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第35話 ヒーロー

 

 唐立ではなく綾辻。

 

 それが何を意味するのか。


 誰よりもこの人、唐立(からたち)(まこと)は知っている。


「何の真似だ陽葵」

「そのままの意味です。私は綾辻陽葵として生きていきます」

「……もしや、と思ったがやはりそういう事か」

 

 明確に歪んだ父親の顔を真正面から見据える。

 計算されつくした完璧な笑顔は鳴りを潜め、その表情からは怒りが滲んでいた。


 この人の笑顔が崩れたのはいつぶりだろう。

 こっちの方がよっぽど人間らしい。

 そしてこの人の本性が良く表れている、そう思う。 


「香織の所に行くつもりか」

「はい。私はお母さんと暮らします」

「そんなことを俺が許可すると思うか?」

「してもらいます」

 

 臆することなくただ淡々と言葉を返す。

 

 今まで逃げていた、避けていたこの人に今日この場で抱えてきた全てを伝える。

 全部が全部上手く行くとは思っていない。

 この人がはいそうですかと簡単に手放してくれるはずがない。

 

 それでも止まる気は無い。

 この人が想定より大分早く帰ってきたせいで準備はまだ整っていないが、勝算はある。


 何より今日は彼に告白をすると決めた。


 その想いが力強く背中を押してくれていた。


「お前たち、娘を車に乗せろ。ただし丁重に扱え。傷をつけては価値が下がるからな」


 しかし父親から告げられたのは、こちらの思いとは裏腹に一切の慈悲も無い冷酷な言葉だった。


 抵抗を試みるも、父親の両脇で待機していた屈強な男たちに囲まれて力づくで車の後部座席に乗せられてしまう。

 

「ちょっと待ってよ! まだ何も話してないでしょ! 今までずっと考えて――」

「話にならん。子は親の所有物だ。勝手は許さん」


 そうだった。

 この人は手段を選ばない。

 最初から話し合いなど通じる相手じゃ無かった。


 子は親の所有物。


 そんな歪んだ考え方を当たり前の様に持っている人だ。


 身動きを封じられ、車がゆっくりと走り出す。

 向かう先はこの人と血のつながっていない義弟が住む本邸だろう。


「なあ、陽葵。何が不満だ? 衣食住、君は全てに困らなかっただろう? 何一つ不自由なく育ててきたはずだ。それが何故今更になってあの女の下へ行こうとする」


 確かに必要なものは全て与えられた。

 最高級の服装に豪華絢爛な食事、都内の一等地に立てられた大きな邸宅。

 世界中から見ても恵まれた、恵まれ過ぎた環境だったかもしれない。

 

 けれども致命的に、一番大切なものが欠けている。


「思えば、確かに最近の陽葵はおかしかった。中3の夏だったか? 初めて俺にお願いをしたよな。一人暮らしがしたい。連れていく使用人は選ばせてほしい。愛する我が娘の為だ、断腸の思いで許可したさ」


 今まさに口にした愛という形のないもの。

 それがこの人には一欠けらも無い。


「それがまさか恩を仇で返されるとはな。全て調べたぞ。高校生になってから学校へ電車で登校してるらしいな。休日は遊びに出かけ、あまつさえバイトまで始めたみたいじゃないか……なあ、誰が許可した? 誰が認めた? お前の身に何かあったらどうするつもりだったんだ? もう1度言う、子は親の所有物だ。勝手な行動をするんじゃない」


 自分の思い通りにならないと、この人は徐々に本性が現れる。

 一方的に威圧的な言葉を連ね、反論の余地を与えず相手を封じる。


 何か言わないとこの人の思う壺なのに、唇が震え、喉から言葉が出ない。


 狭い空間に閉じ込められ、屈強な男に監視されている状態。

 

 まるで唐立としての今までの生活を想起させるような状況に、抵抗する気はすっかり失せてまった。


 この人から、この家からは逃げられない。

 

 嫌でもそう思い起こさる。


「……どれもこれもあの樋山秀次とかいう男のせいか?」

「彼は……樋山君は関係ないでしょう」


 想い焦がれる彼の名前が父の口から語られ、震え、擦れながらもようやく言葉を発すること出来た。

 全て調べたと言っていたし、当然彼の事も知られているとは思っていた。

 だから迷惑を掛けない様に、せめてもだが無関係を主張する。


「いいや、関係あるだろう。大いにあるはずだ。君が唐立から逃れるなどとそんな甘い幻想を抱くようになったのは紛れも無く彼のせいだろう。彼が香織を助けた、話はそこに起因するはずだ」


 それでもこの人は、そんなちっぽけな抵抗を上から圧倒的な力で押しつぶしてくる。


「まさか惚れでもしたか? そこら辺に転がっているただの一般人に。残念だが、その恋は実らんよ。聡明な君なら覚えているだろう? 君には婚約者がいるんだ。まあ確かに歳の差が倍以上あるのは気になるかもしれんが、お相手は大企業の社長の息子だ。嫁げば一生遊んで暮らせるぞ? そして我が唐立も安泰だ」


 窓から花火が見える。

 車の窓からガラス越しに見える花火はとても小さく、音は聞こえなかった。


「ああ、なるほど。君の急な心変わりに今、納得がいったよ。夏が終わり、秋が来れば君は晴れて誕生を迎えて16歳になる。結婚させられる前に逃げようとしたわけだな? 無茶な事を思いつくものだ。そして笑えてくる。唐立から逃れるなど出来るはずが無いだろう? 君は唐立陽葵なんだ。二度と綾辻など名乗るんじゃない」

 

 途中から助手席で捲し立てる父親の声すら耳に入ってこなかった。

 

 このまま家に連れ戻され、再び暗い闇の中に閉じ込められるのだろう。


 きっとお母さんにはもう会えない。


 そして彼にももう……。


 せめて、この胸の内に秘めた想いを伝えたかった。

 

 大好き、とただその一言だけでも伝えたかった。


(樋山君……)


 自然と涙が頬を伝った、その時だった。


「あっぶねえなおい!」


 まず最初に運転席から怒声が聞こえた。

 それからけたたましいブレーキ音が鳴り響き、車が急停止する。


 衝撃を覚悟して瞑った目をゆっくりと開ける。


 何が起きたんだろうと思い、恐る恐る後部座席からフロントガラスを見る。


 ヘッドライトに照らされた車道には人影が写っていた。


 光が強すぎでよく見えないが、髪が金ぴかに染まっていることだけは分かる。


「いきなり飛び出してくるとはどこの馬鹿だ。おい、邪魔だ。どかしてこい」

「わかりました」


 低く冷たい声で心底うざったそうに呟いた父親が、まだ車道に立ち塞がっている人を顎で指す。

 目線は後部座席に座る使用人だ。


 命令されるや否や、スキンヘッドにサングラスとイカツイ格好をした使用人がドアを開けて飛び出していく。

 

 その数秒後だった。


 一時的にだが監視、拘束が途切れたこのタイミングをまるで見計らったようなタイミングで。


「綾辻さん!」


 力強く、それでいて優しく手を引っ張られた。


 何故だろう。


 何故彼はここにいるのだろう。


 何故彼はいつも駆けつけてくれるのだろう。


「樋山君!」


 気づけばその手を握り返し、大好きな彼の名前を呼んでいた。

 

  


第35話を最後でお読みくださった皆様ありがとうございます。


囚われのお姫様を助けるのはいつだって王子様。

陽葵にとって、彼はそんなヒーローなんです。


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