【第53話】だから、俺をまた
「それでは、登場していただきましょう! ハニファンド千葉、新マスコットキャラクター・カァイブです!」
野々村がこの日一番の声を張り上げる。
動画と同じ音楽がスタジアム中のスピーカーから流れ始め、入場口に控えていたカァイブが走って、スタジアムに姿を現した。鳴り響く拍手は、生誕の地にふさわしく、カァイブも手を振りながら応えている。晴明も腕を体の前で上下に動かしながら、カァイブの登場を歓迎した。
しかし、ほんの一瞬、渡の動きが止まったことに晴明は気がついてしまう。しかし、すぐに渡は何事もなかったかのように振る舞い続けたし、頼もしいホームの雰囲気は、晴明に邪推する暇を与えない。
カァイブはライリスとピオニンの間に立ったので、頭部以外は晴明から見えづらくなってしまう。それでも、音楽に紛れて聞こえるスマートフォンのシャッター音が、カァイブの仕草の的確さを表していた。
「改めてご紹介します! ライリス、ピオニンに続く、ハニファンド千葉の新たなマスコットキャラクター、カァイブです!」
名指されて、カァイブは二歩前に進んだ。頭上に置かれた手がひらひらと揺れて、観客の声援に応えている。
オレンジ色の後頭部が、見えなくてもカァイブの表情を晴明に伝えてくる。少し緊張した笑顔だ。
「みなさん、暖かく迎えてくださってありがとうございます。カァイブもご覧のように嬉しそうです。どうかな? はじめてスタジアムに来てみた感想は?」
野々村はカァイブにマイクを向けた。もちろん着ぐるみが喋るわけはないので、渡はメインスタンドをじっと目に焼きつけるように見渡す。
そして、胸に手を当てると、右手で目元を擦る仕草をしてみせた。感動して溢れた涙を拭っているのだろう。
「そっか。こんなにたくさんの人が、ハニファンド千葉を想ってくれることが嬉しいんだね」
大きく二回頷くカァイブ。その姿はスタジアムを一気に、我が子の成長を見守る親の心情にも似た空気に変えてしまう。
マスコットキャラクターで大切なことは、親近感を抱かせることだと、以前泊が言っていた。渡はものの数分で親近感を越えて、カァイブをサポーターたちの自分事にすることに成功していた。
心のどこかで渡のことを心配していた自分を、晴明は丁寧に諭したくなる。今、カァイブはしっかりと前を見据えている。その凛々しさは、子供でもライオンであることを印象付けていた。
「じゃあ、カァイブにあえて聞くけど、今日のハニファンド千葉はどうかな? 勝てると思う?」
どんと音がすると錯覚するほど、カァイブは胸を強く叩いた。前に出された右手の形は、晴明からでもちゃんと見える。指を三本立てていて、覗き込む野々村が「三」とそのまま言葉にしている。
そして、手を握ってから、今度は親指と人差し指で小さな輪っかを作った。
「対、〇」
ライオンに対するパブリックイメージよろしく、カァイブも勝ち気であるらしい。
「今日はハニファンド千葉が三対〇で勝つと、そういうことだね」
再び二回頷いてみせるカァイブ。先ほどまでよりも力強い。
「皆さん、カァイブはハニファンド千葉の勝利を信じています! ホームの後押しで、今日も勝ち点三を取りましょう!」
スタンドからは何度目かも分からない拍手が送られる。ここにいる多くの人がハニファンド千葉の勝利を願っている。だから、勝利をかたくなに信じるカァイブは、象徴的だった。
ぺこりぺこりと頭を下げるカァイブは、サポーター全員の、可愛い子供のようだった。
「それでは、ハニファンド千葉の勝利のために、最後はハニファンドコールで終わりたいと思います! みなさん、準備はよろしいですか?」
メインスタンドの観客が、ぞろぞろと立ち上がる。首にかけられたタオルマフラーは、目の覚めるような赤。ユニフォームと揃った光景は圧倒的で、晴明にここが特別な場所なのだと思わさせる。
「では、いきます! ハーニファンド!!」
野々村のコールに手拍子と、ゴール裏の太鼓の音が続く。スタジアムに溢れるハニファンドコールが屋根に反響して、ライリスの身体を揺らした。
少し控えめなメインスタンドに、惜しげもなく声をあげているゴール裏。自分が応援されているわけではないのに、胸の底から力が湧き上がってくるのを晴明は感じた。
アクター部に入らなければ味わえなかった感動に、頬を緩める。頭上に上げた両手が、声の波で痺れそうだった。
五回のハニファンドコールが鳴り響き、まだ太鼓が鳴っている中で、野々村は「ありがとうございます」とコールを止める合図を出した。自然と音の波は引いていき、スタジアムには元のざわめきが取り戻される。
「皆さん、ライリス、ピオニンとともに新たなマスコットキャラクター、カァイブもこれからどうかよろしくお願いいたします! 以上、カァイブのおひろめ式でした! これから三人がピッチを一周しますので、温かく迎えてください!」
三人は列を作って、メインスタンドの近くへと向かっていく。前から、ライリス、カァイブ、ピオニンという順番だ。
最前列まで来て写真をねだるサポーターに、立ち止まってポーズを取りながら対応する。
ゴール裏に差しかかったときには、サポーターから今度はカァイブコールが飛んできた。リズムに乗って、ぴょんぴょんと飛び跳ねているカァイブの姿は、微笑ましいことこの上ない。
融和的なムードは、カァイブの行く先を、明るく照らしているようだった。
だが、バックスタンドに差し掛かった瞬間、晴明は思わず足を止めたくなるほどの、衝撃を受けた。一段目の後方に芽吹が座っているのを見つけたからだ。芽吹は丈の長いストライプシャツを着ていて、座っていてもその長身は目を引く。
サポーターに動揺を悟られないように、晴明はつとめて明るく振る舞ったが、心の中ではぎこちなさが抜けなかった。
三人は芽吹のいるブロックの前で立ち止まる。芽吹はスマートフォンを向けることもなく、腕組みをしながら、三人を見下ろしていた。
視線は、自分ではなくカァイブに注がれている。それでも渡は意に介することなく、ポーズを取っていたので、晴明もそれに倣った。
いくつものシャッター音。太陽はピッチから見えないほどに傾いていた。
カァイブのおひろめ式は、これといったアクシデントもなく、スムーズに終わった。いち早く着ぐるみを脱いだ成が感慨深げに、息を吐いて汗を拭っている。
晴明も泊と桜子に頭部を外された。スタジアムにこだまする応援歌が耳に入ってきて、軽く圧倒されてしまう。ピッチでは、ゴールキーパーのアップが始まっている。
胴体も脱いでシャツの襟を引っ張ると、冷気が晴明を労うように優しく撫でた。晴明の出番はあと、ハーフタイムと試合終了時だけだ。選手入場は成と渡が、ライリスとカァイブに入って行うことになっている。
水分補給をしようと、壁際にあるリュックに向かう。その途中で見た渡の顔は何か使命感を帯びた、ある種切羽詰まった顔だった。理由は口にしなくても、筒井と五十鈴以外の全員が分かっている。
渡は胴体を脱がされると、シャツの裾をまくって、すぐに部屋から飛び出してしまった。汗も拭かなければ、水分補給もせず。もちろん関係者用の黄色いビブスも着ていない。
呆気にとられた部屋の中で、唯一成だけが素早く黄色いビブスを手にして、渡を追いかけていた。
戸惑う一同。第二会議室を揺らす応援歌。
晴明と桜子は、佐貫や泊に目を配る。佐貫が五十鈴に確認してから「行こう」と言った。四人は黄色いビブスを羽織って、部屋から出た。早足で思い当たる場所へと進んでいく。
外の風はうっとうしいほどの湿り気を含んでいた。
四人はホームゴール裏に一番近い入り口からバックスタンドに出る。ピッチ上では、フィールドプレイヤーが登場し、ゴール裏のサポーターに挨拶をしていたが、晴明の目はそちらには向かなかった。
一階と二階をつなぐコンコースに、渡と成、そして芽吹が立っていたのだ。
ただならぬ雰囲気に晴明は近づいたはいいものの、声をかけることはできない。それは他の三人もそうで、この場は二年生三人に任せるべきだという共通認識が出来上がっていた。
「ここにいていいのかよ」
先に口を開いたのは渡だった。後ろ姿しか見えないが、ピンと伸びた背筋は、凛々しさを帯びていた。声も応援にかき消されることなく、まっすぐ芽吹に届いている。
「ここに来いって言ったのは、お前だろ。それとも俺が来ないって、決めつけてたのか?」
言い返す芽吹も、内容とは裏腹に語気はそれほど強くない。目元も風のない海のように、穏やかだった。
「だってお前、今日の夜から生配信あるんじゃ……」
やはり渡は知っていた。黒崎ダイアの生配信は、毎回ざっと三千人が視聴する人気コンテンツであることを。アーカイブも含めれば、その視聴者数は万に上るだろう。
だが、芽吹はふっと口元を緩ませる。
「別にいいよ。後でお詫びの動画を出せば、済むことだしな」
それで済まないことぐらい、Vtuberに疎い晴明にだって分かる。信頼を失うのは一瞬、だけれど取り戻すのには、その何十倍もの時間がかかる。
晴明はどうしようもなく、芽吹のことが心配になった。目に力を込めて、芽吹を見つめる。だけれど、渡を見下ろす芽吹と目が合うことはなかった。
二人は黙ってしまい、成でさえ口を出せずにいる。それでも、ゴール裏のサポーターの手拍子は絶えず鳴って、立ち尽くす二人を励ましていた。
「マト。お前さ、上手くなったよな」
うって変わって、今度は芽吹が話を切り出した。渡の頭が小さく動いている。
「動きに愛くるしさが増してた。本当に小さくて可愛いなって思ったよ。思わず手を振りたくなるくらい。俺がいない間にたくさん練習して、経験を積んでたんだな」
肝心なところはぼかす芽吹に、配慮の一端が垣間見える。声も潜めていたし、応援歌に紛れて、周囲の観客にはおそらく聞こえていないだろう。
渡の背筋が、少し曲がっていた。
「まぁ、お前がいない間に色んなとこに行ったからな」
「そっか。本当によかったよ。あのときいきなり、俺の代わりに入ってくれって急に言ったこと、ずっとすまないって思ってたから」
「あれはしょうがなかっただろ。俺以外入る人間がいなかったんだから」
「いや、急に代わって、本番で失敗してマトが自信を失ったらどうしようって、俺ずっと気が気でなかったんだぜ」
「大げさだな」
「だってさ、こんなこと俺に言われたくないかもだけど、お前中学の頃、本当に地味だったじゃん」
申し訳なさそうに眉を下げる芽吹と、微動だにしない渡。成の心配しているのか、困惑しているのか分からない表情が、場の微妙さを物語る。
三人の側を、赤いユニフォームを着た男女が横切っていった。三人を取り巻く空気に見合わない陽気さで。
「部活にも入ってなかったから、友達俺しかいなかっただろ。高校も俺が上総台行くって言ったら、必死に勉強してついてきて。まあ俺の周りに上総台志望してるやつがいなかったから、そういう意味ではありがたかったけど」
「別に、このままの成績じゃヤバいなって思っただけだよ」
「そうだな。俺とお前は運よく同じクラスになれたけど、クラスん中じゃ浮いてたよな。高校でも俺たち二人だけでつるむんじゃないかって。だからお前が部活入るって言ったとき、俺はすごく嬉しかったんだよ。自分を変えようとしてるんだって」
「結果的には、南風原に無理やり押し込まれたけどな」
渡の顔が斜め前にいる成に向いた。そこで、ほんの少しだけ晴明は、渡の表情を垣間見ることができた。曇りのないすっきりとした表情だ。
成も先ほどよりは困った顔をしていない。頬がほんのり赤く染まっていた。
「最初は俺がメインで入ってたけど、すぐに身長が伸びて入れなくなって。南風原とマトが出ずっぱりなのに、俺にできることは少なくなって。ずいぶん迷惑かけたよな。すまん」
「いいよ、謝んなくて。誰にもコントロールできない要素なんだし」
「俺さ、ずっと寂しかったんだと思う。マトと同じ話題で話せないのが、つらかったんだと思う。だから、そんな満たされない気持ちをどうにかするために、アイツを始めたんだ。そしたら、予想外に人気が出て。チヤホヤされて分かったよ。俺の空虚は他の顔の見えない人たちじゃ埋まらない。マトや南風原とじゃなきゃ埋まらないって」
両の拳を握りながら、精一杯言葉を吐き出す芽吹に、渡は声をかけることはしなかった。ただ黙って見守るだけ。喋るよりも無言の方が、相手の心に響くこともある。
芽吹の声が震えはじめていた。
「部活に顔を出さなかった日々のことを、水に流してくれとは言わない。許してもらえなくてもいい。ただ、俺は変わりたいんだよ。お前みたいに、変わりたいんだよ。広報でも宣伝でも、俺にできることなら何でもやる。だから、俺をまたアクター部の一員にしてくれ。頼む」
そう言って、芽吹は深く深く頭を下げた。腰を折っていてもその巨体は、なおも周囲の目を引き付ける。
自分たちの周辺が騒めき始めるのを晴明は感じた。成はじっと渡を見つめて、下される決断を待っている。
渡はひとつ息を吐いてから、「顔上げろよ」と口にした。重しがついたような低い声色で、顔を上げた芽吹に告げる。
「圭太、お前さ、少し勘違いしてるよ」
出てきたのは晴明の想像とは、一八〇度違う言葉だった。芽吹の目からは涙がこぼれている。
さすがに成も「ちょっと、渡」と口を挟む。だけれど、渡は構う様子を見せずに続けた。
「俺は『変わった』んじゃなくて、『変えられた』んだよ。五十鈴先生やウエケン先生。佐貫先輩や泊先輩。南風原に、新しく入ってきた似鳥と文月。俺に関わってくれた人たちのおかげで、俺は少しずつだけど、変わることができたんだ」
「だから」。その言葉に、渡はありったけの力をこめていた。
「今度は、俺たちがお前を変えてやる。いや、俺たちと一緒に少しずつ、いい方に変わっていこう。それにお前の復部なんて、俺の一存で決められるもんじゃないしな」
「ですよね、佐貫先輩」。声と同時にはじめて渡は振り返り、その表情の全貌を見せる。憑き物が落ちたかのような晴れ晴れしい頬の赤が、言葉以上に心情を四人に伝えてきた。
耳に聞こえてくる応援歌の外国語が、スタジアム中を包み、この場にいる全員を励ましているように、晴明には感じられた。はじめて来たときには、少しやかましく思っていた声援が、今は力強く心地よい。
「ああ。夏休み中は部活関係の書類が出せないから、正式な復部は夏休みが明けてからになるけれど、活動への参加だけなら、次の練習日、明後日からでも可能だ」
「だってさ」と、佐貫の言葉を受けた渡が再び、芽吹に向き直る。成の表情も穏やかで、心配は何一つ見られない。
渡の小さい右手が、晴明から見えなくなっていく。芽吹は涙を流したまま、右手を伸ばす。渡の小さな体に遮られて、何が起こっているのか晴明からは分からないけれど、回りこんで確認する必要もなかった。
「これからまたよろしくな。圭太」
「ああ、よろしくな。マト」
涙をこぼしたまま微笑んで見せる芽吹。その笑顔が晴明に、雨に打たれてもへこたれない花の姿を思い起こさせる。
成が手を伸ばして肩を叩くと、芽吹はまた涙を溢れさせる。ピッチではなく自分たちに注がれる視線。だけれど、晴明はそれらを、少しも嫌味たらしく感じることはなかった。
キックオフまで三〇分を切って、空は少しずつ藍色を濃くしていく。
スタジアムにつきはじめた照明は、自分たちだけなくスタジアムにいる全員を、満遍なく照らし出していた。
(続く)




