第壱話 出戻りフリーターと化け狸
本日2話目の投稿です。
あともう一話も投稿する予定です。
ここは人々が暮らす現世。
半分を森に、もう半分をコンクリートに飲まれた、田舎以上都会未満の小さな町。
そんな町の片隅にその家はあった。
「じゃー、行ってくるわー」
「おーう、行ってこい行ってこい」
玄関の上がり框に腰掛けスニーカーを履く青年、助六はしがないフリーターだった。
輝かしい生活を夢見て上京したものの、めまぐるしい環境の変化やギスギスとした人間関係、埃臭く湿った生活に心身ともに困憊して、這々の体で故郷へと戻ってきたのはつい三ヶ月前のことである。
新卒というカードを使い切り、精神を病んだ彼は、自宅からほど近い書店でアルバイトに勤しんでいた。
共に住む祖父の源治に見送られ、助六は家を出る。
助六の住むこの白木町は、継ぎ接ぎだらけのアスファルトを挟んですぐ前に、枯れた田園風景が広がっている程度には田舎である。
だが、程よく閑散とした田舎の安穏な日々は、都会の荒波に嫌という程揉まれた助六に心の安寧をもたらした。
勤め先までの道を、初春の日和の陽気に照らされながら歩く。
冬の寒さも雪解け水となって小川に流れだし、畦道には蕗の薹が少しずつ顔を出している。
「今日はこんなに着込まなくてもよかったな」
パーカーの上から着ていた薄手のダウンジャケットを脱ぎながら、助六は一人息を吐いた。
燦々と降り注ぐ陽光をジャケットの黒は余すことなく抱え込み、少し汗ばむほどだ。
ビル風の吹きすさぶ都会とは違い、この地には心を解きほぐすような温かさがあった。
疲弊し、凍てついた助六の精神は、ここへ戻ってきたことで少しずつ癒えていた。
「や、助六ちゃん。こんにちは」
「八重子ばあちゃん。こんちはー」
畑の方から声がかけられる。
助六が顔を向けると、花柄の頭巾をかぶって鎌を持った老齢の女性がにこにことまだらな歯を見せていた。
彼女は助六の隣の家に住む八重子という名の老婦人である。
大の子供好きとして地元では有名で、助六もまた幼いころから何かと世話をしてもらっていた。
彼女にとって、助六などいくつになっても子供らしく、バイトのためこの道を通ると、彼女はこうして手を振って声をかけてくれているのだった。
「まーた、お仕事かね」
「そうそう、まあバイトなんだけど……。八重子ばあちゃんも畑仕事?」
「えぇ。大根さよーできとったから、また持って行くよー」
「ありがとう。じいちゃんに言っとくわー」
がんばってねぇ、と手を振る八重子ばあちゃんと別れ、助六は道を進む。
通りすがっただけの人々が気さくに声をかけてくれるという、ただそれだけの事が助六の顔に笑みを浮かべさせた。
次第に畑の数が減り、代わりに蔦の這う雑居ビルや小さなガソリンスタンドといった建物が目立つようになる。
町の中心地と呼ばれる広い通りの一角に、助六の勤め先である瀬川書房はあった。
「ちわっす」
「あ、助ちゃん! いらっしゃーい」
薄暗い店内に入った彼を出迎えたのは、青いエプロンをセーターの上から身につけた少女である。
「なんだ、鈴か」
「なんだとはご愛想ねー。あ、お父さんは蝶探してくるってさ」
助六の反応に餅のような頬を膨らませるのは、幼なじみでありこの店の一人娘である瀬川鈴だ。
淡い栗色の髪をひとまとめにした、溌剌とした少女だ。
都会から逃げ帰り、軽い人間不信に陥っていた彼を部屋から引きずり出したのも、この少女である。
「おっちゃん、最近蝶にはまってるの……」
「あはは……そうみたいだねー」
支給されたエプロンを身につけ、早速開店の準備を始める助六と鈴はいつものように雑談に興じる。
平日の早朝にわざわざ本屋にやってくる客は少ない。
十時の開店を迎えても、店のドアが動く気配は一切しなかった。
「この店、ちゃんと採算とれてんの?」
新刊を棚に並べながら助六が尋ねた。
面接など諸々をすっ飛ばして、一つ返事でアルバイトとして雇ってくれたことに少なくない恩を感じている彼だからこそ、閑古鳥の居座る店内は何とも気まずいものだった。
「んー? 別に大丈夫だよ。マエダの美容院とか、いろんな所に雑誌の定期購読とかしてもらってるし。何より、帳簿は私が管理してますから!」
そんな彼に、色とりどりのマーカーを使って可愛らしいポップを作っていた鈴は気軽に答える。
春になると蝶を追い始める父親を反面教師として育った彼女は、金銭面ではとても信用できた。
「昔から鈴はそこらへんちゃっかりしてたよなぁ」
思い出すのは、地元の高校で催された文化祭。
ほかのクラスが当然のように赤字を出しつつカンパを募りなんとか模擬店を開いていた所、鈴が会計を務めた助六たちのクラスだけは過去に類をみないほどの利益をあげた。
他のクラスの友人が臍を噛んでいるのを傍目に、高校近くのお好み焼き屋で豪勢な打ち上げを催したのは、助六の高校生活の思い出の中でも五本の指に入る輝かしいものだ。
「お金にルーズよりは何百倍もいいよ。お父さんなんか、今月のお小遣い早速虫取り網と籠に使っちゃって……」
思い出しただけでもむかむかしてきたと鈴はこめかみに青筋をたてる。
さわらぬ神に祟りなしと、助六はいそいそと作業を再開した。
「あ、いらっしゃー……?」
不意に店の扉が開き、来客を告げる。
レジに立っていた鈴が声をかけるが、尻すぼみに終わる。
「うん? どうした?」
不思議に思った助六が本棚の影から顔を出すと、困惑を顔に浮かべ固まる鈴が目に入る。
首を傾げつつ助六が視線をドアの方へと移す。
「…………たぬき?」
そこに立っていたのは、紛れもない狸だった。
ふわふわとした尻尾を揺らし、ドアの取っ手に手をかけて二つの足で立っている。
それだけならいざ知らず、狸は草履を履き、古式ゆかしい紋付の羽織袴を身にまとっていた。
「いかにも。ワシは狸である。だが狸は狸でも古来より連綿と続く血統正しい化け狸が一派、代々隔世を治める龍神様に使えてきた大五郎一族の当代、甘太である」
「た、たぬ……しゃべ……」
「ちょ、鈴!? おおーーい!」
甘太と名乗る狸は精悍な男の声で流暢に話し、鈴はマーカーを取り落としてぐるぐると目を回す。
きゅぅ、と唸って倒れる鈴を、助六は間一髪のところで抱きかかえた。
「ぬ? どうしたお二方。なにやら混乱しておる様子だが」
倒れた鈴を店のバックヤードに設けられた三畳ほどの座敷に寝かせ、助六は甘太に詰め寄った。
「そりゃそうだろ! 袴着て立ってしゃべる狸みて正気でいられるかっ!」
「ぬわっ!? や、やめんか! この、この……!!」
助六は甘太の脇の下を抱えて前後に揺さぶる。
宙に持ち上げられた狸はじたばたと足を振るが、それが無駄だと悟るとだらりと脱力した。
一方で助六は、もふもふとした毛皮の触感やじんわりと温かい体温から、それが本物の生きた狸であることを確信する。
「そろそろ、離してはくれぬか?」
「……ふん」
半べそをかきながら喉を震わせる狸をそっとおろしてやると、ぱたぱたと裾を払ったのち、甘太はきりりと視線を助六の合わせた。
「それで、お主が白木助六で相違ないな?」
「へ、俺? まあ、そうだけど……」
よもや自分の名前を知られているとは思わず、助六は虚を突かれて狼狽える。
その様子に構うことなく、甘太は続けた。
「ワシはここ現世とは違う世界、隔世より龍神様の使いとしてやってきた。助六殿には、折り入って頼みたいことがあるのだ」
「か、かくり……? 俺に頼みたいこと?」
甘太の口から飛び出す聞きなれない言葉の数々に、助六は混乱を深める。
甘太は顎に前足を置いて嘆息する。
「ひとまず、事情の説明から始めるとしよう」
そうして、甘太は話し始めた。
隔世という異界の存在と、そこで起きている問題について。