日常
俺にとっての日常はかけがえのないものだ。毎日同じ時間に起きて、学校に行く。そして、適当に授業を受けて……そんな当たり前の普通な毎日が楽しくて、今日も気前よく寝坊する。薄ら眠い俺の頭の中にいつも通りの透き通った声が響いてきた。
「たっちゃーん! いつまで寝てるの? 早くしないと学校遅れちゃうよ」
朝から騒がしいもので、俺の聖域へずかずかと無断で入り込み、気持ちの良い朝の目覚めを疎外する邪悪なる存在。俺の幼馴染みにして最大の敵である相澤奏は持ち前の馬鹿力を発揮して俺から神聖なる布団を剥ぎ取った。
「うるせぇな。あと五分寝かせろ」
いつものように布団の奪い合いが始まる。奏が布団を剥ぎ取ると俺も対抗して負けじと布団を奪い返すも負けるのはいつも俺だ。
「たっちゃんは本当に朝に弱いよね。私がいないと生きていけないんじゃないの?」
「奏は俺の母親かって……」
俺には母がいない。小さい頃に亡くなったと聞いてはいる。父さんは海外で働いていて普段から家にいない。そこまで大きな家ではないが小さくも無い。住宅街に家を建てるくらいには父さんは稼いでるし、そこそこ裕福な暮らしをさせてもらっていると思う。
「私はもう行くよ。たっちゃんは遅れないようにね」
「分かってるって」
家から出ていく奏を横目に俺は学校の制服に着替える。奏に遅れないようにと言われたが今から朝食を食べていては確実に遅刻するだろう。それでも俺はゆっくりと眠気覚ましにインスタントコーヒーを飲みながらパンを焼く。一日の活力は朝食にかかっているのだ。朝食を抜くなんてことは考えられない。
熱いコーヒーを啜り、一枚目の焼きたてのパンにはピーナッツバターを。もう一枚にはバターとハチミツを塗りたくる。いつもの朝食だ。食事が終われば、いつものように歯を磨き寝癖を直すのに四苦八苦する。今日も髪の癖は簡単に直らなかった。時計を見てみれば学校には間に合わない時間になっていた。今日も遅刻は確定だ。
「今日も遅刻だな」
悪びれもせず一人で呟いた。遅刻常習犯な俺の内申点は最低なものだろう。勉強も得意ではない。体育の成績が少し良いくらいだが、運動部の連中と比べると特別運動神経が良いわけでもない。
「それじゃ、そろそろ出るかなっと」
踵の潰れた小汚いローファーを履き、中身の入っていない鞄を片手にゆっくりと家を出る。学校までは徒歩で十五分程度だ。急げば五分くらいの遅刻で済みそうだが五分遅れようが十分遅れようが遅刻は遅刻。一限に間に合えばそれでいい。
ひたひたとのんびりと歩く。いつもと変わらない、なんの変化の無い毎日だ。今日も教室につけば先生に怒られて、委員長に小言を言われ、ついでに奏にも小言を言われるだろう。
「はぁ……」
そんな事を思っていると、ため息も出てくるものだ。それなら少し早く起きて、少し早く家を出れば良いだけなのに。分かっていても、それができないのはまだ俺が子どもだからだろう。自業自得だが凹むものは凹んでしまう。
それでも俺はゆっくりとのんびりと歩みを進め、学校に入る。校内は静寂に満ち溢れていた。俺と同じように遅刻をしている生徒も今日はいないようだ。堂々と遅刻をしているという罪悪感は沸いているが、それを変えようだなんて思わなかった。変えられない。自分が変わるのが怖いからだ。
俺は自分のクラスの二年一組のドアをスライドさせた。集まる視線。先生からの注意も平謝りで済ませ、自分の席へ座る。自分の席へ座った後、ホームルームが終わる。
「西条君。あんたって本当にやる気が無いのね」
ホームルームが終わるとすぐに委員長の加藤翼が俺のもとへやって来て小言を漏らす。これもいつもの光景だった。
「うるせぇな。委員長には関係無いだろ。ちゃんと学校には来てるんだからいいじゃん」
ぐちぐちと小言を重ねる委員長の豊かな胸元をチラチラ見ながらああ言えばこう言うを繰り返す。周りの連中はいつもの事だと思っているのか、こちらを気にする素振りさえ見せない。
「たっちゃーん。せっかく起こしてあげたのにまた遅刻するなんて! 遅刻しないように言ったでしょ!」
俺と委員長が押し問答を繰り返す中、空気を読まずに奏が俺と委員長の言い合いの中に参戦してくる。これも毎日繰り返されている恒例行事だ。
「奏が起こしてくれるからこのくらいの遅刻で済んでるんだぜ?」
ここぞとばかりに委員長から目を逸らし、奏に視線を移した。そして、悪びれもせず奏に言い返す。俺の言った言葉は事実だろうと思う。父さんは年に数回しか家に帰ってこないし、俺に甘い面がある。幼馴染みの奏がいたからこそ、俺は学校に通えていると思うし、奏がいなければそもそも学校を辞めていたかもしれない。
「委員長も相澤もこの辺にしとけって。達弥のこれは治らねぇよ。中学のときからそうだったろ?」
そして、いつものように助け舟を出すのが斉木洋介だ。俺の親友でもある。こいつは中学時代からの友達でなにかと馬が合い一緒にいることの多いやつだ。
「斉木君は西条君に甘いのよ! まったく。まぁいいわ。明日は遅刻するんじゃないわよ」
委員長は自分の胸を強調するよに胸を張り踏ん反り返る。その胸が一瞬揺れたようにも見えたが気のせいだろう。俺は心の中で思っていた事を口に出してしまう。
「委員長。おっぱいでかいよな」
この一言で委員長の顔は真っ赤に染まった。恥ずかしさもあるのかプルプルと震え、俺への口撃は鳴りを潜め、顔を俯かせる。
「変態。最低」
委員長は俺へ蔑みの目と言葉を投げると自分の席へ踵を返すように戻っていく。洋介は俺を見ながら頭を抱え、奏は目を点にしながら固まっていた。
「というわけで、説としては、用不用説と自然選択説があるわけですね」
俺には到底理解できない難解な生物の授業を終え、昼休みになる。朝起きるのが遅い俺は弁当を作ることは無いので購買に走るのだが、準備をしていると奏が俺の元へやってきた。
「たっちゃん! たっちゃんはいつも購買行ってるよね? 今日は私がたっちゃんの分のお弁当も作ってきたから一緒に食べよ」
気まぐれなのか、気分なのか分からないが、奏はたまに俺に弁当を作ってきてくれる。今日はその気まぐれの日であったようで、期せずして俺のお小遣いが増える事になった。
「マジか。ありがとうな」
「それじゃ、食べよう! あっ。翼ちゃんも一緒に食べようよ」
奏は一人で弁当を食べようとしていた委員長を呼び、昼食を一緒にと提案した。俺としては奏と二人で食べたかった。むしろ、朝から俺と委員長は雰囲気が悪いのだ。全面的に俺が悪いのだとは思うが、委員長の豊満な胸が一番悪いのだと思う事にした。自分でも最低だと思う。
「あら。相澤さん、ありがとう。それじゃご一緒させて頂くわね。西条達弥君も一緒にというのが気分が乗らないけれど……」
俺の委員長への心証は最悪のようだが、奏の提案を断らない所を見ると、委員長は人が良いのだろう。クールで一匹狼な印象もあるが、俺への悪態の割には満更でも無いような表情だ。むしろ少し微笑んでいるようにも見える。いつも笑っていれば可愛い顔をしているとも思うのだが、これ以上考えていると、また口を滑らせるかもしれないから、俺は考える事を自重する。
「それじゃ食べよ! いただきまーす」
奏の言葉を合図に俺たちは弁当を開け、食べはじめる。奏の作ってきた弁当は卵焼きに、タコさんウインナーと定番のものが入っていた。ほんのり甘い卵焼きの味付けは奏の味だった。
奏は一心不乱に弁当を食べる。この食い意地はどこから来るのだろうか。俺と委員長は会話もなく、雰囲気は良くない。俺はなにか話題でも……と思い、ウトウトと船を漕いでいたため、生物の授業をろくに聞いていなかったのを思い出し、授業についての話題を振った。
「ところでさ、乾先生の言ってた用不用説と自然選択説の解説がよく分からなかったから教えてくれよ。委員長」
「――あら。西条達弥君は授業もろくに理解出来ないほど頭の出来が悪いのね。でも、改めて質問するなんて、その向上心は認めてあげるわ」
俺が口を開くと一瞬、場が静寂に包まれた。俺の生唾を飲む音が響いた気がしたが、間を置いて委員長が口を開いた。俺への皮肉も忘れずに。
「用不用説がラマリク? だっけか。自然選択説がダーウィンってのは理解してるんだけどな。用不用説が遺伝で、自然選択説が突然変異? てのはなんとなく理解出来たんだけど、その解説がよく分からなくて」
なにか話題を――と思い、先程の授業で聞いていなかった解説部分を委員長に質問すると、委員長は箸を止めて解説をしてくれた。もちろん胸を張って、自分の胸を強調しながらだ。委員長はわざとやってるんじゃないか? と疑念を持ってしまい、視線が胸に向かってしまうのは男の性なのだろう。
「そうね――それじゃ、よく引き合いに出されるキリンを例に出すわね。まずはラマリクの用不用説から。キリンは背の高い木の枝に生えた葉を食べるのは分かるわね? キリンは元々は首が長くなくて、木の枝についた葉を食べるために子供の頃から首を伸ばして葉を食べたの。その子供のキリンが首を伸ばし続け、大人になった結果、キリンは首が長くなって、その首の長くなったキリンが子供を作り産む。そうすると、親からの遺伝でその親よりも少しだけ首の長い固体が産まれるの。それが長い年月を掛けて今のキリンの姿になった。これがラマリクの言う用不用説よ」
「ということは用不用説ってのは生きていく中で必要になった結果、今の形に至るって理解でいいのか?」
委員長の説明は少し長くも感じるが、キリンを例に出すことで分かりやすくなんとなくではあるが理解はできた気がした。
「そういうことで良いんじゃないかしら? 次はダーウィンの自然選択説ね。こちらもキリンを例にすると、キリンの祖先は首が長いものも短いものもいたの。首の長いものは容易に木の枝の葉を食べることができて、短いものはそうでなかった。結果、首の長い固体がアフリカのサファリでは優位で首の長い固体が残っていって今の形になったって所ね」
俺には到底理解できなそうに無いことをスラスラと解説する委員長は本当に頭が良いのだと思う。俺が委員長の解説で理解出来たことは生存競争に勝ち残ったのが今のキリンであり、今を生きる生き物の形なんだということだ。
「委員長はすごいな。俺にはそこまで理解できないや」
「ふふ。西条君。一つだけ認識の違いを指摘すると、ダーウィンの自然選択説は突然変異では無くて、変異の結果、その環境に適応したもの。と解釈する方が適切だと思うわよ。テストには深い所まで出ないでしょうけれど」
委員長は俺に対しての解説を終えると、再び箸を進める。俺も途中で止めていた箸を動かし、食事を再開すると、弁当を食べ終わったであろう、いつもニコニコしている奏が一瞬真顔になって言う。
「ミッシングリンクって知ってる?」
普段、コロコロと表情を変えながら話す奏の表情の無い顔と、唐突に放たれた言葉が俺の頭に妙に残り、頭の片隅のわずかなしこりとなって残り続ける事となった。