第質話 筋肉痛と子蜘蛛たち
翌朝、助六はいつものように瀬川書房に出勤すると、そのままバックヤードに作られた”扉”を抜けて隔世にやってくる。
「ふああ。おはよう」
昨日の夜は、目まぐるしく展開した一日に興奮が冷めきらず、なかなか寝付けなかった助六である。
「おはようございますっ! あるじ様」
しかし、ぱたぱたと尻尾を振って駆け寄ってくる狐耳の少女は紛れもない本物だ。
助六はこのはに挨拶を済ませると、早速月影庵の裏にある土蔵へ向かった。
「おはよ、助ちゃん」
「鈴か。早いな」
助六が土蔵の扉の前に着くと、そこにはすでに軍手をして、動きやすいジャージ姿の鈴がスタンバイしていた。
片手には懐中電灯も握りしめ、昨日の反省を活かした装備を整えている。
「始業時間の十分前にはちゃんといないといけないじゃないの」
「まだ二十分も前だがな……」
腕時計に表示された時間を見て、助六は半眼で突っ込む。
そんな彼の視線などどこ吹く風で、鈴は早速作業を始めていた。
「今日は澪ちゃんが来るんだし、早めに作業も進めておかないとね」
「それもそうか」
助六も軍手を嵌めると、早速ガラクタの選別に取り掛かる。
「あああ……、筋肉痛がひどい!」
だがしかし、彼の動きは少しかがんだところで硬直する。
全身がビキビキと悲鳴を上げる。
言い訳のしようもないほどに典型的な、ただの筋肉痛だ。
「情けないわねぇ。普段運動しないからよ」
「うぐ、そんなこと言ったってなぁ」
一時期は部屋に引きこもる生活を送っていた助六にとっては、耳の痛い話だった。
だが、あまり唸っていても鈴の視線が鋭くなるのみである。
助六は悲鳴を上げる四肢に鞭打って体を動かした。
「ぬあああああ! 全身が痛いっ!」
昨日は軽々と運べていたサイズのガラクタが、今では鉛の塊にすら思えた。
筋肉がブチブチと千切れるような痛みを感じながら、なかばヤケクソで助六は運び出す。
「――ちょんっ」
「いああああああああああっ!??!?」
逼迫した筋肉に、鋭い突きが入る。
絶叫しながら助六が振り向くと、猫のような笑みを浮かべた鈴が立っている。
「てめ、コラ。鈴!! けがしちゃったら危ないだろっ!」
「そんなこと言われても、それ雑誌の束じゃないの。足に落ちたところで怪我なんてできないわよ」
むふふ、と人の悪い笑みを浮かべ、人差し指を突き出して鈴が近寄る。
助六は頬をひくつかせて後ろへと下がる。
「ね、助ちゃん。もう一回だけ……もう一回だけだから……」
「やめろって、いや、やめてくださいほんとに鈴さん!!!」
助六の懇願もむなしく、鈴は動きを止めない。
そうして数秒後、黄金ヶ原に絶叫が響き渡った。
「もう! 二人とも仲良くしてください」
「う、ごめんなさい……」
このはは頬を膨らませ、ぷりぷりと尻尾を振って怒る。
助六の絶叫を聞きつけて駆け付けた彼女が見たのは、ばつの悪そうな顔で立っている鈴と、ぴくぴくと脇腹を抑える助六だった。
「しかし、この湿布はよく効くなぁ」
助六は各所に貼られた湿布を見て、しみじみと漏らす。
それは、助六が筋肉痛だと知ったこのはが用意してくれたものだ。
貼るとじんわりとした温かさが広がり、緊張した筋肉を解きほぐしていく。
全身に薬効が浸透すると、ぽかぽかと春の陽気のような心地よさが彼を包んだ。
「隔世では一般的な湿布ですよ。月に一度やってくる薬師さんからまとめて買ってるんです」
この湿布は隔世の辺境に群生する薬草から作られたもので、その土地で暮らす妖が一つ一つ手作りで生産して売り歩いているのだという。
筋肉痛の他にも肩こりや眼精疲労、ちょっとした擦り傷などにも効果がある万能薬だ。
「へぇ、便利ね。現世でも使いたいわね」
湿布を全身に貼り、とろんと目をとろける助六を見て、鈴が言う。
だが、その言葉にこのはは難しい顔を作った。
「作る過程に妖術を使うらしいので、現世では十分に薬効が発揮できないかもしれません」
「そっか、残念だなー」
気軽に隔世と現世を行き来する鈴や助六はあまり意識していないが、本来二つの異界は互いに不干渉を貫く。
そのため、妖術といった隔世特有のものは、龍神が許可した甘太のような存在の物でなければ基本的には現世では効果を発揮しないのである。
「はい、これで最後です」
最後の湿布を腰の裏に張り付け、このはが言う。
「うぅぅ……! はぁ! ありがとう、このは。ずいぶん楽になった」
助六はTシャツを着て、ぐっと背伸びをする。
つい数分前まで全身に根を張っていたしびれるような痛みが、すっと抜けていた。
「うふふー、どういたしましてです」
晴れ晴れとした表情の助六に、このはも黄金色の尻尾を振って応える。
「それじゃあ、気を取り直してお仕事再開ですねっ」
このはの号令で、三人は庵を出ると蔵に向かう。
すると、そこには見覚えのある白い蜘蛛の体をした少女が立っていた。
「あっ、このはちゃん! おはようっす!」
「澪ちゃん! おはようございます」
昨日よりも早い時間に現われた澪の姿に、このはは驚いた様子である。
「よっ、昨日ぶり」
「助六さん! おはようっす!」
助六が声をかけると、澪は勢いよくお辞儀する。
鈴が挨拶して手を振っても、元気のよい弥次郎兵衛のようにぶんぶんと頭を振った。
「そんで、後ろに隠れてる子たちが妹かな?」
助六が澪の背後をのぞき込みながら言う。
「きゃー! 見つかっちゃった!」「ぐぬぬー、かんぺきにかくれてたはずなのにー」「あのにんげん、てごわいよー」「ふぇぇ、こわいよぉ」「おねーちゃーん、おもちゃまだー?」
澪の背後の茂み、そこに団子のように集まって隠れながら様子をうかがっていた小さな子蜘蛛の女の子たちが一斉に騒ぎ出す。
その数、ざっと二十人ほど。
「す、すみませんすみません!! ほんとは私だけで来るつもりだったんっすけど……」
澪は顔を赤らめ、ぶんぶんと頭を振る。
なんでも、このは達がおもちゃを譲るという話をこの妹たちは察知して、朝から澪の体にへばりついて来たそうだ。
「あはは、大丈夫ですよ。蔵の周囲なら突然漂着物が現れる心配もありませんし」
むしろご足労をおかけしました、とこのはが澪の妹たちの頭をなでる。
澪と同じ、透き通るような水色の髪の少女たちは、このはのやさしい手つきにされるがままである。
「かわいい~~! 私、ちっちゃな子って大好きなのよねぇ」
そんな様子を見ていた鈴も、辛抱たまらず妹たちに駆け寄ると、ふにふにと柔らかい頬をなでる。
早速、黄金ヶ原の女性陣は幼い少女たちと親睦を深めているようだった。
「このははともかく、鈴の順応性はすごいな……」
昨日、澪の姿を見て怯えていたとは思えない彼女の可愛がりっぷりに、助六はしみじみとつぶやく。
「すみません、私の愚妹たちが……」
呆然と立つ助六に、そろりと澪が近づき申し訳なさそうに頭を下げる。
「いやぁ、べつにいいんじゃないか? ほら、あんなに楽しそうだし」
本格的に妹たちの懐に入り込んだ二人は、にこやかに手をつないで談笑している。
茂みの奥に隠れていた子たちもみんな姿を現して、和やかな雰囲気である。
「そ、そうですね……。なんか私、心が軽くなったっす」
緊張が抜けた様子で、澪がほっと息をつく。
「助六さんは混じらないんですか?」
「え、俺? いやぁ、俺はちょっと……」
いくら効果が高いとはいえ、いまだずきずきと疼く全身の筋肉を鑑みて、助六はやんわりと断る。
「よし、それじゃあおもちゃも出してこようか」
「それなら私も手伝うっす!」
助六は蔵の中に入り、取っておいたおもちゃの山の入った籠を抱える。
そこに澪も加わり、二人は蔵の前におもちゃを並べていった。