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第38話 1年前


 今から丁度、1年前のこと。


 中学3年生の夏休みは今までより大変大きな意味を持つ。

 最後の大会を前に部活を打ち込む人もいれば、半年後に迫った高校受験に向けて勉強三昧の人もいる。

 部活に入っていない秀次はもちろん後者。

 そして、翔はそのどちらにも属さなかった。


「この問題は接点から直線と曲線の式を導き出して、こっちの方程式に代入……って、おい。秀次、聞いてんのか?」

「ん? ああ、聞いてるよ」

「本当か? だったら俺の顔じゃなくて問題を見ろよ。それとも何だ、俺の顔に何かついてるか?」

「違う違う。単純にやっぱ翔って教えるの上手いなあと思って。よっ、指定校推薦のエリート!」

「無駄口叩く暇あったらペンを動かせペンを。俺と同じ高校行くんだろ? それならこのくらいの問題すんなり解いてくれないと困る」

「うへえ……翔先生は厳しいことを言う……」


 自分の学力よりもワンランク上の高校にいくというのは中々に難しい。

 勉強が好きか嫌いと言ったら嫌いを選択する秀次にとっては猶更だ。


 そんな秀次が自分と同じ高校に行きたいと言い出した時、翔は素直に嬉しかった。

 指定校推薦の結果が出るのはまだ先だが、ほぼ間違いなく受かっている自信がある。

 大体、余程の事が無ければ指定校推薦で落ちることは無い。


 そこで翔の脳裏にある考えが浮かんだ。


 幸いなことに指定校推薦枠に入れたために時間はたっぷりある。

 友達は皆受験生で遊べないし、熱中する趣味も特にない。

 それに小学校から一緒なだけあって、お互いの家は近く集まるのに苦労はしない。


 そんなこんなで翔は自ら申し出て、秀次の家庭教師擬きを務めることにした。


 とは言っても秀次は隣町の塾に通っているため時間は限られる。

 時間は午前中、場所は駅前のファミレスで。 

 その場で昼飯を一緒に食べ、秀次は午後から電車に乗って塾に向かう。


 その繰り返しの毎日が続き、2週間近くが立った頃。


「今日は翔も電車に乗るんだな。何か用あんの?」

「用ってほどのものでもないけど、ショッピングモールに行ってぶらぶらしようかなって」

「1人で?」

「1人で。何だ、ぼっちじゃ悪いか」

「いいや、そういや最近翔の兄ちゃん見ないなって。昔はよく一緒にいたからさ、思い出しちゃって」

「あいつ、もう大学生だぜ? 一緒に買い物いくような仲じゃもうねえよ」

「それもそうか。なんたって日本一の大学に受かったんだもんな、仲とか以前に忙しいに決まってる。翔は指定校推薦で進学校に進むし、兄弟揃って親孝行だ」

「……親孝行ねえ」


 親友の何気ない言葉が胸にぐさりと刺さった。 

 

 はっきり言って親はあまり好きではない。

 もちろんここまで育ててくれたことには感謝している。

 それでもどうしても好きになれなかった。


 エリート街道を進む文武両道な兄と比べられる毎日。

 神童と謳われた通りに成長する兄と同じスペックを求められ、そんな期待を裏切らない様に愚直に親から与えられたものをこなした。

 

 結果はまずまずと言ったところか。

 こうして有名進学校の指定校推薦を勝ち取った。


 しかし兄はその上を軽々と超えてくる。

 いつも、いつもだ。

 その度に兄は褒め称えられる。

 そして自分に掛けられる言葉はいつだって「兄の様に頑張りなさい」といった呪いの様な言葉だった。


(親孝行だなんて俺はそんな奴じゃない)


 そうキッパリと否定したい気持ちを胸の底に押し込む。


 いつしか兄の様に愛情を注がれたいという思いは諦めてしまった。

 その代わりに何故か親に対し、嫌悪感や憎しみを覚えるようになってしまった。


 どうして兄ばっかり。

 

 そんなどうしようもないこと恨み言を抱くようになった自分も段々嫌いになってきた。


 秀次が親孝行と言う指定校推薦も、小さなころの習慣が根付いていて、今となっては自分の中で何の意味も無くなった勉強をずるずるとやってきただけだ。


 本当にやりたいことは何だろう。

 他の友達は部活、勉強、趣味、それぞれ今を時めいて打ち込んでいる。

 その間、自分はただひたすら機械の様に過ごしていた。


「おっ、もう直ぐ電車が来る。お前は反対方向だからここでお別れだ。模試頑張れよ、応援してる」

「サンキュ。これで俺の成績爆上がりしたら、お礼として何か奢るわ」

「言ったな? 奢りたくないからってわざと間違えたりすんなよ」

「この時期にそんな馬鹿な事するわけないだろ。安心しろ、1位取ってくるからさ」


 何度か親友に胸の内を聞いてもらおうとしたことがある。

 しかし、その度にいろんな感情が押し寄せて喉を詰まらせた。


 今日も同じように思いの内を全てぶちまけてしまおうかと思った。

 秀次なら黙って最後まで聞いてくれる。

 そして欲しい言葉を掛けてくれる、その確信があった。

 そしたらどんなに気持ちが楽になるだろう。

 きっと自分が変わるきっかけになる、そんな淡い期待すらあった。

 

 でもそれは今ではない。 

 絶対に、だ。


 秀次は高校受験に挑んでいる真っ最中。 

 しかも今は模試を前にした状況。

 

 こんな時に自分が楽になりたいからと一方的に話し始めるほど腐ってはいない。


 だから謎に自信満々の親友に黙って苦笑を返し、電車に乗って早々に別れようとした、その時だった。


「……ん? あれってもしかして……いや、違うよな」

「どうした?」

「ほら、そこに白線の内側、相当ギリギリの所に立っている人いるじゃん? ちょっと暗めの金髪の人。何か嫌な予感してさ。まるで――」

 

 自殺しようとしているみたい。


「お姉さん危ない!」

 

 翔が言葉を続ける前に3つの出来事が同時に起きた。


 1つ、白いワンピースを着たお姉さんの身体が線路に投げ出された。

 2つ、怒声にも似た大声を発しながら、鬼気迫った表情で秀次が線路に飛び込んでいった。

 3つ、電車がもう直ぐ到着する旨を伝えるアナウンスがホームに響き渡った。


「翔! 上から引き上げろ!」


 親友に今まで聞いたことのないような大きな声で名前を呼ばれ、翔はようやく我に返った。

 言われるがままにホームに駆け寄り、線路に向かって手を伸ばす。


 明らかに無理な話だった。

 

 見れば秀次に支えられている女性はぐったりとしていて生気が無い。

 落ちる直前か、落下の衝撃かで意識を失ったようだ。


 線路とホームの高低差は実はあまり大したことが無い。

 背丈と碗力がそれなりにあれば自力で這い上がれる。


 しかし意識が無い人間を持ち上げるとなると話はかなり違ってくる。


 とてもじゃないが高校生2人だけで救助できるものではない。


「誰か手伝えよおい!」


 秀次がそう声を荒らげて、ようやく1人、1人と救助に向かって歩き出した。

 

 目の前の状況で手いっぱいで気付かなかったが、ホームにいた中年のサラリーマンも、私服姿の青年も、制服を着た学生も、OLや若い女子グループも、誰1人して突如線路に落ちた女性を助けに駆けつけてこなかった。


 普段温厚な秀次が明確にキレているも分かる。

 人の命が掛かっているこの状況で、今の光景は異常で異様だった。


 そして秀次が呼びかけるまで動かなかった周りの人たちの気持ちも翔は分かっていた。

 自分もその1人だったからだ。

 名指しで呼ばれてなければ他と同じように棒立ちで眺めるだけだったはずだ。


 もっと早く行動できていれば。


 この一刻を争う状況で翔たちの行動は遅すぎた。


――キキイイイイイイイイイイイイッ


 電車の急停止音が断末魔の様にホームに鳴り響き、暗闇を照らすライトが無慈悲に線路に残された秀次を捉えた。


  


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