炎の転校生
新しい朝を迎える。
窓から射し込む春の陽光が、ぼくの意識を覚醒させていく。
午前六時十五分、今日の起床時間はちょっぴり早い。親父が家にいる時からそうだったが、森山家の朝食は、夕食と違って当番制で用意することになっている。本日はぼくのターンというわけだ。総員二名ではサイクルが早い。
手早く登校の準備を済ませたぼくは、制服の上からエプロンを纏いキッチンに立つ。フライパンに卵を放り込み→ぐちゃぐちゃに掻き混ぜる。ぼくにできる料理といえばこの程度だ。レパートリーは極めて少ない。
(それでも、妹を満足させるくらいはできる)
本人は「思考停止だから」と言って頑として料理に使わないが、柚子はマヨネーズに弱い……倒錯的な隠れマヨラーというわけだ。今回もマヨっとけば文句は言われまい。
と、思っていたのだが。
「ロシア人じゃないんだから、そろそろマヨネーズ依存はやめよう?」
朝食の席で、表情を〝おこ〟にして柚子は提案してくる。
「じゃあロシア人になろうぜ!」
「いーかげん料理の勉強しようよ。今日、学校から帰ったら特訓してあげる」
「フッ、ジャンケンに勝てない負け犬がよく鳴く」
「わたしは、兄さんのことを想って言ってるんだよ?」
ありがとう柚子。そんなに案じてくれるなんて、お兄ちゃん嬉しいよ。
「だが断る」
「断るのは却下します」
満面の笑みで言われては恐怖を覚える。
「約束だからね? ゆびきりげんまん、嘘ついたら針千本の~ます♪」
「ひとの小指に、強引に絡めてやるものなのか? それ」
「約束だからねっ!」
「はいはい……」
可愛い妹の頼みだ。付き合ってやるべ。
やれやれと嘆息して朝食を再開する。
「……」
約束、か。
そういえば、エリスとかいう子も約束がどうとか……。
「兄さん、どうかした?」
「なんでもない。それより朝食を片付けないと遅刻しちまうぞ」
さっさと食事を済ませ、シンクに皿を運ぶ。洗うのは帰ってからだ。
時刻は七時五分――。
「ああっ、もうこんな時間! 兄さん急いで!」
「急ぐなら先に行けばいいだろ。ぼくに構うな」
非情にもそう答えると、
「兄さんのばか……分かってるくせに……」
柚子は頬を膨らませ、ベソをかき始める。
「冗談だ。ちょっとトイレいかせてくれぇ」
十数分後、ぼくらは通学路を駆け抜ける疾風となっていた。
路地をすり抜け、他人の庭を横切り、大幅なショートカットコースでの通学を敢行する。
「兄さんトイレ長すぎだよ~っ!」
「今ごろツッコミか、妹よ。うろたえるな。前だけ見ろ!」
そんなことでは虎になれんぞ。
虎じゃあ……虎になるんじゃあ!
よその家の低い垣根を(内側から)跳び越えた先には、
「よっ。お二人さん」
「!?」
コンクリート塀に背中を預け、ニヒルな笑みを浮かべる秋津慎二の姿があった。その手には溢れんばかりの花束が握られている。
「慎二よ。何してンだ。遅刻するぞ」
私立・美翔高校には、そこらの公立校と違って零時限目なる授業が存在する。並の高校生より一時間は早く登校しなければならない。
「悲しいな友よ。俺はいつもの場所で、いつものように、森山兄妹が来るのを待っていただけだと言うのに」
「遅刻してでも待つな」
「それは愛ゆえに」
仰々しくのたまって、慎二は片膝をつく。花束を差し出す。
ぼくに? ノン。ぼくの後ろにピッタリくっついて震えている我が妹にだ。
「おお、姫。まだ某に心を開いてはくれませんか」
「もうそのへんで許してやってくれ」
柚子は、ぼく以外の男とは喋れない。どころか、近づかれるだけでこんな状態だ。
学校に関しては女子高に通っているので問題ないが、登校時にはぼくが、下校時には柚子の親友である葉月ちゃんが付き添っている。
何を隠そう、柚子を女子高に送ってから改めて登校するため、現在、ぼくの遅刻はほぼ確定なのである。柚子をあまり早起きさせるのも悪いので、普段もギリギリの時間で動いている。
「妹の男嫌いをなんとかしようって気持ちは嬉しいが、自重しろ」
「何を言う豊太郎。いや、お義兄さん。俺は本気で柚子ちゃんと結婚しグボォ!!」
タイガーアパカッ! ぼくの拳が慎二の水月にクリーンヒットした。
「効いたぜ、お前のパンチ……ガクッ」
「柚子。アホはほっといて行くぞ」
「う、うん」
マルナナサンイチ。柚子の通う女子高に到着する。
校庭には朝練をしているラクロス部の姿くらいしかない。ちなみに柚子は帰宅部だ。
「ま、こっちは余裕なんだよな」
「兄さんはアウト確定だけどね」
「それは言わないお約束」
「うん。いつもありがとね」
「気にするな」
柚子にしばしの別れを告げ、元きた道を駆け戻る。美翔高校は、柚子の通う女子高とは反対方向にある。つらい。
「おや」
ダッシュしていると、ふと、何かを踏んづけた感触を覚える。
駆け足のままアイドリング状態で振り返ると、倒れ伏している慎二の姿がある。
「そんなところで何してンの。遅刻してるぞ」
「お前のボディブローで動けなくなっているんだが、友よ」
「……悪かった。昼メシ奢るよ」
慎二に肩を貸す。
「では、DXカツカレー定食を所望する!」
あっ、このやろ。突然元気になりやがって。仮病を使ってたな!
「ワンコインにしてくれ」
「五百か」
「百円で」
「ちょっと待て。それだとライス小しかないぞ」
「お気づきになられましたか」
「気づくわ」
バカを言い合いながら通学路を往く。
なんだかんだ言って待ってくれていた親友に乾杯。
「そういやさ、豊太郎」
併走する慎二が、息を荒くして話しかけてくる。無理すんな。
「お前が柚子ちゃん送ってる間、俺、ヘンな女の子に声かけられたんだ」
「ヘンな女の子……」
まさか。
「その子ってさ、金髪で赤い瞳してなかった?」
「知り合いなのか?」
軽い眩暈を覚える。
「微妙に……で、何か訊かれた?」
「『豊太郎はどこだ』って。とりあえず、みそ高の場所を教えといた」
とてつもなく嫌な予感がするぞ。
はぁ……お家帰りたい。
「すげぇ可愛かったな。今度、紹介してくれよ」
「柚子LOVEじゃなかったのかよ」
「一夫多妻制を希望する」
「死んでしまえ」
吐き捨て、ぼくはギアを上げる。
「待てよ、おい、豊太郎! お前そんな足速かったっけ!?」
慎二に言われて、はたと自覚する。ずっと走りっぱなしのはずなのに、自分でもびっくりするほどペースが落ちていない。まったく息が切れていない。スピードだってその気になればもっと出せそうな感じだ。今がギアで四速とすれば、最大で十速くらい。
ぼくじゃないみたいだ。
「……」
しばらくして、我らがみそ高に到着する。正門はすでに閉ざされ、外敵の侵入を拒んでいる。――そんなもの、ぼくと慎二の前では無に等しい。
「行くぞ慎二ィ!」
「オウヨ!!」
慎二がレシーブの体勢をとり、校門に背を向ける。
ぼくは十分な助走から、慎二の重ねた掌を踏み台にした。
「「合体奥義・クライマックスジャ――――ンプ!!!!」」
というのは冗談で。
門柵の端に、無理すれば一人通れるスペースがあるのだった。肥満体型は不可だが。
ぼくたちはこそこそグラウンドに入り、無人の昇降口まで侵攻する。
「時間的に、まだHRをやってるはずだ。こっそり教室に入れば気づかれまい」
「OK慎重にいこう」
泥棒ウォークで三階まで上がり、匍匐前進で廊下を進む。
そしてついに、ぼくと慎二のクラス2-Xまでやって来た。
後ろのドアをそ~っと開け、ぼくらは匍匐による前進を続ける。教室の床は使い古した雑巾の臭いがするけど、そこは忍耐だ!
「~~~で、時間割が変更になるので~~~」
教壇の上では、担任の小山田がHRを進行している。そのダミ声を聞き流しつつ、ぼくはなんとか自分の席へ。小山田の視線が逆サイドに行ったのを見計らって瞬時に着席する。突っ伏し、あたかも最初からそこにいたように演出する。
ちらりと隣を見る。慎二も成功したようだ。ピースサインが返ってきた。
「と、今日のHRはここまで。何か質問は?」
返事はなし。タイミングよくHRが終わった。
かに思われたその時、教室のドアが外から叩かれる。
……。
しかし、いつまで経っても入室してくる気配はない。小山田が歩いて行き、教室のドアをスライドさせる。誰もいなかった模様。上半身を廊下に乗り出し、首を左右に振っている。
他のクラスのいたずらか? 高校生にもなってそんなアホな。
推理しているうち、小山田が廊下へと吸い込まれて消える。
(いったい何がどうしたんだ?)
(さあ……)
小山田の消失から数十秒が経つ。
しだいにざわめき始める2-X。それを断ち切るように、大袈裟な足どりで小山田が教室に入ってくる。まるで軍靴のそれだ。ハッキリ言って挙動不審。
数十秒の間に、小山田に何があったというのか?
「諸君ッ!!」
教壇に上がるや否や、小山田は叫ぶ。イッちゃってる目で、顔に皺を寄せて激昂する。
2-Xの生徒たちは状況を理解できず、唖然としたまま継がれる言の葉を待つ。
「諸君らに、転入生を紹介するッ!!」
なんで叫ぶンだよ小山田?
それに、HR終わってから転校生の紹介って順番おかしいだろ。
「さあ、入ってきたまえ――ッ!!」
小山田が、ショーの支配人よろしく入口へと手を掲げる。
ふわりと風を切って現れたのは――
(ああ、やっぱりそうなるのか)
美翔高校のブレザーの制服を纏った、あの隻腕の少女だった。
(つづく)