第19話 夕焼け空の下で
営業時間を終え、誰も居ないはずの海水浴場で背後から声が聞こえた。
ついさっき言葉を交わした大地の野太い大きな声ではなく、浜辺に流れ込むさざ波のように聞き心地の良い落ち着いた静かな声。
「綾辻さん……?」
ゆっくりと振り返れば、海の家「はなび」の横に設置されたベンチに陽葵が座っていた。
夕焼け空と同じオレンジ色に染まっている陽葵の姿は夏仕様なのか、それとも飲食物を扱う仕事をするからなのか、普段と一風変わっていて思わず目を奪われてしまう。
いつもは下ろしている色素の薄いグレーの美しい長髪をうなじの高さで編み込んでポニーテールにし、細い眉毛を覆い隠す前髪はサイドに流して花柄のヘアピンで固定。
そのためにぱっちり二重の大きな目が一層際立つようになっていて、見る人を惹きつけるコバルトブルーの瞳が太陽に照らされた海の様にキラキラと光り輝いているのが良く分かる。
「先ほど今のように、名前を呼ばれた気がしたのですが気のせいですかね……?」
「い、いや、呼んでないけど……」
「そうですか……どうやら空耳だったようです」
無意識に口から出ていた言葉は、募り続けた想いに影響を受けたのか思ったより大きかったようで、距離が離れている陽葵まで声が届いたらしい。
自分の名前は脳が敏感に反応して意識していなくても良く聞こえると言うし、これでけ距離が遠くてもあり得ない話ではない。
幸いなことに一文字一句聞き取ったわけではないようなので、目を忙しく泳がせてきょどりながらも何とか誤魔化せば、陽葵は軽く首を捻りながらも一応納得してくれたようだ。
目の前に広がる幻想的な景色を君と見たかったんだ、など口が裂けても言えるはずが無い。
そんな歯が浮くようなセリフを何の羞恥心も無く平然と言えるのは、好みの女の子を見つければ直ぐに甘い口説き文句を並べだす翔くらいだろう。
もしかしたら鳥肌モノのクサいセリフを聞かれていたと思うと居たたまれなくなり、そのまま視線を下に落とせば、白地に水玉を散りばめたフリルスリーブトップスにベージュのハイウエストスカートが目に入った。
夏本番を迎え、平均気温がべらぼうに高いというのに肌の露出が極端に少ないのは紫外線対策なのか。
思えばサイン会の時も真っ白な大きめのワンピースを着ていたし、陽葵なりのこだわりかがあるのかもしれない。
全体的にゆったりとしたデザインで統一されたコーディネートは、日焼けとは無縁の雪のように白い肌を覆い隠し、海風に煽られてゆらゆらと不規則に揺れている。
どうやら肌全体を覆う分、トップスとスカートはどちらも熱気が籠らないよう通気性を重視した素材のようで、薄い生地で作られた洋服は起伏のある美しいボディラインを露にしていた。
清楚感に溢れながら、魅力的な肢体が際立つ相反した陽葵の姿に目が釘付けになり、じーっと見過ぎてしまったと気付いた時にはもう遅い。
陽葵は秀次の視線から逃げるようにぷいっ、と身体ごと背けてしまった。
女の子をじろじろと見つめ続ければ誰でも不快感を覚えるに決まっている。
そんな反省の念を抱き、やっちまったとがっくり肩を落とせば、いつのまにか席を立っていた陽葵が秀次の目の前まで近づいていた。
俯いていた視線の先に映るはずの花柄のウェッジサンダルを隠す2つの大きな膨らみを直視できず、咄嗟に顔を上げれば少し涙目になっている陽葵と目がピッタリ合う。
「この服、に、似合ってませんか? 変だったら遠慮なく言ってください……」
「いやいやいや! 似合ってないとか変だなんてこれっぽっちも思ってない!」
「で、でも……ずっと訝しむような目で見ていたじゃないですか……」
どうやら陽葵は秀次の視線からマイナスの意味を受け取ったらしい。
慌てて否定しても、先程とは違って陽葵は納得する様子が無い。
透明な涙で蒼い瞳を潤ませている陽葵を見れば、何とも言えない罪悪感に苛まられてしまう。
「……ったから……」
「え?」
「ずっと見てたのは、普段と違う格好の綾辻さんが凄く……か、可愛かったから……」
それは無意識で言ってしまったり、ついついポロッと口から零れるのとは違う、秀次が自分の意思で紡いだ言葉だった。
本当はめちゃくちゃ似合ってると思っているし、今まで見たどんなモデルよりも可愛く服を着こなしていると思っている。
それなのに、陽葵にネガティブな考えを植え付け、悲しませてしまうのが秀次はとても嫌だった。
その思いがヘタレ野郎秀次の殻を突き破った結果、本心を陽葵に伝えることが出来たのだろう。
初めてのお出かけで好感度を上げるため、陽葵の私服を褒めようと何度も事前練習を積んでいたのにも関わらず言えずじまいだったあの時とは違う。
一度目はまだ羞恥心が残ってたのか声が小さくなり、陽葵に聞き返されてしまったものの、そこで誤魔化して有耶無耶にせず、勇気を振り絞って力強く発せられた秀次の言葉は確実に陽葵に届いた。
その証拠に陽葵はいつものように手で覆い隠すことも無く、ポカンと口を開けたまま、バッテリーが切れたロボットの様にその場で固まっていた。
ついでに陽葵の顔が赤い果実のように紅色に染まっているのは、きっと夕暮れの太陽に照らされて全身が明るいオレンジ色に染まっているせいだ。
決して秀次に真正面から褒められて照れているわけでは無いはずだ。
服装を褒められるなんて、完璧美少女の陽葵には慣れきったことだろう。
今更、自分の一言で熱があるんじゃないかと疑ってしまうほど顔を赤らめる訳が無いと秀次は心の中で冷静に否定をした。
わざわざ自分自身で否定するのは、そうでもしないと自惚れて勘違いしてしまうからだ。
もし可愛いの一言で陽葵がこんなに顔を紅潮させて照れているのだったら、男なら誰でも自分に好意があるのではと思いあがってしまう。
「……ありがとうございます。お世辞でも嬉しいです」
「お世辞じゃない。ちゃんと思ってるよ」
可愛いと一度言ってしまえば今更恥ずかしがることは無いので再び素直に気持ちを伝えれば、陽葵は喜怒哀楽のどれともつかない表情を浮かべ、それから勢いよく下を向いたまま何も言わずに秀次の横を通り抜けて歩き出してしまった。
早歩きでどんどん先に進んでしまう陽葵は瞬く間に声が聞こえない距離まで離れてしまう。
「綾辻さん、俺に何か用があって待っててくれたんじゃないの」
「それはそうなのですが……すいません、もう少し待ってください。後でちゃんと話すので……」
「待っててって言われても、止まったらこのままじゃ離れる一方だし……」
開いた距離を埋めようと声を掛けながら小走りで近づけば、陽葵はそれに応じるように更に歩くスピードを上げた。
それでも男女で歩幅に差があるのは当たり前な訳で、先を行く陽葵の背中は見る見るうちに小さくなる。
「駅まで……駅までこの距離を保って貰っていいですか……」
「別に良いけど……俺、何かしちゃった?」
「違います。樋山君のせいでは……いや、まあ樋山君のせいではあるんですけど……。とにかく駅までは私から少し離れて貰えませんか?」
「……わかった。言われたとおりにするよ」
「ありがとうございます」
陽葵のお願いは要領を掴めないが、無理やり近づいて嫌われたら最悪だ。
素直に十メートル弱の距離を開けて、陽葵の背中についていくことにする。
(俺のせいではあるって、やっぱ綾辻さんに何かしちゃったのか!? 可愛い、とか言って気持ち悪かったかな……。今になって恥ずかしくなってきた……)
陽葵と同じく全身は夕焼け色に染められているし、そもそも陽葵は背中を向けていて見られることは無い。
それでも勢いで言ってしまった自分の言葉を思い出し、内側からどうしようもなく熱が籠るのを感じて秀次は意味も無く顔全体を両手で覆った。
頬に手を当てれば、自分の顔が太陽に照らされたくらいじゃ誤魔化せないほど真っ赤に染まっていることが鏡を見ずとも分かってしまう。
「……不意打ちはずるい」
羞恥心に悶える秀次には距離的にも意識的にも聞こえない声で。
ほっぺを両手で包み込み、蒸し暑い太陽光とは異なるじんわりと暖かい熱が自分の頬に籠っているのを感じながら陽葵が小さくポツリと呟いた。




