今度は私がやってみせるから。よく見ててね」


 成は両手を開いて、空中に固定してみせた。探るように手を動かす。自分とは違って、ある面以上に手がはみ出していない。


 成がイメージしているのは木の壁らしく、そっと語り掛けるように優しく触れていた。かと思うと、手を固定したまま、胴体を横に移動したり、伸びたり屈んだり、緩急をつけてみたり。挙げ句の果てには左右にステップさえ踏んでいた。軽快な足さばきの中でも、手は全くブレていない。


 そこに壁があることを晴明がイメージするのに、苦労は必要なかった。


 成が手を下ろして、微笑みかける。先ほどまでの真剣な表情との落差に、晴明は虚を突かれた思いがした。


「まぁ、大体壁の動きはこんな感じかな。これができると、着ぐるみの中に入っていてもできる表現の幅がぐっと広がるから、まずは壁とそれに伴うステップを身に着けることを目指そうね」


 成は笑っていたが、晴明は自分との差に、すっかり打ちのめされていた。思わず顔を下げてしまう。


 だが、成が肩を叩いてきて、「大丈夫だよ、きっとできるから」と言うからには、やらなければならない。


 これも透明化への重要な過程だと、晴明は自らを納得させて、顔を上げた。


「じゃあ、練習に入るけど、さっきの似鳥のパントマイムを見ていて、惜しいなと思ったのが、手が一定の面に固定されていないことと、手と一緒に胸が動いちゃうことなのね。壁に限らず、パントマイムって体を分割させて、動かすイメージっていうのが、必要になってくるから」


 そう言うと、成はクリアファイルを手に取って、折りたたまれたA3のプリントを一枚抜き出し、晴明に渡した。


 そこには人間の上半身の骨格と、モアイのようにデフォルメされた人間が印刷されていた。各骨にアルファベットが割り振られていて、若干グロテスクにも映る。


 晴明がプリントをじっと見つめていると、成が鼻をすり抜ける声で話し出す。


「これからアイソレーション、つまりは分解運動をやるから。ダンスにも採用されているこの練習は、人間の身体を頭・首・胸・腹・腰の五つに分けて、それぞれ三つの運動を行うの。ちょっとその場にしゃがんで、また立ち上がってみて」


 晴明は言われた通りの動作を行う。成は清らかな目で頷いた。


「それが三つの動き方の一つ。屈伸運動。まあアイソレでは『倒す運動』っていうんだけど、そんなのはどうでもいいよね。じゃあ次。今度はさ、プロペラみたいに思いっきり腕を回してみて」


 「思いっきりね」と成が付け加えたので、晴明は力の限り腕を縦に回す。服が擦れる音が耳に響く。


「それが二つめの動き方、回旋運動。アイソレでは簡単に『回す運動』って言うの。最後の三つ目はちょっと説明が難しいんだけど、そうだなぁ……。ちょっと私がこれから手を挙げるから、目線の動きだけじゃなく、顔で私の手を追ってくれる?」


 晴明が頷いたのを見て、成は右手を顔の横に位置に掲げた。少し斜め後ろに持っていく。晴明の顔は前のめりになり、餌を欲しがる鯉みたいに口を開けていた。


 成は両手で交互に何回か同じことをし、その度に晴明のリアクションを確かめてから、「もういいよ」と言った。


「今さ、首が前後左右にスライドしたでしょ。そのスライドする動きをアイソレでは「ずらす動き」って言うの。人間の関節っていうのは大体この三種類の動き方をするから、これを身につけて、身体の可動域を増やせれば、動きだけでもより幅広い表現ができるってわけ」


 成の矢継ぎ早の説明を、晴明は頭のメモ帳に書き込む。


 記憶力には少しだけ自信があった。


 それを勉強に生かせないのかと、冬樹からは口酸っぱく言われているが、興味があまり湧かないのだからしょうがない


「じゃあ、まず頭のアイソレからね。B点、つまり頸椎一番とその五〇センチ上のA点を結ぶ一本の線をイメージしながら、頭を前後左右に倒す」


 成の数える4カウントに合わせて、向かい合ってアイソレーションを行う二人。


 成に何度も指摘されながらも、晴明はこつこつと各部位を動かした。


 運動的には先ほどのランニングや体感トレーニングと比べて楽だが、身体を分割するイメージと集中力を使うので、疲労度は大して変わらない。


 日はすっかり傾いて、空は薄暗くなっている。電灯のない西校舎裏は、だんだんと闇に包まれていく。


 完全に日が落ち、ホルンの音も聞こえなくなったところで、この日の練習は終わった。




(続く)

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