第44話 お泊り
「ここが樋山君のお家ですか……」
「ちょ、ちょっと待っててね。直ぐ戻るから」
興味深そうに何の変哲もない二階建ての一軒家を眺める陽葵をドアの前で止め、急ぎ足で先に家に入ると夜の街よりも暗く静かな世界が広がっていた。
それもそのはず、電気は一つもついておらず、家には誰もいない。
玄関の電気を急いでつけて明かりを確保し、直ぐに二階へと駆け上がった秀次は何故か綺麗さっぱり片付いている自分の部屋を見て頭を抱えた。
記憶喪失になったりしていなければ、今朝家を出た時、部屋は散らかりまくっていたはずだった。
床には花火大会に何を着て行こうかと散々迷った挙句、選ばれなかった服が。
ベッドには結局一つも役に立たなかった、翔から借りたデートやオシャレ関連の本が。
勉強机は元より教材やらマンガやらが乱立していたのを鮮明に覚えている。
それが今では全て失くなっている。
正確には、元の場所に仕舞われていた。
今では今朝の汚部屋は見る影が無く、清潔で感じのいい空間が広がっていた。
こんなことをするのは一人しかいない。
真っ先に自由奔放でお節介な母親のニヤニヤと憎たらしい顔が思い浮かぶ。
何を思って母親は弾丸旅行を決行して家を空け、息子の部屋を完璧に片付けたのか。
目的は大体想像が付く。
電話でも言っていたように、一緒に花火大会に行ってる女の子を誘えと言う事だろう。
あまりの大胆さと余計なお世話っぷりに大きなため息が自然と口から零れるのと同時に、今日ばかりはその奇想天外ぶりに秀次は感謝した。
「綾辻さんお待たせ。入っていいよ」
「……お邪魔します」
まさか、本当にその時が来るなんて秀次は夢にも思っていなかった。
告白が成功して陽葵と付き合うことが出来たのも夢の様なのだが、更にその後お泊りをすることになるとは。
しかもニ人きりで。
一体どうしてこんな状況になったのか。
しゃがんで草履を脱いでいる浴衣姿の陽葵を見ながら秀次は一時間前の事を思い出していた。
「陽葵お嬢様! ご無事でしたか……あらあら、どうやら婆が心配する必要など微塵もなかったようですね」
陽葵と想いを伝え合い、互いの気持ちが通じ合った後。
何だか気恥ずかしくなり、手はしっかりと繋ぎながらも無言で駅までの道を歩く途中、いきなり隣に車が止まった。
誠がまた追ってきたのかと身構えたが、 高級感漂う黒塗りの車から降りてきたのは人の好さそうなお婆さんだった。
しかし、外見の年齢に似合わずスーツを着用し、高級車を乗りこなす姿から只者ではないことが伺える。
何より、陽葵のことをお嬢様と呼んだのをはっきりと聞いた。
どういう関係なんだろう、様子を眺めていると何やら明らかに動揺している陽葵がおずおずと反応を示した。
「静さんがどうしてここに……」
「話すと長くなりますから、まずは車に乗って下さい。もちろん彼氏さんも一緒にね」
「な、なんでわかったんですか?」
「それはもう、長年の勘ですよ。それに、わかりやすいヒントがありましたから」
そう言って、静と呼ばれたお婆さんは目線を落とした。
秀次と陽葵が指を絡ませ、肌と肌をぴたりと合わせた手の方へ。
誰かに見られた途端に急に恥ずかしくなった秀次が繋いだ手を緩めると、同じタイミングで陽葵も手を引っ込めた。
空を掴む掌を少し寂しく思いつつ、この人は誰かと陽葵に視線を送る。
「あらまあ、二人とも初心ねえ。別にお婆さん一人に見られたっていいじゃないの」
「……紹介します。私の乳母、小野寺静子さんです」
広々とした後部座席に、陽葵と一緒に乗りこむと直ぐに車が動き出した。
運転手である静子のハンドルは一切の迷いが無く、窓から眺める景色は一瞬で後ろへと流れていった。
陽葵の乳母と言うことでとりあえず信頼しても良さそうだが、一体どこに行くつもりなのか全く見当が付かない。
いつも通り電車で帰るつもりだったのだが、果たしてこの車の行き先はどこなのか。
陽葵の家は虹橋のはずだし、そこで降ろしてくれるのかもしれない。
そんな考えを見透かしたかのように、ハンドルを握る静子が振り返らずに声だけを発した。
「陽葵お嬢様。先に言っておきますが、一人暮らしをなさっていた虹橋のお家には帰れませんよ。既に唐立の者の手が回っておりました」
「それ本当? どうしよう、お母さんの家にはまだ行けないし……そうだ、ねえ静さん。今日は静さんの家に泊まらせて貰ってもいい?」
「申し訳ありませんがお嬢様、その願いを聞くことは出来ません。静の家は今日一日だけ立ち入り禁止なのです」
「な、なにそれ! てっきり泊めてくれるつもりで迎えに来てくれたのかと……。近くにホテルってあったかしら……あっ、でももうカードは停止されてるかも……」
唯一の頼みの綱をあっさり切られ、わかりやすく狼狽える陽葵に静子はルームミラー越しに笑みを浮かべた。
「いつもの聡明な陽葵お嬢様はどこにいかれましたか。直ぐ近くに答えがあるじゃないですか」
「直ぐ近く?」
首を傾げ、辺りを見渡した陽葵と目が合った。
コバルトブルーの瞳はきょとんとしている。
少しの間があった。
何かに気づいた陽葵の目が急激に泳ぎ出し、顔が一気に赤くなる。
同じように静子の言葉の意味を察した秀次もまた身体中が熱くなり、頭の中が混乱し始めた。
「小野寺さん、それって……」
「トランクに着替えや生活用品一式が詰めてあります。彼氏さん、陽葵お嬢様をよろしくお願いしますね」
「いやっ、でも今日俺の家族出掛けてて家に誰も居ないんです! それってなんていうか……」
「そ、そ、そうですよ! いきなり押しかけるのも失礼なのに、ご家族の方がいらっしゃらない間にお世話になるなんて……」
「何を二人とも狼狽えているのですか。ご家族がいないのなら寧ろ好都合なのでは? お付き合いし始めたなら、それはもう色々とねえ」
色々と、に一体何が含まれているのかはわからない。
しかし秀次の抵抗を止め、黙らせるには十分な効果があった。
一方で陽葵は最初、見たことが無い猛烈な勢いで抵抗と代替え案の提唱をしていたが、その全てを静子に軽くいなされて最後にはすっかり大人しくなってしまった。
流石乳母と言ったところか、幼い頃に引き裂かれた実の母代わりに陽葵をここまで育てきただけはある。
「樋山君はいいのですか……?」
「な、何の事?」
「その、誰も居ないお家に押しかけるような真似は失礼かと」
「いや、俺は全然大丈夫。寧ろ綾辻さんなら大歓迎と言うか……」
「……それなら……一日、よろしくお願いします……」
「こ、こちらこそ。よろしくお願いします」
何故か顔を真っ赤にしながら互いに頭を下げる秀次と陽葵の姿をルームミラーで捉えた静子は僅かに口角を上げた。
その笑みを浮かべた表情はまさしく娘を見守る母親の顔だ。
静子が運転する車は虹橋を通過し、秀次が住む地域に向かって真っ直ぐに進んで行く。
車内に流れる優雅なクラッシック音楽は心臓の音を掻き消してくれているのだろうか。
今から陽葵が家に泊まりに来る。
しかも家には誰も居らず、二人きりの状況。
そのことを考えると、秀次の心臓は更に激しく脈を打ち始めた。
第44話を最後までお読みくださった皆様ありがとうございます。
暗いシリアス回を抜け、長かった花火大会編が終わり、無事に秀次と陽葵は気持ちが通じ合ったわけですが。
いよいよ本編完結まであと少し、その少しはもちろん砂糖たっぷりのピュアピュアで甘々な恋物語!
やっぱり「ピュア甘」はこうじゃないとね!
そして「ピュア甘」本編完結まで毎日投稿頑張っちゃいます!
フィナーレに華を添える怒涛のシュガーラッシュをお楽しみに!




