家に着いたら良い匂いが漂っていた
河川敷での出来事の後、俺は繁華街へ行き、ジャンクフードを食べたり、ゲームセンターに立ち寄ってみたりしたのだが、大して楽しめる事も無く、家に帰ることにした。河川敷での出来事が印象深すぎて遊んだ気にならなかったのだろう。
薄暗くなってきたのもあり、寄り道をする事もなく家に帰る。学校をサボって街に繰り出したのはいいものの、俺には学校をサボったという開放感と背徳感しか湧いてこなかった。すぐ側にありすぎて気付かなかったが、学校というものは案外楽しいものなのかもしれない。そんなことを考えながら歩いているうちに俺は家の前まで着いていた。
「あれ? おかしいな……電気はちゃんと消したはず……」
不審に思いながら玄関のドアを引いてみるも鍵はかかっている様子だ。俺は家の鍵を開けて中に入る。玄関には見たことの無い靴が二足。二足とも女物だ。一足ならば奏の可能性もあるが、二足あるためその線は無いだろう。
「泥棒?」
泥棒にしては無用心すぎはしないだろうか。足音を立てないようにひっそりとリビングの扉を開いてみると、人様の家のソファでくつろぐ一つの後ろ姿と、キッチンから漂って来る料理の匂いだ。俺はなぜ、自分の家でこそこそしているのだろうか。
リビングの扉からこっそりと様子を伺うも、ソファでくつろいでいる後ろ姿の人物は動くことは無い。それよりもキッチンから漂う美味そうな匂いに俺の腹が盛大にやらかしてくれた。
「ぐぅうう」
内心焦るも、後ろ姿の人物はテレビに夢中なようで腹の音に気付いた様子は無かった。
「達弥様。お帰りでしたか。どうしてこのような所でコソコソとしているのですか?」
ソファでくつろいでいる人物の監視に集中していたせいで、もう一人の存在を忘れていた。それよりも後ろから声を掛けた人物はいったい誰なのだろうか。俺の名前を知っていても、様を付けられるような関係の人物はいない。恐る恐る後ろを振り返ると今日知り合ったばかりの女性。美鈴さんがエプロン姿で立っていた。
「み、美鈴さん!? どうして俺の家に……?」
「あぁ。それはですね。お嬢様が達弥様を気に入られたということで、誠に勝手ながら達弥様の家を調べ、鍵を開けさせて頂き、キッチンをお借りして料理をしておりました」
これは軽く犯罪ではないのだろうか? 住居不法侵入だと思う。俺がおかしい訳では無いと思うし、俺の常識は間違っていないはずだ。
「お嬢様。達弥様がお帰りになられたようですよ? ご挨拶を」
美鈴さんはソファでくつろいでいた人物をお嬢様と呼んだ。という事は図々しくも、俺の家でくつろいでいるのはあのお嬢様なのだろう。このお嬢様。本当に何をやっているのだろうか?
「おぉ。達弥。帰ったか。帰ってくるまでくつろがせて貰ったぞ。このソファはなかなか良いな。リラックスできる。そんなところで突っ立ってないでこちらに来い」
一応、父さんが不在だといってもここの家主は俺である。もっと堂々とするべき所だろう。
「お、おう。今帰った。それよりも君は何ををしているのかな?」
「何をって。見れば分かるだろう? 達弥。君を待ち焦がれていたんだ」
見れば分かると言われても、名前の知らない女の子が自分の家でくつろいでいたら普通は驚くものだ。恐らく、この子が普通では無いのだろう。お嬢様らしいし、常識が抜けているのかもしれない。
「ま、まぁいいや。それよりもさ、君の名前、俺はまだ知らないんだけど?」
女の子――お嬢様が手をポンと叩き、わざとらしく足を組み替える。
「おっと。すまんな。名乗っていなかったことを忘れていた。私は三住環と言う」
「三住って――あの大財閥の名前」
「そうでございます。お嬢様は三住財閥の当主である三住一成様のご息女であり、その次女でございます。私はお嬢様が幼い頃より仕えておりまして、毎日のようにお嬢様の無理難題に応え、お嬢様のためならばと黒いことにも手を出して参りました。それは全てお嬢様のためにございます。お嬢様が幸せになられるのであれば私はなんでも致します」
とんでもない人物と知り合い、そして、好感を持たれてしまったようだ。このお嬢様に俺はどう接していけばいいのか。お嬢様の機嫌を損ねるとどうなってしまうのか。そういった恐怖で俺は固まってしまう。
「達弥。なにを固まっている。良いではないか。普段通りに接してくれ。家にいたら堅苦しくて敵わなんからな。私は普通の生活というものに憧れているからのもある」
「お、お嬢様は俺になにを期待して……」
俺にはお嬢様の真意なんて到底分からない。住む世界が違いすぎるから。このお嬢様の常識知らずは三住財閥の教育の賜物のようだ。
「お嬢様などいらないな。私は名前で呼んで欲しいのだ。環とな」
「お嬢様いけません。それでは三住家の威厳が――」
「良いのだ美鈴。私はそんな堅苦しいものが嫌なのだからな。ほら。早く名前で呼んではくれないか? 達弥」
「た、環……さん?」
名前で呼ぶにしろ、呼び捨てでは呼びにくかった。知り合ったばかりの女の子相手に呼び捨てで名前を呼ぶなんて事は俺にはできないだろうし、俺にそんな度胸なんて無い。プレイボーイでも無いしなおさらだ。
「私は呼び捨てで呼んで欲しいがな。私と達弥は同い年の同学年だ。もっとフランクに呼び合おうじゃないか」
そこまで言うなら呼び捨てで呼んでも良いのだろう。そして、普通に接して普通の“友達”として扱っていく事に決める。
「ふぅ――分かったよ。た、環。お前がなんで俺の家にいるのかは知らないがよろしくな」
「な――! お前だなんて!」
「良いのだ美鈴。これは私の望んだ事なのだからな。そんな事よりも料理の方はいいのか?」
「はっ! 忘れておりました。申し訳ございません。もうしばらくすればできますのでしばしお待ちを」
ニヤニヤと笑う環を見つつ、美鈴さんの後ろ姿を追うと、深い溜息が出てくるような気がしたのは気のせいではないはずだ。
まさかの展開だ。昨日は奏に、今日は三住財閥のお嬢様である環の侍女? で良いのか分からないが、お付きの人が料理を作ってくれる。今は環と食卓に座って料理を待っている最中だ。
「きっと私と達弥の出会いは運命なのだろうな。そうに違いない。そうだろう? 達弥」
先ほどから環は同じようなことを呟いては俺に同意を求めて来る。最初のうちは軽く相槌を打っていたのだが、こうも続くと正直めんどくさい。早く料理が来ないだろうか? と切に願っている。
「お待たせ致しました。料理の方が出来ましたのでお持ち致しました。お嬢様ならびに達弥様のお口に合うことを祈りつつ作りましたので、この祈りが神に届いているのならば、きっと素晴らしい味の料理が完成しているでしょう」
美鈴さんは自嘲気味に言いながら銀の丸い蓋。ドームカバーを持ち上げた。ドームカバーから俺の目に晒された料理はなんだかよく分からないものだった。
「美鈴さん。これは何と言う料理なんですか?」
よく分からない料理を美鈴さんに質問する。分からないことは素直に質問するに限るのだ。横にステーキとポテトサラダのような物があるのは分かるのだが、ステーキとともに主役のような雰囲気を醸し出しているこの食材が分からない。
「こちらは黒毛和牛のフィレステーキにフォアグラのソテーでございます。ハンガリー産のフォアグラと同じくハンガリー産の赤ワインから作ったソースを使っております。付け合わせにはマッシュポテトを付けさせて頂きました」
よく分からないが食べてみることにする。フォアグラをフォークに指し、ナイフで切る。それを恐る恐る口の中に運んだ。運んだ瞬間だ。俺の中で食の革命が起きた気がした。
表面は程よくカリカリとしており、噛むとフォアグラがトロトロと口の中で溶け出す。美鈴さんの言う赤ワインソースがまろやかな甘さを引き出して、フォアグラと赤ワインソースでコンチェルトをしている。フォアグラがねっとりとした大人の音色を響かせ、赤ワインソースがその後ろから優しい音色で追いかけているような。そんな感覚だろうか。
「うむ。さすがは美鈴だな。美味しいぞ」
「私にはもったいないお言葉でございます。お嬢様」
環はいつもこう言ったものを食べているのだろうか。さぞ当たり前といった風に食事をしている。俺はこの料理に俺の中での食事の革命が起きたというのに。
「しかし、フォアグラなんて久々に食べたな。去年の私の誕生日ぶりじゃないか?」
「え? いつもこんな感じの料理を食べてるんじゃないのか?」
「何を馬鹿なことを言っている。フォアグラなんて毎日食べるものではないぞ? 毎日食べているとぶくぶく太ってしまうだろう」
お嬢様だからと言って、いつもこのようなものを食べているわけではないようだった。俺の中でのお嬢様のイメージは環の人間性も含めて崩壊してしまった。
「だったら普段はどんなものを?」
俺には全く理解の追いつかない生活をしているだろう環の普段の食生活がすごく気になった。興味本位で発した言葉だったが環に咎められてしまう。
「レディにそんなことを聞くものじゃないと思うがな? まぁ、健康第一だ。野菜中心のヘルシーな料理を食べている」
「へぇ。以外だな」
恐らく高級な祝財を使っているだろう事は容易に想像できる。
そんな会話をしつつ、普段の生活では味わえないような料理を堪能し尽くした俺は食器を台所に持って行こうとする。
「達弥様。後片付けは私が行いますので、ごゆっくりとおくつろぎ下さい」
「いやぁ、後片付けくらいは自分で」
「達弥様。これが私の仕事ですのでご容赦下さいませ」
そう言われると俺にはもう口出しをするなんてことは出来なかった。後片付けを美鈴さんに任せるとして、環はいつまで俺の家に居座るつもりなのだろうか。
「それでは、私はお風呂に入るとしよう。美鈴。お風呂は沸いているか?」
「はい。お嬢様。もちろんでございます」
この人たちはどうして俺の家を占拠しているのだろうか。環はさっさと風呂場に行き、美鈴さんは食器を洗っている。
「俺、どうしたらいいんだろう」
自問自答する。とりあえずソファに座ってくつろいでみた。テレビを点けるも面白そうな番組はやっていない。手持ちぶさたな俺はキョロキョロと辺りを見回すも、特に変わった物も無い。強いて言うなら、リビングが少し綺麗になっているといった所だろうか。
面白くも無いテレビをどのくらい見たのかは分からないが、環が風呂から出てきたようだった。環の顔はほんのりと赤く、頭にはタオルを巻いている。
「なかなか良い湯だったぞ。達弥も入ってくればいい」
「あぁ。分かったよ」
環に諭されるままに俺は風呂場に向かい、体を洗って風呂に浸かる。良い湯加減だと思う。そんな感じでのんびりしていたのだが、俺はあることに気がついた。環の入ったあとの風呂だ。ということは女の子が入ったあとの風呂に俺が入っているという事だ。このことを考えると、風呂の中でゆっくりリラックス出来るわけもなく、すぐに風呂から上がる事となる。
「どうしてこんな事になったのだろうか。訳分かんねぇや」
愚痴愚痴と呟きながらリビングに向かうも誰もいない。電気は点いているが人の気配さえ感じなかった。
「俺が風呂に入ってる間に帰ったのか?」
リビングの明かりを消して、俺は部屋へ向かう。静かになり、ようやく心安らぐ瞬間が出来たのだ。寝るまでの間、しっかりと休もう。俺は自分の部屋のドアを開けた。そして、昨日から数えて何度目かも分からないが時が止まった気がした。
「おぉ。早かったな。今日は達弥の家に泊まることにしたよ。美鈴は別の部屋で休んでいるがな」
「えっと……泊まるって? ま、まぁ今さらだし泊まるなとは言わないけど環は美鈴さんと寝てな」
「何を言っている? 私たちは一緒に寝るんだ。運命の出会いを果たしたのだから同じベッドで寝ても問題無いだろう」
問題あるだろうと俺は思う。会ったばかりの男女が一緒のベッドで寝るなんて考えられない。嬉しいのだが、そう言う問題ではない。モラルと理性が崩壊しないようにするのが怖いのだ。そんな事を考えながら俺がリビングに降りようとした瞬間だった。
「行かせんぞ! 達弥は私と寝るんだ! これは決定事項だからな」
清々しいまでの笑みを浮かべて環にベッドへと連れていかれた俺は何もできなかった。そして、あっという間に寝息を起てはじめた環。俺はその隣で悶々と過ごし、ほとんど眠れなかったのは言うまでもない。