【第1話】ちょっと話があるんだけど
「ちょっと話があるんだけど」
文月桜子は真剣な表情で告げた。すらっと伸びた脚で距離を詰める。大きな目が、真っすぐ相手を見下ろす。
相手は下駄箱を閉め、光沢のある革靴で陽気溢れる屋外へと、踏み出そうとしていた。
桜子は駆け寄り、右手で相手の袖を掴む。ぶかぶかした袖が分厚い。
「なんだよ、サク。俺、家帰って課題しなきゃなんねぇんだけど」
立ち止まった似鳥晴明は、桜子を見て、少し倦んだ口調で言った。
バッサリと切り揃えられた髪に小さい顔。買ったばかりのブレザーに着られている。母親はすぐ大きくなるからと、大きめの制服を勧めたが、晴明はここ一年で一センチしか背が伸びていない。
晴明は、桜子を見上げるたびに、寄る辺ない思いを募らせていた。同じ目線で感情を分かち合える日は、もう来ない。そう知っているけれど、桜子には気づかれないよう、平気なふりをしていた。
「大丈夫だよ。数分で終わるから。私たちの学生生活にかかわる重大な話」
「数分で終わんなら、重大な話じゃねぇだろ」
晴明の鋭い返しに、桜子はどうしたらいいかもわからず、とりあえず笑った。周囲の視線が痛い。気のせい。ではなく、事実。いくつもの視線が、二人には向いていた。
それは自分が生まれ持った華も、もちろんあるのだろうけれど、どちらかというと視線は晴明に集まっているように桜子には感じられた。一刻も早く好奇の目から晴明を引きはがしたくて、すばやく靴を履き替える。
「いいから来て! というか来てくれないと私が困るから!」
晴明は判然としない表情をしていたけれど、そんなこと桜子には関係ない。有無を言わさず晴明の腕を取って、外へと駆け出す。
玄関から校門へと続く道は桜並木となっていて、ひらひらと桃色の花びらを散らす。絵にかいたような春の景色。
だが、晴明はその風景を綺麗だと思う暇もなく、下校する学生とは反対の方向に走っていく桜子に引っ張られている。まどろんだ風も、桜子についていくのに必死で、晴明には心地いいと思う余裕はなかった。
二人は西校舎の裏に行き着いた。玄関からは最も遠く、人通りもあまりない。何か密約を交わすにはうってつけの場所である。
晴明も桜子も息は全く上がっていなかった。ただ、心臓が早鐘を打っていることを、晴明は沸々と感じていた。目の前の桜子の含み笑いに慄いたこともあるけれど、それ以上に自分が望む平穏な学生生活が、破壊される予兆を感じたからだ。
桜子が口を開こうとする。晴明は背筋を伸ばす。ファイティングポーズのつもりだった。
「ねぇ、ハル。私たち入学してから、もう二週間も経つよね」
ゆっくりと告げる桜子。晴明を慮るようで、その実、鋭利なナイフを突きつけている。
拒否権が与えられていない。晴明は上から降ってくる言葉に、そう感じてしまっていた。「そうだな」としか、返すことができない。
「ねぇ、そろそろ決めようよ」
吹く風が、桜子の髪をかすかに揺らす。逃げられないと、晴明は感じた。足の速さとかそういう問題ではなく、まるで自分が断崖絶壁にいるような。
辛うじて見上げると、桜子の目は笑っていた。
「決めるって何をだよ」
晴明は努めてはっきりとした声を出した。学生たちのざわめきが遠くで、地鳴りのように鳴っている。
桜子の唇が、ひっそりと動いた。
私立上総台高校。京成電鉄千葉中央駅を最寄り駅とするこの普通科高校は、今年で創立五〇周年を迎えていた。
勉学に力を入れており、難関の国公立大学にも、毎年のように合格者を輩出していて、大人からの評判はいいが、携帯電話禁止や染髪禁止といった緩くない校則のおかげで、現役生からの評判はそこまで芳しくなく、敬遠されつつある。
この学校に入学してくる者は、親の過度な期待を背負った者か、二二才を人生のゴールと定めている者のどちらか。
似鳥晴明は前者であった。外資系企業で働く両親のもと、理想を追い求めさせられ、一日一四時間の猛勉強を経て、なんとか上総台高校に補欠合格していた。
校門をくぐってため息をつく。両肩に重石がのしかかっているようだ。
見渡すと晴明と同じように、初日だというのに肩を落としてとぼとぼ歩く学生が、何人か見られた。
彼ら彼女らも、誰かに敷かれたレールの上を走っているのだろう。
憐れみたい気持ちが生まれたが、名前も知らない他人に声をかける意気が、晴明には欠けていた。
とある学生が自分を見て、隣の学生と何やら話している。もちろん、それを注意する勇気も晴明にはない。
校門のすぐ横にある巨大な掲示板の前では、人だかりができていた。小柄な晴明はつま先立ちをしても、掲示板の内容を見ることができない。謝りながら、人混みをかき分ける。
何人かの物珍しげな視線も気にせず、晴明が最前列まで出ると、掲示板にはクラス名簿が貼られていた。
一年C組。それが晴明に割り当てられた器だった。
知り合いがいなければ、感想もない。どうせ一年でまたシャッフルされるし、三年もすればお別れだ。くだらないと心の中でつぶやく。
だが、眺めているうちに知っている名前を、晴明は見つけてしまった。
「おーい、ハルー! いるー?」
声の主は一番後方から、快活な声を出していた。腹式呼吸でよく通る声だ。何も声を出さなくても、その目には名簿がしっかり見えているだろうに。
声の主は何度も「すいません」と言いながら人混みをかき分けて、晴明の横に立った。
見上げると、髪は耳の長さで切り揃えられていて、肌がかすかに日に焼けている。
ぱっちりとした双眸が、横目で晴明を捉えていた。
「ねぇ、ハル! 私たちまた同じクラスだね!」
嬉しそうに文月桜子は口にした。緩んだ目元は完璧なように見えて、少しの隙を作っている。
お互いの人生の半分以上を、近いところで過ごしているのに、まだ飽き足らないのだろうか。
晴明は隣に立つ桜子を改めて、自分とは違う人物だと感じていた。当然、口には出さないが。
「サクさぁ。お前、こういうクラス決めって、完全にくじ引きで決められていると思ってんだろ」
「え? 違うの?」
あっけらかんとした表情を見せている桜子に、晴明は口を尖らせる。
「クラス決めっていうのは、生徒の相性を見て、先生たちが相談して決めるんだよ。この子とこの子は仲良いからとか、この子は引っ込み思案だけど、きっと明るいこの子が助けてくれるだろうとか。大方、俺とお前は同じ中学から来てるから、一緒のクラスに入れられたんだろ」
「じゃあ、私たちの一一年間が評価されたってわけだ」
そう自信満々にまるっきり見当外れなことを桜子は言うから、晴明は呆れ、かすかに笑みをこぼしてしまう。それでも、耳ざわりは悪くない。結局、自分は未だにこの幼馴染みを頼っているのだ。
「まぁそんなとこだな」
それだけ返して、晴明は人混みを抜けて玄関へと向かった。ついてくる桜子を、振り返って見ることはしない。
刺すような視線は相変わらず感じたけれど、晴明は無視をすることで、それらをことごとく無効化した。
教室に入っても、悪気のない視線が、いくつか二人に注がれていた。
偏差値の高い高校に行けば、誰もが勉強に追われ、周囲を気にしてはいられない。そんな晴明の目論見は、ものの見事に外れた。
はじめて入る校舎。その不慣れなシチュエーションからか、それとも自信の不足からか、全員が誰かを探しているようだった。迷子になった興味は、机に肘を乗せて頭を抱える晴明に向けられていた。
「まったく、何人も私たちのこと見て。私はいいけど、ハルは違うでしょ。パンダじゃあるまいし」
スマートフォンをいじりながら、桜子は呟いた。晴明も頷く。ピンク髪のVtuberが大きくあしらわれたスマートフォンケースのせいだろうとは、言わなかった。
晴明が持っていたら、初日で痛い奴認定されて、事あるごとにからかわれるだろう。
だが、桜子はそんなことはまるで考えていないらしく、視線を送る生徒たちを軽く睨み返してさえいる。その自由さが晴明には羨ましい。
「みんなサクを見てんだよ。お前、入試の成績もトップで、新入生代表挨拶も任されてんだろ。こういう偏差値と合格実績に懸けているとこは、そういうのめちゃくちゃ気にするから」
桜子が「それな」と笑う。晴明の顔がにわかにひきつる。
自分は一日の半分以上を捧げて、神様にも拝み倒して、ようやく合格したというのに、桜子は塾にも通わず、学校の勉強だけで、楽々試験をパスしていた。
きっと、積んでいるエンジンが違うのだ。
だが、桜子に勉強を教わっていなければ、今の自分はここにいない。
そう考えると、晴明の中では嫉妬よりも感謝が勝ち、桜子を邪険に扱うことは、どうしてもできなかった。
「まぁ、私は将来何千人というお客さんの前で舞台に立って、何万人が観るスクリーンの中で生きるんだって決めてるから。数百人くらいじゃビビってられないよ」
返す波のように、周囲が軽く引いたのを晴明は感じた。
桜子は小学生のころから背が高く、中学では演劇部でいつも主役を張るような生徒だった。
というよりも、何度か脇役もやってみたが、周りの女子より頭一つ分高く、顔も整っている桜子のことだ。誰よりも目立ってしまい、結局、主役しかできなかったというのが実情らしい。
しかし、器が人を育てるとはよく言ったもので、スポットライトを浴び続けることで、桜子の自信はぐんぐんと育っていった。その結果が、今の自己肯定感の権化である。
キラキラした雰囲気に、却って寄りつく者は少ない。
「でもさー、挨拶考えんの超めんどくさかったんだよ。先生たちは隠してたけど、私は本命じゃなさそうだったし。たぶん、学校側はハルに代表挨拶をしてほしかったんじゃないかな」
周囲の視線が、また晴明に向いた。余計なことを言うなと、晴明は心の中で呟く。
「新入生代表が補欠合格じゃ、格好つかねぇだろ」
「でも、まだ何者でもない私よりも、名前が知られてるハルの方が絶対良かったんだって。ウチの学校は勉強だけじゃないんだぞ、ってアピールにもなるじゃん」
「お前も分かってんだろ。今の俺の名前には、何の価値もねぇんだよ」
晴明の表情が曇ったことに、桜子は気がついてしまう。手の小ささに見合わない長い指が、ブレザーの裾を握り締めている。
その姿を見ていると、それ以上追及することは桜子にはできない。
どこからかシャッター音が聞こえる。桜子は持ち主からスマートフォンを叩き落とそうと席を立ちかけたが、「ほっとけよ」と晴明に言われたのでやめにした。
かすかに見えた目は、弱々しい光を湛えているように、桜子には見えた。
「事を荒立てていいことなんて、一個もねぇだろ。俺はとにかく平穏無事に、三年間をやり過ごすって決めたんだ。邪魔しないでくれよ」
懇願する晴明の声に、桜子は黙ることしかできなかった。
周囲のざわめきが桜子には、頬をぶつ強風のように感じられる。晴明が何を思っているのかは、怖くて聞くことができない。
ただうつむく晴明から目を逸らすように前を向くと、男の先生が入ってきた。「入学おめでとう」の前に「スマートフォンを回収する」と言う。
当然、周囲は不満の声を漏らしていたが、桜子はいの一番に立ちあがり、半透明の箱にスマートフォンを置いた。
自分が剥き出しの刀身に触れているようで、一刻も早く手放したいと感じていた。
「本日は、麗らかな日差しが降り注ぐ、心地の良い春の日となりました。校舎への道にたたずむ桜並木も、諸君ら新入生を歓迎するかのように咲き誇っています。改めて申し上げます。私立上総台高校、一四八名の新入生の諸君、ご入学誠におめでとうございます。教職員一同、心より歓迎いたします。並びに保護者の皆様には、お子様の入学について心よりお慶び申し上げます」
校長である陸奥の声がマイクを通して、壁に取り付けられたスピーカーから体育館中に響く。
嘘みたいに暖かく、ブレザーを着ていると少し暑いくらいの陽気だ。ワイシャツが汗に引き寄せられる感触が晴明にはあった。
一応、パイプ椅子の背もたれには寄りかからないようにしていたが、周囲を見てみると何人もがどっかりと背を預けていて、自分が入学した学校の程度がうかがい知れた。
だが、桜子はピンと背筋を伸ばしている。模範生という設定を、自らに課しているらしい。
壇上の陸奥は、来賓への感謝を述べている。OBの市議会議員が出席していた。
「本校は今年で創立五〇周年を迎えます。本校の歴史はかつて在籍していた学生や教職員、本校に携わるすべての方々の努力と苦闘の歴史でもあります。そうした方々の作った礎の上に、諸君らは立っている。ぜひ、そのことを頭に置いて、有意義な高校生活を送っていただきたいと思います。また、蓄積の上に成り立っているのは諸君らも同じです」
そこから陸奥は、長々と感謝の重要性について語った。
君たちは先祖からの蓄積の結晶だとか、今の環境が当たり前でないことを知ってほしいだとか。道徳の教科書に載っていそうな話に、学生が飽き飽きとしている、晴明には手に取るように分かった。正論を「はいそうですか」と受け取れるほど、一五才は素直ではないし、成熟もしていない。
「さて、諸君らはアレクサンドル・デュマの『三銃士』を読んだことがあるでしょうか。快男子ダルタニアンとアトス・ポルトス・アラミスの三人が結束して、縦横無尽の活躍を繰り広げる歴史小説です。この『三銃士』に有名な一節があります。『ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために』。諸君らが今ここに立っているのは、関わってきた全ての人々のおかげです。そのことをどうか、忘れないでください」
晴明が体育館の壁掛け時計を見ると、既に一〇分が経過していた。
面白みのない話は一分でも苦痛だが、一〇分ともなれば、念仏のようにさえ感じてしまう。
だが、陸奥に式辞を止める気配は見られない。
「『三銃士』では、ダルタニアンたちはついに宰相リシュリューを打ち倒します。なぜそのようなことができたか。それは『ひとりはみんなのために』という言葉のもと、結束することができたからです。これは高校生活も同じです。もちろん全員とは言いませんが、昨年度実績九八%の進学率を誇る本校に入学してきたからには、君たちの多くが大学への進学を見据えていることでしょう。三年という月日は諸君らが考えているよりも短いものです。受験は個人戦と思われがちですが、学校全体が結束しなければ乗り越えることができない団体戦です。本校は校訓の一つに『結束』という言葉を掲げています。イソップ寓話にもあるように、協力し合うことができたならば、諸君らは簡単には折れることはありません」
体育館に満ちる静かなざわめき。もちろん早く話を終わらせてほしいという無言の要望だ。
晴明はじっと膝の上に手を置くことで、退屈をやり過ごした。もはや頭は、ただひたすら時間を数える機械だ。
横目で見る桜子は、こんな状況でも棒が通っているように背筋が伸びているから、大したものだと晴明は感じた。
陸奥が式辞の書かれているであろう紙を机に置いて、にっこりと笑った。
さすがに倦んできた雰囲気を察したのだろうか。
その笑みは火に油を注ぎそうなものだったが、一五年の蓄積が新入生たちをなんとか抑え込んだ。
「さて、そろそろこんな初老の男の話にも、飽きてきたことでしょう。実は今回の入学式には、特別ゲストを呼んでいます。それではお入りください」
(続く)