第34話 父親
「陽葵」
まただ。
また名前を呼ばれた。
自分の名前を呼ばれているというのにその気が全くしない。
その声の主はただ機械的に、所有物の名前を確認の為読み上げるかのように三文字の言葉を紡いでいる。
「聞こえていないのか? 唐立陽葵、君に言ってるんだ」
「その名前で呼ばないで!」
唐立。
今まで自分を縛り付けていたその名字を聞いて、思わず声を荒らげ反射的に振り返ってしまう。
「呼ばないで、と言われてもな。君は唐立陽葵。その人じゃないか」
きっと全てを知った上で言っているのだろう。
はっきりと拒絶を示したのに、子の反抗に怒りを表すわけでも涙を流すわけでもなく、目の前に立つ全身スーツ姿の男はただ悠然と笑みを浮かべた。
本当に吐き気がする。
この人の事が大嫌いだ。
心の底からそう思える。
傍から見れば人の良さそうな穏やかな笑みには何の感情も籠っていない。
相手に対して一番好印象を与える表情を計算して作り出しているだけだ。
どうして世間はこの男に簡単に騙されるのだろう。
この男は今のような笑顔で一体どれほどの人を騙してきたのだろう。
周りから見ればこの人は美人の奥さんと子供2人の理想的な家庭を持つ、有名企業の社長だ。
若くして全てを手に入れたトップオブトップのエリート。
昔新聞でそんな記事を見た覚えがある。
確かにそうかもしれない。
外国産の高級車に寄りかかり、両脇に専属の使用人を立たせるこの人は人生の勝ち組だろう。
しかし、その裏にどれほどの闇が蠢いているのか。
この人は表には絶対に出さない。
それは実際に被害にあった人にしか分からないのだ。
この人は自分の人生に不要なものは一切の容赦なく切り捨てる、そういう男だ。
「……どうして? どうしてここにいるの」
「久々の再会だというのに開口一番否定から入り、その次は質問か? まあいい。愛する我が娘の為に答えよう」
嘘だと直ぐに分かる。
愛する、だなんてこの人からは一番遠い。
この世に生を受けてから今まで一度でも愛してもらえたかすらも怪しい。
「陽葵の事が心配だったからに決まっているだろう? 私がいない間、随分無茶をしたらしいな。お陰で聞きたいことが沢山できてしまったよ」
これも絶対に嘘だ。
心配なんてよく言うものだ。
いや、もしかしたら心配しているというのは本当かもしれない。
その対象は自分ではなく、その先の利益への心配だろうが。
「さあ陽葵、一緒に家に帰ろう」
ゆっくりとこちらに手が伸ばされた
相変わらずその表情はお手本のように完璧な笑顔だった。
静かに語られる言葉たちに喜怒哀楽のどれも宿っていない。
きっとこの人は全て知ってる。
だから直々に顔を合わせに来たのだ。
そうすればどうせ直ぐに娘は折れる。
そう思っているのだろう。
余裕に溢れた笑みと態度がその証拠だ。
確かに今までならこの人の思惑通りだったかもしれない。
けど、今は違う。
それをこの人は分かっていない。
そりゃ分からないだろう、この人は愛する娘のことなど一切見ていないのだから。
この人の手から逃れるために、今まで頑張ってきたのだ。
何も恐れることは無い、既に覚悟を決めた。
目の前に立つ笑顔の仮面を被った悪魔と縁を切ること。
そして。
大好きな人と一緒に暮らし、大好きな人と寄り添うと。
脳裏に2人の大好きな人が思い浮かぶ。
それだけで勇気が沸き上がり、希望が見えた。
震えが止まり、身体の内側からジワリと暖かいものが溢れ出る。
「お父さん、ごめんなさい」
頭は下げない。
このごめんなさいは、謝罪ではなく決別だから。
「私は……綾辻陽葵として生きていきます」
唐立ではなく綾辻。
それは決定的な別れの言葉だった。




