第6話 仮眠
「おはようございます……って大分眠そうですね。昨夜は十分な睡眠を取りましたか?」
「おはよう、綾辻さん。ちゃんと……ふぁああああああ……寝れてるよ」
「ちゃんと寝れてる人はそんなに大きな欠伸はしません。目の下の隈が酷くなってますし、最近寝不足なのでは?」
「まあ……そんなとこかな……」
曖昧な返事に生気が籠ってないことを察し、呆れ半分、心配半分といった様子で陽葵が短いため息をつく。
4日間に渡る期末テストが始まってからも学校に行くことに変わりはなく、2人は毎日電車で顔を合わせて5分間だけ肩を並べていたのだが、ここ最近は秀次だけ明らかに様子が違っていた。
第一にまず顔色が悪い。血の気が通っておらず、どこかげっそりとした様子は体調不良かと心配になってしまうほどだ。
目の下の隈は日に日に濃くなっていくし、電車を降りる時の足取りはふらふらだしで陽葵にとっては気が気でない。
「樋山君が何だか体調悪そうになったのってテストが始まってからですよね……。そちらの学校のテストはそんなに厳しいものなのですか?」
純粋に心配な気持ちと単純な疑問を持って問いかけてくる陽葵ははテスト期間でも変わらず完璧で、毛先まで手入れされたダークブロンドの髪からピカピカに磨かれたローファーまで全身が整っている。
秀次に取って超エリートの麗秀学院に通う陽葵が毎日どんな生活をしているのかは、今こうして肩を並べている5分間しか知らず、他の23時間55分は想像が全くつかない。
ただ、隣に座る1億年に1人の超絶美少女に一夜漬けという概念が無いことだけはわかる。
「世の中の大半の学生はテスト前こうなるんだよ」
「なるほど……普通皆さんはテスト期間中、自分の限界を超えて必死に頑張っているという事ですね。私も見習わなければ……」
「いや、これは普通じゃない。どちらかと言うとダメな人がやる最後の手段だからマネしない方がいい」
陽葵に普通は禁句だと言うこと忘れてしまうほどに、秀次の脳は睡魔に襲われて思考が止まっていた。
今も会話が途切れて口が閉じた途端に急激に眠くなり、腕を自分でツネって意識を何とか保っている状態だ。
その様子を隣で数日間見ていた陽葵はどうしても心配の気持ちが強まってしまう。
「どうしてそこまで頑張っているのかわかりませんが、そんなに眠いなら桐山町に着くまで仮眠してはどうですか? たった5分間弱ですが寝ないよりはマシのはずです」
「いや、いいよ……」
「今の状態でテストに挑めると思いませんし、少しでも身体を休めてください。駅に着いたら私が起こしてますから」
「んー……じゃあ……そうする……」
前科があるために寝落ちだけは避けたいという気持ちとせっかくの陽葵と一緒に居られる5分間を睡眠に使いたくないという気持ちが重なって、どうにか気力で起きているのの、ほとんど半分寝ている状態の秀次は会話かどうかも怪しい受け答えをするので精一杯だった。
促されるままに角席の特権、右側の仕切りに寄りかかり目を瞑ると直ぐに猛烈な眠気が襲ってきた。
枕として頭を預けている固い素材の仕切りは寝心地最悪だが、次第に意識が朦朧としてきて夢の世界へ誘われる。
目を覚ましたのは車内アナウンスが駅に到着することを知らせている頃だった。
頭をポンポンと叩かれ、浅い眠りから現実に引き戻される。
「樋山君、もうすぐ着きますよ。起きてください」
「んっ……」
時間にしては3分程の短すぎる仮眠だったが、不思議と気持ちが楽になった気がする。
たった3分の睡眠で体力が回復するわけがないが、脳と身体がそう勘違いしてしまうほどに、枕替わりに身体を預けていた場所がとにかく心地よかった。
少し熱を帯びている柔らかい枕代理は身体全体を包み込むようで、眠りから覚めた後も暫く目を開けることが出来なかった。
何だかシトラスの良い匂いまで香ってきて、再び眠ってしまいそうになる。
(あれ……確か俺、固い仕切りに寄りかかってたような。それにさっき頭上から声が聞こえてきた気がする……って何だこの状況!?)
二度寝を決め込んで乗り過ごすなんて失態を犯さないために、全力で瞼を開けた秀次の視界の先に飛び込んできたのは、真横に積み重なる乗客の姿だった。
そして直ぐに秀次は何が起こっているかを理解して飛び起きる。
それは丁度電車が停車して、ドアが開いた時だった。
「さあ、桐山町に着きましたよ。テスト最終日頑張ってくださいね!」
「あ、ああ……うん」
「また明日」を交わして、逃げるように電車を降りた秀次は駅のホームで1人動かずに茫然と立ち尽くしたて、自分の左頬にそっと手を当てる。
頬に仄かにまだ残っている温もりを感じて、一層顔が火照ってしまう。
「今度、それは普通じゃないって伝えないと……」
起きたら身体が横向きになっていた。
そして右側に倒していたはずの身体が90度左側に。
頭をそっと優しく包み込む、微熱を帯びた弾力の肌色の枕……それは紛れもなく乙女の柔肌だった。
疲れ果てた秀次を見かねた陽葵が大胆にも公共の場で膝枕を提供してくれたらしい。
名門エリート学校に通うお嬢様が一般人の認識と少しズレがあることは理解していたが、今日を通してそのズレの大きさを身をもって知ることになった。
お陰で極上の眠りに付けたものの、代わりに一夜漬けで詰め込んだテスト範囲の知識が全て吹っ飛ぶ衝撃を与えられた秀次は補習を受ける覚悟を決めた。