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【第63話】いいから休みなよ



 スタジアムを一周すると、晴明たちは次の出番に備えて、会議室二へと戻った。晴明が着ぐるみを脱ぐと、桜子が近寄ってくる。


「奈津美さん、来てくれてよかったじゃん」


「うん。ちゃんとこっち見てくれた」


 晴明は汗を拭きながら答える。成たちも話している二人が気になったのか、近づいてきた。


 桜子が晴明の母親と自分の母親が見に来ていたことを伝えると、成は興味津々といった様子で「えっ!? マジで!? 後でお礼言っとかなきゃね」と食いつく。


 着ぐるみの手入れをしながらも話す五人をよそに、代橋は一人自分の席に戻っていた。


 汗も少し引いてきたところで、晴明は学校の課題を開く。隣には冬樹への定期連絡を終えた桜子が、机に肘をついて座っている。


 スタジアムではフィールドプレイヤーのアップが始まり、サポーターの応援歌と太鼓の音がピッチのみならず会議室も満たす。あまり集中できるような環境ではなかったが、晴明は入ってくる音をシャットアウトして、課題に取り組んだ。


 しばらくして、晴明のもとに筒井、植田、それに成が近づいてきた。


 話しかけられる予感に、晴明は手を止めて、三人を見上げる。最初に口を開いたのは、成だった。


「ごめん、似鳥。勉強してるとこ悪いんだけど、今話いい?」


 何か粗相をしてしまったのだろうか。心当たりはなかったけれど、晴明はおそるおそる頷いた。


 成と入れ替わるようにして、筒井が前に出る。見下ろす視線に、叱責する意図は見られない。


「似鳥さん、お疲れ様です。どうですか? 体の方は? 暑いけれど、大丈夫ですか?」


「はい、何とか大丈夫です。まだまだライリスに入ることはできると思います」


「怠さや気持ち悪い感じはありませんね?」


「はい、大丈夫です」


 晴明が答えると、筒井は口角をわずかに上げた。振り返って植田と「大丈夫でしょうか?」「まあ、本人もこう言ってますし」と言葉を交わしている。


 そのやり取りは晴明の不安を煽ったが、再び晴明に顔を向けた筒井は、先ほどよりも解れた表情をしていた。


「似鳥さん、選手入場のときに、いつもライリスが一緒に入場しますよね。あれを今日は似鳥さんにやってほしいんです」


 即座に理解が出来なくて、晴明は思わず聞き返してしまう。隣で桜子が「ハル、やったじゃん」と声をかけてくる。

飄々とした三人の顔。


 晴明だって本当は分かっていた。だけれど、信じられないという気持ちが上回る。


「僕がですか?」


「はい、そうです。ここまでの働きを見ていて、今日の似鳥さんになら任せられるかなと」


「そう言われるのは嬉しいんですけど、僕でいいんですか? 南風原先輩の方が慣れてるし、いいんじゃ……」


「似鳥、せっかく頼んでくれてるんだから。ていうか、今日は最初から、似鳥に選手入場してもらうつもりだったし。いつかしなきゃいけないんなら、今やっておいた方がいいでしょ? 大丈夫。今日の似鳥ならできるって。私が保証する」


「不安な気持ちも分かるけど、一歩踏み出さないと、次へは行けないぞ。今まで、お前がしてきたようにやればいいんだ。気負いすぎる必要なんてない」


「そうだよ。今日は奈津美さんも見に来てくれてんじゃん。ちょうどいい機会でしょ。ここで格好よく入場して、ちゃんとやれてるってところを、もう一度見せようよ」


 四人は自分のことを思って言ってくれている。その実感が晴明の胸に染みこんでいく。


 成の言う通り、これからもライリスに入るのなら、避けては通れないのかもしれない。


 自分を信頼してくれる人間が、四人いることが後押しとなって、晴明の顔を持ち上げる。晴明は自分を奮い立たせるように、口にした。


「分かりました。ライリスに入って選手と一緒に入場します」


 晴明の返事に、筒井は安心したのか一つ息を吐いた。その後ろでは成が「似鳥、ありがと」と声をかけてくる。


 晴明は窓の向こうのピッチを垣間見た。パス交換をする選手の足元が、くっきりと見えた。


「ありがとうございます。では、段取りを説明しますね。キックオフのおよそ一〇分前の一三時五三分には、ライリスに入って、選手入場口の前で待機してもらいます。選手が一列になったら、その最後尾に並んでください。ここまでは私がサポートします」


「ここまでは?」


「はい。ピッチには似鳥さん一人で出ていってください」


「筒井さんはついていってくれないんですか?」


「申し訳ありませんが、マスコットが一人で登場するのが慣例となっていまして」


「大丈夫だって。似鳥も素人じゃないんだし。自信持って、ね?」


 成が励ましてきてくれたが、晴明の胸には再びざわめきが生じた。スタジアム中の視線を浴びながら、一人で歩く姿を想像すると、竦み上がってしまいそうだ。今まで普通にできていた動作も、ぎこちなくなってしまうだろう。


 だけれど、怯えていては何もはじまらないと、晴明は自分に言い聞かせる。筒井たちは晴明ならできると思って、任せてくれているのだ。その思いを踏みにじるわけには行かない。


「分かりました。転ばないようにがんばります」


「ありがとうございます。入場した後の流れについては、口で言うよりも、映像で見た方が分かりやすいと思うので、これから前回のホーム戦で撮影した動画を見せますね」


 筒井はポケットからスマートフォンを取り出した。少し操作をした後、晴明に画面を見せる。


 抑えめのボリュームで流れた動画は、メインスタンドの上、放送席から選手入場を撮影したものだった。入場曲とサポーターの応援歌に乗って、ピッチへと歩みを進める両チームの選手とライリス。


 凛とした姿に、隣で覗き込む桜子が「格好いいですね」と漏らしている。


「で、選手との写真撮影が終わったら、こうやって入場口に戻ってきてください。帰りは私がアテンドしますから」


 動画を見終えた晴明は、筒井を見て頷いた。思っていたよりも複雑な動きはなくて、今の自分の力量でもなんとかこなせそうな気がした。


「段取りはこんな感じなんですけど、何か質問ありますか?」


「あの、入場するときにライリスがカメラを指さして、手を振ったりしていたじゃないですか。あれって何なんですか?」


「ああ、あれはアドリブ。ただ、不愛想に入場するのもちょっと面白くないなって思っただけ。あっ、でも似鳥は無理にやらなくていいからね。私がそう思っただけだから」


 答えたのは、当事者である成だ。事もなげに言ってのけているが、晴明は先輩の度胸に驚嘆した。自分にそれほどまでの余裕ができるのは、いつのことになるだろう。


「あとは大丈夫ですか?」


「はい。大体流れは分かったので、大丈夫だと思います」


「ありがとうございます。では、本番はよろしくお願いしますね」


 そう言い残すと筒井は、机の反対側で座っている、代橋と瀬名の方へと向かっていった。晴明が選手入場をすることを、伝えているのだろう。三人は何か話していたけれど、サポーターの声援にかき消されて、晴明の耳元までは届かなかった。


 判然としない会話の内容が、晴明の不安を少しずつ煽っていく。


 筒井が話を終えたとき、晴明は立ち上がって、動画をもう一度見せてくれないかと頼んでいた。筒井が快く応じてくれたので、晴明はもう一度スマートフォンに見入る。代橋の送ってくる視線には、気づいていないふりをした。






 晴明が入場口前に辿り着いたときには、まだ選手は一人も出てきていなかった。ヴァルロス君と交流することもしにくく、ただ待っているしかない。


 外はもうすっかり暗くなっていている。ピッチが全方向からの照明に照らされて、光の絨毯みたいに眩しく見えた。


 スタジアムDJが選手紹介を読み上げ、サポーターが名前をコールする。スタジアム中の緊張感が、自分たちがピッチに出ていたときより数段高まっていることを、晴明は肌で感じていた。


 筒井がライリスの袖を軽く引っ張る。晴明が引っ張られた方に顔を向けると、ロッカールームから選手が出てくるのが見えた。サマーユニフォームに袖を通し、誰もが引き締まった表情をしている。


 棒立ちしているのも芸がないので、晴明は選手に手を振ったり、拳を握って差し出したりした。会釈してくれる選手、こちらを見るだけの選手。その反応は様々だ。


 だから、たとえ素通りされたとしても、晴明は心を痛めることはなかった。選手にとっては、人生がかかった試合なのだ。集中しきっていて、自分が視界に入っていなくても、仕方がないと納得した。


 だが、最後にやって来た選手は、少し反応が違った。


 他の選手よりもやや小柄なその選手は、ライリスを見かけるなり、一直線に向かってきて、ちゃんと拳を突き合わせてくれた。それどころか頭を撫でたり、「今日もよろしくね」と声をかけてきたり、試合前とは思えないほどフレンドリーに接してくる。


 リラックスした笑顔は、グリーティングに訪れるサポーターと、少しの違いもない。


「おい、柴本。さっさと審判にスパイク、チェックしてもらえよ」


 見かねた別の選手が呼びかけると、柴本と呼ばれた選手は、「ごめん」とジェスチャーをした後、水色の服を着た審判のもとへと向かっていった。


 最後尾に向かう中で、晴明はその名前をどこかで聞いたことがある気がした。そして、思い出す。


 取材で訪れたカヌマスポーツの店主が、よく店に来ていたと語っていたサッカー少年。今はハニファンド千葉のトップチームで活躍しているというその選手の名前が、柴本といったことを。


 サポーターが合唱する二つの応援歌が、晴明の心に火をつける。ライリスに入るまでは怯えていたのに、今は早くピッチに出たいと感じている。


 柴本はライリスの前に並んだ。応援歌が響く中でも、ライリスに触れてきていて、気負っている様子がまるでない。


 だが、入場曲が流れ始めると、さすがに前を向く。スイッチが切り替わったみたいに、小さい背中から真剣なオーラが迸っていた。


 歩き出した審判に続いて、選手も動き出す。柴本の背中に、晴明も続いた。転ばないように一歩一歩階段を上る。


 入場口から出ると、まず照明が目に入った。遠慮なくピッチを照らしていて、目が眩みそうだ。


 サポーターの大合唱が、暑い空気に運ばれてきて、晴明は自分がかすかに浮かんでいるような錯覚を味わう。何重にも重なった人の声は、地面を揺るがすほどの迫力があった。


 晴明は一歩一歩、歩を進めていく。そして、正面のカメラを確認すると、少し身を屈めて、シンプルなガッツポーズをした。


 ハニファンド千葉に限らず、SJリーグの試合は全てが生配信されている。スタジアムに来ることができない人を思うことも、必要だと成は言っていた。


 カメラマンが一つ頷いたのを見て、晴明は自分の行動が間違っていなかったことを知る。そして、顔を上げて青々としたピッチへと向かっていった。


 今まで入ることが許されていなかったピッチ。


 一歩を踏み出すと、全身が総毛立つ感覚が晴明にはした。恐怖ではなく、武者震い。戦いの場に足を踏み入れた自覚が、晴明の心を引き締める。


 柴本の隣に立って、メインスタンドを向くと、多くの観客がタオルマフラーを、振り回しているのが見えた。スタンドに赤い花びらがこぼれおちたようだった。由香里や莉菜はもちろん、奈津美や菊枝もやや戸惑いながら、タオルマフラーを持っているのが見える。母親が観戦を楽しんでいるようで、晴明は小さく口元を緩めた。


 審判の吹く笛に合わせて、メインスタンドとバックスタンドに向かって、挨拶をする選手とマスコット。スタジアムにはハニファンドコールと、ヴァルロスコールが重なり合って響く。


 東京ヴァルロスの選手が、流れるようにハニファンド千葉の選手と握手をしている。晴明もヴァルロス君を含めた全員と握手をした。選手によって手を握る強さは様々で、晴明は各選手の試合にかける意気込みを感じた。


 ヴァルロス君が強く、ライリスの手を掴む。「負けないぞ」と宣言しているようで、晴明も強く握り返した。


 同じように歩きながら、審判四人と握手をした後は、ベンチの前での写真撮影だ。


 二列になって肩を組む選手の横で、晴明は腰に手を当てて胸を張る。いくつものカメラを向けられるのは、少しどきりとしたが、芽吹もその中にいたので、晴明は臆することなく堂々としていられた。むしろ、ピッチに立っていることが、誇らしくさえ感じられる。


 どうやら心までライリスになったらしい。自分はとうに消えていた。


 写真撮影が終わると、反対側にいた柴本がわざわざ近寄ってきてまで、ライリスにもう一度握手を求めた。晴明も当然応じる。


 軽く握ってから手を離すと、柴本はライリスの背中を一度叩いてから、ピッチへと駆け出していった。選手がボールを回しながらアップをするので、早くピッチから出なければならず、柴本の後ろ姿を見つめている余裕は、晴明にはない。駆け足でピッチから出る途中も、柴本の手の感触は、まだ晴明の背中に残っていた。


 入場口で待つ筒井のもとへと向かう途中、晴明はもう一度メインスタンドを垣間見た。腰を下ろしている奈津美が、そわそわした様子でスタジアムを見回していて、何とも言えず可笑しかった。


 筒井に手を引かれて、晴明は階段を下りる。先に出番を終えていたヴァルロス君と、瀬名の後ろ姿を見ながら、会議室二に向かう。


 背後で試合開始を告げる審判の笛が、高らかに鳴り響いた。






 着ぐるみを脱ぐと、成や桜子、渡に芽吹が一斉に晴明のもとに駆け寄ってきた。数段低いところにある会議室二からはピッチが見えづらいので、配信で晴明の選手入場を見ていたらしい。


 「よかったよ」と開口一番、肯定してくれる成の声を聞き、晴明はほっと胸をなでおろした。先輩のお墨付きをもらい、肩の力が一気に抜ける。口々に褒めてくれる四人に、晴明は残りの力を振り絞って答えてから、椅子にへたり込んだ。


 次のライリスの出番はハーフタイムだ。三〇分後には、再び着ぐるみの中に入っていなければならない。ピッチでは白熱した試合が、繰り広げられているのだろう。両チームのサポーターが、盛んに応援歌を叫んでいる。


 晴明は学校の課題を取り出して、わずかな時間でも先に進めようと努めた。


 だが、疲れた頭では、問題文がまるで呪文のように見えてくる。何度も頭を振りながら、それでも課題に向かっていると、目前から声が飛んできた。


「そんなに疲れてんなら、寝ればいいじゃん」


 代橋の意外な発言に、晴明の目はわずかに覚める。自分を気遣ってくれているのか。


 腕を組んでいる代橋の目には温度がなく、その真意を読み取ることは晴明にはできない。


「いえ、大丈夫です。僕、あまり成績が良い方じゃないので。少しでも勉強しておかないと」


「大丈夫じゃないでしょ。そんなうつらうつらやってたら、身につくもんも身につかないよ」


 桜子も瀬名も今は、別の用事に取りかかっていて、机を挟んでいるのは、晴明と代橋しかいなかった。冷房の風が二人の間を吹き抜ける。


 汗で張りついたシャツは、まだ乾いてはくれない。


「いいから休みなよ。まだ出番あるんだからさ」


 降りかかる言葉に、晴明は手を止めた。斜め前を向くと、代橋の表情が心なしか、柔らかくなっているように感じられた。


「えっ……それって……」


「別にフラフラの状態で着ぐるみに入られたら、こっちが困るってだけの話だよ。部活とはいえ、スーツアクターやってんでしょ。だったら体調管理は、きちんとしなきゃダメだから」


 予想だにしない指摘に、晴明は一瞬虚を突かれる。だけれど、すぐにその真意を悟った。はじめて今日、最後までやり遂げることができると感じた。


「そうですね。まだ次もあるし、少し休みたいと思います」


 課題をリュックにしまい始める晴明。


 あれだけ音に満ちていたスタジアムに、一瞬静寂が降りた。遠くから歓声が聞こえてくる。


「ヴァルロス、先制したね」


 かすかに目じりが下がっていて、代橋の小さい笑顔を、この日はじめて晴明は目の当たりにした。




(続く)

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