雨上がりの地面は確認すべきだ
俺は自然と目が覚める。隣には誰もいない。どうやら環の突撃は無かったようだ。時刻は六時五十分を過ぎた辺りだ。
「んん……はぁ。やっぱり雨か」
軽く伸びをし、カーテンを開けてみると天気予報の通り、今日も雨だった。気にしなければ何とも思わなかったが、雨だと分かると家の屋根に当たる雨音がハッキリと聞こえてくる。“おはよう。今日も雨だね”翼にメールを送る。翼とのやり取りが楽しいのだ。
パジャマ代わりに使っていジャージのままリビングへ降りる。リビングに行くと、美鈴さんはすでに起きており、朝食の準備をしていた。
「おはようございます。達弥様。もう少しで朝食の準備も整いますのでお待ち下さい。お嬢様を起こして参ります」
美鈴さんはできる人なのだろうと思う。自分のできる全てを環に捧げているといった感じなのだろうが、それにあやかれる俺は案外ラッキーなのかもしれない。
俺は朝のコーヒーを飲みながら二人が来るのを待っていると、先に美鈴さんがやってきて、その後、パジャマ姿の環がリビングに来る。目は開いておらず、フラフラしてるのが危なっかしい。普段の環を見ていると、そのギャップが面白く見えた。
「おはよう。ふぁあ。眠い」
これが本来の環の姿なのかもしれない。普段の環は常識は無いが同い年の俺から見てもしっかりとしているし、気丈な雰囲気を持っている。それが今の環には見えなくて、年相応といった感じだ。
「おはよう。寝癖すごいな」
「ふぁあ。起きた直後なんだから仕方ないだろう」
何度も欠伸をする環だが、その目はいっこうに開く気配を見せない。もしかすると結構遅くまで起きていたのかもしれない。
「昨日、遅くまでテレビを見ちゃって夜更かしをしてしまっら」
「お嬢様。達弥様。朝食の準備が整いましたので食卓の方へお越し下さい」
美鈴さんにそう言われ、環はフラフラと食卓へ向かっていく。俺はその後を追いかけるように食卓へ向かっていった。
環とともに食卓につく。美鈴さんがそれに合わせるように朝食を持ってきてくれる。タイミングを見計らったように椅子に座った瞬間だ。朝食なのにも関わらず、丁寧な事にドームカバーを使い保温してくれていたようだ。
ドームカバーが外されて出てきたのは食パンにハムとチーズがサンドされ、その上に黄身の部分が半熟な卵が乗っていたものだった。
「クロックマダムと言う料理でございます」
美鈴さんはそれだけ言うとすぐにその場を離れた。コーヒーか何かを持ってきてくれるのだろう。
ナイフとフォークが準備されていた為、それを使う。朝食からナイフとフォークを使うなんて初めての事だ。いつもは適当にパンをトーストしたものにジャムだったりマーガリンだったりを塗ってかぶりつくように食べていた。
先に半熟になっている卵の黄身をナイフで割る。すると、卵の黄身がパンを包み込むように流れていく。それだけで食欲をそそられた。フォークでパンを指し、ナイフで切る。チーズもとろけてパンやハムと絡み合っている。俺はそれを口に運ぶ。
ハムとチーズの塩気が踊る。程よい塩気とチーズの匂いが食を進ませた。シンプルでありながらも自己を主張するハムとチーズ。それを補うかのような卵の黄身のまろやかさ。こんな朝食は初めてだ。
少ししてから美鈴さんが戻ってきた。持ってきたのはコーヒーでは無くカフェオレ。熱すぎないカフェオレはほんのりとした甘さで、クロックマダムの塩気の利いた味とカフェオレの甘さがマッチしている。
「美鈴さん。ありがとう。美味いよ」
俺がそう言うも、美鈴さんはそれが当たり前だという表情をする。雰囲気からも分かるように美鈴さんは頭脳明晰でもある思うし美人だ。まさに才色兼備とは美鈴さんの為にあるような言葉だと思う。
それから環と、なんでもない会話をしながら朝食を食べ終わった。環は朝食を食べるにつれてだんだん目が開いて行き、食べ終わる頃にはいつもの環に戻っていた。
「今日はずっと雨なのかな?」
昨日の午後から降り続いている雨は止む気配が無い。もしかすると、このままずっと降り続くのではと思うくらいだ。
「午後には雨は上がるらしいぞ? 達弥。君はそういった情報に疎いようだな。情報とは武器にもなるのだから、些細な情報でもしっかりと把握するべきだと思うぞ?」
これに関しては環の言う通りだと思う。些細な情報。翼はどんな食べ物が好きなのか。どんな趣味があるのか。これだけでも会話は広がるし、翼を振り向かせる事ができるかもしれない。
「また顔がだらし無くなっているぞ。分かりやすい奴だな」
俺は知らないうちに顔がニヤけていなのかもしれない。翼のことを考えると自然とニヤけてしまう。
「そ、そうか? ははは」
取り繕ったように笑うも、それも環にはバレバレのようで笑われてしまう。こんな話題になった時に限って、俺のスマホがメッセージを受信したと、スマホのバイブが俺に知らせてきた。“おはよう。西条君は休みの日は早起きなんだね”素早くメールをチェックすると、翼からだった。翼からのメールは嬉しい反面、皮肉を交えたような内容だ。それに環は俺がスマホを開くという動作をしたときからニヤニヤとしている。
「環もだらし無い顔してんじゃん」
環を一瞥してスマホに視線を戻す。環の顔を見た瞬間から俺は環が考えていそうなことを予想する。誰から連絡が来たんだ? こう思っているに違いない。
「スマホのチェックはあまりしないと言っていたのに嬉しそうに携帯を見ているな。例の子なのだろう?」
人の恋路で遊んでくれるな! そう言いたいのだが、それを言うと環が調子に乗りそうなので辞めておく。
「うるせぇ」
「ということは正解なのだな? どんな子だ? ほら、私に教えてみろ。達弥と私は友達なのだから友達の手助けをしたいと思っているんだ」
どういう事で正解なのか分からないが環にはメッセージの相手が分かったらしい。メッセージの返事を考えているというのにうるさいものだと思う。環の顔を見るとその目はもういたずらっぽい目だ。手助けをしたいと思っているならもっと真剣な顔で言って欲しいものだ。その顔で言われても説得力の欠片も無い。
「うるせぇ」
「つれないなぁ」
環の言葉無視しつつ返事の内容を考える。外から色々言われ集中も出来ない為、上手く言葉を考えられない。
「なにか悩んでいる様子だな。私が返事を考えてやるぞ」
「休みの日は早起きなんだねって来たんだよ」
しつこい環に俺は観念して、返事の内容を伝える。これは環からの逃亡だ。メッセージの内容を知らせることによって、これ以上の追求を逃れる。まさしく、己の肉を切らせて骨を断つ。どこか違うような気もするがそんな感じだ。
「そんなのは簡単ではないか。昨日早く寝たから、早く目が覚めたんだって送ればいいだけだ。ユーモアを効かせて早寝早起きは三文の得だしなと付け加えればパーフェクトじゃないか?」
早寝早起きが三文の得なんてどの口が言ってるんだ。環は昨日夜更かししていたはずだ。自分のことを棚に上げてよく言う。
「送った。早寝早起きのくだりは送ってない。環には言われたくない」
「強情な奴だな。ユーモアのある男はモテるぞ?」
「今までそんなことを言わなかった人間が急に言い出したら気持ち悪いだろ」
それも一理あるなと言い笑う環。俺たちはメッセージが届く度に同じようなやり取りを繰り返し笑いあった。翼とやり取りをしたり、環とゲームをして惨敗を繰り返したりしながら過ごし、気が付けば夕方になっていた。ちなみにお昼はカレーだった。
「おっと、もうこんな時間か。私はそろそろ帰るとしよう。楽しかったぞ! 達弥」
「お、今日は帰るのか。気をつけるんだぞ」
環が帰るとなると、案外寂しい気持ちになる。普段は一人で過ごしてはいるが、賑やかに過ごすと一人になると思った途端にそんな気持ちが溢れてきた。
「では、達弥。ありがとう。また来るぞ」
軽口を言い合いながら玄関の外まで環と美鈴さんを送る。二人の背中を見送ったあと、俺は静かになった家に戻る。俺はすぐに部屋に戻り、なにをする訳でもなく過ごした。今日は翼に傘を返しに行こうと思い立って、傘を返しに行くとメッセージで伝えた。すぐに翼から返事が来て、その了承を得る。
俺は傘を返しに行くという名目ではあったが、翼に会えるということが嬉しくてたまらなかった。
昨日とは打って変わって今日はとても良い天気だ。雲一つ無い、と言いたいところではあったがそうでも無い。快晴とは言い難い天気ではあるが青空も覗いている。翼をデートに誘ってもいいかもしれない。
女の子らしい傘を片手に翼の家へ向かう。昨日は午後から雨が上がったとはいえ、夜中に少し降ったらしく道路は濡れていた。
翼の家の前まで着いて、俺は翼に電話をかけた。何秒かプルルルルと鳴ったところで翼が出る。
「もしもし。加藤です」
「もしもし。西条だけど、家の前に着いたよ」
「あっ。分かったわ。すぐに行くわね」
少し待っていると翼が家から出てきた。派手過ぎない地味目の服だったが、翼には似合っていると思う。
「傘、ありがとな」
俺はそう言って翼に傘を手渡した。
「そうだ。西条君もせっかく出てきたんだし、少し出掛けない?」
「お、おう。いいぞ」
自分から誘おうと機会を伺っていたら、翼から俺を誘ってくれる。少し戸惑ってしまったが、俺も翼を誘おうと思っていたのだから、断る理由は無い。
「ちょっと待っててね」
翼はそう言って一旦家の方に戻るとすぐに戻ってくる。傘と引き替えに鞄を肩にかついで戻ってきた。
「お待たせ」
「どこか行きたい場所とかあるの?」
俺は翼とどこに行くのかまで頭が回らなかったのもあって、翼に行きたい場所が無いか聞いてみた。
「んー。特に無いかな。西条君は無いの?」
「俺も無いよ。どうすっか。適当にぶらついてみる?」
女の子と出掛けるなんて事、奏と以外にしたことが無いた為なにをすれば良いのかも分からない。少し調べてみれば良かったと後悔したが、後悔してももう遅い。
「そうね。散歩でもしながらお話すればいいかしら」
「それじゃ、繁華街の方に向かって河川敷を歩いて行くか」
俺たちは、ゆっくりと話ながら歩く。今日の河川敷は一昨日と比べて人が多く、賑わっていた。俺たちと同じように二人で歩くカップルや家族連れ、ランニングをしているおじさんなど様々だ。
「ここでさ、変な子と出会って友達になったんだよね」
「変な子? どんな子なのかしら?」
この河川敷で起こった環との出会いから昨日のことなど身振り手振りを交えて話す。翼はそんな話を興味深めに聞いていた。
「へぇ。三住財閥のね。そんなすごい子と友達になるなんて、西条君てすごいのね。木曜日にここで知り合ったということは学校をサボったということなのね」
「い、いや」
一昨々日の事は言わなければバレない事だったのに、一昨日、環とこの河川敷で知り合ったと言った事で俺のサボりがバレてしまう。
「学校をサボるのはよくないけれど、終わった事だし、次から気をつければ良いんじゃないかしら」
翼は笑って許してくれる。確かにやってしまった事実は変わらないし次から気をつければ良い。昔から翼は俺に厳しいようで優しく接してくれている節があった。そんな翼だから惚れたのだと思う。
「おお。達弥ではないか。こんなところで何をやっているんだ?」
噂をすればなんとやら――翼とのデート中にも現れる俺の運命の友。環だ。
「西条君。この方は?」
「えっと……この子がさっき言ってた変な子の環だよ」
「達弥の変な子という紹介はいかがなものかと思うがな」
俺を笑顔で睨みつけた環ではあったがその視線に悪意は感じない。むしろどうやり返してやろうかと悪巧みを考えている顔に見えた。
「ところで環こそ一人でなにをやってるんだ? 美鈴さんはどうした?」
「私か? 私はただの散歩だ。私には一緒に遊ぶような友達が少ないのでな。こうやって散歩をしては暇を潰しているのだ。美鈴は今は家の事をやっているぞ?」
寂しいことを言いながらも胸を張る環。翼ほどでは無いが環の胸も小さくはないので、その部分が強調される。
「あ、あの……私は加藤翼と言います。西条君とはクラスメイトで仲良くさせて頂いています」
「翼というのか。達弥の連れならば、それは私の友達だな。堅苦しいのは嫌いだから敬語はよしてくれ」
「わ、分かったわ」
翼も環の存在感には圧倒されているように見える。三住というネームバリューに環の偉そうな口調も相まって圧倒されるのも仕方の無い事かもしれない。
環は俺の側へ近寄って耳元で囁く。
「この女が例の子か? なかなか可愛い女じゃないか」
「うるせぇ。変な事言うなよ?」
このまま放っておくと、なにを言い出すか分かったものではない環に念を押す。ニヤけた顔をした環には今の状況が楽しいのだろう。
「三住さんも一緒に来るかしら?」
「お? いいのか? 私のことは環でいいぞ。よろしくな翼」
こうして、俺の翼との初デートは環の登場という形で幕を下ろした。俺の事を応援すると言いながら空気の読めない環と俺たちは合流するという事になる。
俺はゆっくりと斜面の方へ行き、午前中から黄昏れるようにその芝生に腰を降ろした。降ろした瞬間から俺は後悔をする。
たとえ、どんなに空は青くても、雨の降り続いた翌日の芝生の上に残る雨粒が俺のズボンを濡らしたからだ。