第4話 また明日
いつも通り、7時11分発の電車にギリギリで駆け込んで特等席に座った秀次は目を疑った。
真正面の席が空いていない。
そもそも4か月もの間、途中駅まで角の席が空いている状況が不自然だったのだが、隠れロマンティスト秀次はこれも何かの運命だと思っていた。
(これじゃあ、あの子が他の場所に行っちゃうかも……)
内心めちゃくちゃ焦っているものの、そこに好きな子が座る予定なので他の席に移ってくださいとは口が裂けても言えない。
それに、昨日の事を考えるともしかしたらこっちの方が好都合かもしれない。
置き忘れた小説を返してくれることになった場合、一度はこちらに来てくれるはずだ。
しかも、今現在隣の席は空いてると来た。
肩を並べながら楽しく談笑……そんな明るい未来をぼーっと想像しているうちに電車がゆっくりと止まった。
「ご乗車ありがとうございました。虹橋ー虹橋。お出口は左側です」
奇跡は何の問題も無く当たり前のように続いた。
しかし、車内の状況はいつもと違う。
「えっ……」
美しいダークブロンドの髪を揺らしながら乗車してきた碧眼の美少女が小さく困惑の声を漏らす。
どういった理由なのか見当もつかないが、4か月間座り続けている席が既に埋まっているのは想定外だったのだろう。
ドアが閉まり、電車がゆっくりと動き出してからも暫く同じ場所に立ち尽くし、やがて空いている席を求めて周りを見渡し始めた。
そして、その美しい蒼色の瞳が真っ直ぐ秀次のところでぴたっと止まる。
車内は混雑してるわけではないが、通勤通学時間のために空いている席は少ない。
彼女が乗車したドアから一番近い空いている席、それが秀次の左隣だった。
コツコツとローファの靴音が近づき、秀次の左隣りに1億年に1人の超絶美少女が座る。
理想が現実となった秀次の心臓は口から飛び出してしまいそうな程バクバクだった。
急展開に頭が真っ白になる。
左隣から漂ってくる何だか甘いフルーティーな香りが思考を更に妨げる。
こういう時は、頼れる親友に意見を求めるしかない。
『翔、ヘルプ。あの子、俺の隣に座ったんだけど』
『ヘタレ野郎に神様は随分優しいな。この機会を絶対逃すな。とにかく話せ。返信不要、する暇あったらアタックしろ』
どうやら取り付く島は無いらしい。
隣の女の子に聞こえない程度の小さなため息をついて、そっと携帯を閉じる。
昨日の朝の一部始終を翔に話してから、不名誉なあだ名がついてしまった秀次は相も変わらず今日もヘタレ野郎になりかけていた。
話しかけろと言われたって、どう切り出していいか分からない。
まだ名前すら知らない異性にいきなり話しかけるのは、翔のようなチャラ男でないとハードルが高すぎる。
もし声を掛けて、ナンパだと思われたら。不審者だと思われたら。気持ち悪いと思われたら。
そんなネガティブなたらればばっかりが頭の中を支配する。
(ダメだダメだダメだ。昨日、それで後悔したじゃないか。ここで一歩踏み出さなかったら本当にいつまでもこのままな気がする)
話すきっかけならある。
昨日、車内に置き忘れた小説が共通の話題になるはずだ。
しかし、もしそれを拾っていたら真っ先に話しかけてきてくれるんじゃないか?
そう考えると、今も無言で隣に座っている以上、小説はスルーされた可能性がでてくる。
(あー、もう考えれば考えるほど言葉が出ない! 頑張れ俺、勇気を出すんだ!)
乗客Aから友人Aに昇格するため、覚悟を決めた秀次が初恋の女の子が座る左隣に顔を向けて声を発したその時だった。
「「あの!」」
緊張からか、少し裏返って高くなった秀次の声に、澄み透った美しい声が重なった。
左隣の女の子もまた、顔を右に向けて声を発したのだ。
「「ど、どうぞ……」」
またしても2人の声が重なり、互いに相手の言葉を待って暫く沈黙が続く。
その沈黙を破ったのは、既に勇気を使い果たしてしまったヘタレ野郎ではなく、小さく息を吸い込んで何やら気合を入れた1億年に1人の超絶美少女だった。
「……樋山秀次君……ですよね?」
「えっ……何で俺の名前を……」
表情と声音から明らかに驚きと困惑の色を見せる秀次を見て、1億年に1人の超絶美少女が高級感のある革の手提げカバンから一冊の本を取り出して秀次に差し出した。
「これは、俺が昨日電車に置き忘れた小説……」
「良かった、違う人のだったらどうしようかと……。名前はカバー裏に書いてあったんです」
「カバー裏? ……本当だ。あいつ、こんなところまで……」
「あいつ?」
「いや、こっちの話です」
土日を使って読み込んだものの、カバー裏に目が行くことは無かった。
白地の台紙に油性ペンで書きなぐられた樋山秀次の文字は間違いなく翔が書いたものだ。
こういう展開も見越して用意をしていたと思うと頭が上がらない。
何から何まで翔の思惑通りに進んでいて逆に怖いくらいだ。
こうして置き忘れた小説を届けてもらったことで距離を縮める絶好のチャンスが訪れた。
しかも肩を並べて座っている状況。
翔と立てた作戦はこれ以上ないほど上手くいっている。
「まもなく桐山町ー桐山町ー。お出口は左側です」
それなのに、時間が足りない。
どれだけ作戦が上手くいって、ようやく初恋の女の子と会話が出来たとしても秀次には5分という短すぎるタイムリミットがある。
これから勇気を振り絞って会話をしようにも、直ぐに電車を降りなければならない。
乗客Aから友人Aに昇格するために足りない後一歩……その一歩を中々踏み出せないでいる秀次は、まさか相手からその足りない一歩分の距離を縮めてもらえるとは思ってもいなかった。
それは電車が減速をし始め、黄色い線の内側で列を成す学生やサラリーマンが見え始めた時だった。
「実は私もその本を読んでいて、もう少しで読み終わるんです。それで……良かったら、明日お話しできませんか? 周りに樹本先生の作品を読んでる人がいなくて、感想を言い合えたらなって……」
隣に座る1億年に1人の超絶美少女が伏し目がちに言葉を重ねた。
その声は所々消え入る様に擦れ、頬がほんのりと紅潮している。
「お、俺でよかったら是非! 丁度俺も誰かと語れたらな、と思ってたところです」
「本当ですか!」
願っても無い申し出を断る理由は無いので即答で了承すると、不安げな表情を浮かべていた碧眼の美少女の顔が一気にパッと明るくなる。
4か月間、真正面に座る初恋の女の子が読書をしているところをひたすら見続け、感受性がとても豊かなことは知っていたが、間近で見ると思わず見惚れてしまいそうになるほど可愛い。
日に日に好きな気持ちが増していったのも、そのコロコロと変わる表情がとても愛らしかったことが大きい。
そんな大好きな人の多彩な感情は小説の物語に対してであって、決して自分に向けられているわけではない……そう一昨日までは思っていた。
オロオロと心配そうに見つめる顔、鈴を転がすように美しい声、緊張からか淡く赤色に染まった頬、太陽の様に眩しい嬉々とした表情。
4か月間一度も見たことが無かった姿、そのすべてが自分に向けられていることに胸の高揚が抑えられなくなる。
「私、綾辻陽葵って言います」
1億年に1人の超絶美少女は自己紹介と共に目を細めてあどけない笑みを浮かべた。
それは4か月前、秀次が恋に落ちたあの時のように優しく、柔らかく、そして朗らかな笑顔だった。
(あやつじ……ひまり……)
秀次は心の中で魔法の言葉を呟くように、4か月間想い続けた女の子の名前を1文字1文字大切に反芻する。
「ご乗車ありがとうございました。桐山町ー桐山町ー。お出口は左側です」
車内に響き渡るアナウンスとドアが開いたことにより流れ込む駅の喧騒が、一向に鳴りやまない秀次の心臓の音をかき消していく。
「樋山君、また明日……」
「ま、また明日……。綾辻……さん……」
毎日たった5分間だけ同じ空間を共有する1億年に1人の超絶美少女とただの平凡な乗客A。
4か月間変わることが無かった、そんな近くて遠い関係が鮮やかに彩付きだした瞬間だった。
樋山秀次と綾辻陽葵。
2人の恋がゆっくりと動き出す。